第5話 「ちゃぶ台の向こう側」
夕方になると、家の中の音が少しずつ変わる。
外の声が減って、代わりに台所の音が大きくなる。
鍋の蓋が鳴り、味噌汁がふつふつと音を立てる。
包丁がまな板を叩く音は、朝より少しだけゆっくりだ。
翔は、ちゃぶ台の横で寝転がっていた。
「邪魔よ」
千鶴が言う。
「もうすぐご飯なんだから、ちゃんと座りなさい」
「あとで」
「あとでじゃないの」
軽く足でつつかれて、しぶしぶ起き上がる。
ちゃぶ台の上には、すでに皿が並び始めている。
湯気が立って、部屋の空気がやわらかくなる。
その向こうで、テレビがついていた。
箱のような形の、少し奥行きのあるテレビだ。
上にはレースの布がかけられていて、その上に何かの置物が乗っている。
画面はまだぼんやりしていた。
「ちょっと、ちゃんと映ってないじゃない」
千鶴が言うと、フミがゆっくり立ち上がる。
「貸してごらん」
テレビの前に行って、横についているつまみを、カチ、カチ、と回す。
画面が一瞬乱れて、白い線が走る。
ザーッという音がして、やがて人の顔が浮かび上がる。
「これでいいよ」
「さすがね」
「慣れてるだけさ」
フミはそう言って、元の場所に戻った。
翔はそのやりとりを見ながら、なんとなく思った。
テレビは、いつも誰かが直している。
勝手にきれいに映ることは、あまりない。
やがて父が帰ってきた。
戸が開く音と一緒に、油の匂いが少しだけ流れ込む。
「ただいま」
「おかえり」
短いやりとり。
父は手を洗い、顔を拭いて、ちゃぶ台の前に座る。
「始めていいか」
「どうぞ」
みんなが揃う。
「いただきます」
箸が動く。
しばらくは、食べる音だけが続く。
テレビでは、ちょうど歌番組が始まっていた。
派手な衣装を着た人が、明るい声で歌っている。
翔は、それを見ながらご飯を食べる。
「ちゃんと前見て食べなさい」
千鶴に言われて、少しだけ姿勢を直す。
けれど、目はやっぱりテレビの方へ行く。
隣では、真理が肘をついて見ていた。
「この人、また出てる」
「人気あるんだろ」
父が言う。
「同じような歌ばっかりじゃない」
「そうか?」
「そうよ」
真理は少しつまらなそうに言った。
フミが、味噌汁を飲みながら口を開く。
「同じでもいいんだよ」
「なんで」
「同じだから、安心するんだよ」
静かな言い方だった。
真理は何も言わず、箸でご飯をつつく。
父がぽつりと言った。
「変わるのは、外だけで十分だ」
誰に言ったのか分からない。
けれど、その言葉は、少しだけ重かった。
千鶴が、すぐに話を変える。
「そういえば、魚もらったのよ」
「ああ」
「あとでちゃんとお礼しといてよ」
「分かってる」
「“分かってる”じゃなくて」
「やるって」
短いやりとり。
どこかいつもの調子だ。
テレビでは、次の歌が始まる。
さっきより少し静かな曲だ。
部屋の中も、それに合わせるように落ち着いていく。
食事が終わるころには、外はもう暗くなっていた。
片付けが始まる。
皿を重ねる音、水の流れる音。
翔は、またちゃぶ台の横に座ってテレビを見ていた。
画面が少し揺れる。
「また映りが悪いわね」
千鶴が言う。
フミが立ち上がろうとする前に、翔が先に動いた。
「やる」
「できるのかい」
「うん」
テレビの前に行って、つまみに手をかける。
カチ、カチ。
少しずつ回す。
画面が乱れて、また戻る。
「そこ、止めなさい」
フミが言う。
言われた通りに止めると、ぴたりと映像が安定した。
「ほら」
「ほんとだ」
翔は少しだけ得意になる。
自分でも、ちゃんとできた気がした。
フミは、その様子を見て、やわらかく笑った。
「いい手つきだね」
「そう?」
「うん。ちゃんと見てる証拠だよ」
翔は、もう一度画面を見た。
人が歌っている。
さっきと同じようで、少し違う。
でも、それでいい気がした。
ちゃぶ台の上は、もう片付いている。
けれど、そこにはまだ、人が座っていた気配が残っている。
テレビの音が、部屋にゆっくり広がる。
外では、もうほとんど声がしない。
昼間のにぎやかさが嘘のように、静かだった。
その中で、家の中だけが、少しだけ明るくて、少しだけあたたかい。
翔は、その真ん中に座っていた。
それが、当たり前の夜だった。




