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第32話 「折れる音は小さい」

 朝は、変わらず来た。

 でも——中は、もう変わっていた。

 人が少ない。

 音も少ない。

 機械は一部、止まったまま。

 動いているところだけが、かろうじて息をしている。


 その中で、フミは立っていた。

 入口の近く。

 いつもより少し奥。

 邪魔にならない場所を選んでいる。

 来るかどうか、少し迷った。

 でも——来てしまった。

 気になったから。

 放っておけなかったから。

「……大丈夫?」

 小さく声をかける。

 誰に、というより——空気に。

 翔が振り返る。

「ああ」

 答える。

 でも、顔は大丈夫じゃない。

 分かる。

 分かってしまう。

「無理すんなよ」

 続ける。

「してねえよ」

 すぐ返ってくる。

 少しだけ強い。

 余裕がない声。

「……そっか」

 それ以上は言わない。

 言えない。

 今のここには、優しい言葉を受け取る余裕がない。


 フミは、少しだけ後ろに下がる。

 壁に近づく。

 様子を見る。

 それしかできない。

 中では、動きが続いている。

 でも——どこかぎこちない。

 誰かが足りない。

 誰かが無理している。

 全部、見えてしまう。

 見たくなくても。

 そのとき——

 佐々木のことを思い出す。

 あの店。

 油の音。

 ラジオ。

 同じ“働く場所”なのに、空気が違った。

 どっちがいいとかじゃない。

 ただ——

 ここは、今、ギリギリだった。

「……こんなになるんだ」

 ぽつりと、漏れる。

 誰にも届かないくらいの声。

 でも、自分にはちゃんと聞こえる。

 昔は、もっと笑っていた。

 忙しくても、どこか余裕があった。

 今は——ない。

 ただ回すだけ。

 削りながら。


「翔、それ!」

 声が飛ぶ。

「ああ!」

 反応する。

 動く。

 でも、一歩遅れる。

 そのズレが、また広がる。

 息が、少し荒い。

 手の動きが、鈍い。

 自分でも分かる。

 でも——止まれない。

 止まったら、回らない。

「……大丈夫か」

 隆一が言う。

 近くで。

「大丈夫」

 即答する。

 反射で。

 そのとき——

 手が、止まる。

 ほんの一瞬。

 力が、抜ける。

 視界が、揺れる。

「……っ」

 何か言おうとして、言葉が出ない。


 次の瞬間——

 体が、前に崩れる。

 ドン、と鈍い音。

 床に、落ちる。

 一瞬、何が起きたか分からない。

 音だけが、残る。

「……翔?」

 誰かの声。

 遅れて、理解が追いつく。

 倒れた。

 翔が。

「おい!」

 隆一が駆け寄る。

 肩を掴む。

 揺らす。

「翔!」

 返事がない。

 目は閉じている。

 呼吸は——ある。

 でも、浅い。

「水!」

 誰かが叫ぶ。

 バタバタと音がする。

 さっきまで止まりかけていた空気が、一気に動く。

 フミは、その場から動けなかった。

 目の前の光景が、現実に見えない。

 ただ——

 胸が、強く締まる。

「……やめてよ」

 思わず、声が出る。

 小さく。

 でも、震えている。

「こんなの……」

 続けられない。

 言葉が崩れる。


 隆一は、翔を抱え起こす。

「外、連れてく」

 短く言う。

 誰にでもなく。

 判断だった。

 翔の体が、重い。

 でも、持ち上げる。

 そのまま外へ出る。

 ドアが開く。

 光が入る。

 風が通る。

 外の空気が、少しだけ冷たい。

 翔を壁に寄せる。

「……おい、聞こえるか」

 声をかける。

 反応は、すぐにはない。

 時間が、少し伸びる。

 やがて——

「……っ」

 小さく、息が動く。

 まぶたが、わずかに揺れる。

「……隆一……?」

 かすれた声。

 戻ってきた。

 意識が。

「無理すんな」

 すぐに言う。

 強く。

「……大丈夫……」

 翔が言う。

 また、それ。

 でも——

「大丈夫じゃねえ」

 隆一が遮る。

 はっきりと。

 初めてだった。

 否定したのは。

「もう、無理だ」

 低く言う。

 自分に言い聞かせるみたいに。

 翔は、何も言えない。

 言葉が出ない。

 体が、動かない。


 フミが、少し遅れて外に出てくる。

 二人を見る。

 何も言えない。

 ただ、そこにいる。

 それだけ。

 でも——

 それしかできない。

「……休め」

 隆一が言う。

 翔に。

 命令みたいに。

 翔は、少しだけ目を閉じる。

 抵抗しない。

 できない。

 その様子を見て——

 フミの中で、何かが崩れる。

「……これ、続くの?」

 ぽつりと出る。

 誰に向けたか分からないまま。

 でも——

 確実に、聞こえる。

 隆一は、答えない。

 答えられない。

 沈黙が、返事になる。

 それで、分かる。

 限界は、もう来ている。

 とっくに。


 遠くで、ラジオが流れている。

 古い歌。

 明るい声。

 懐かしい旋律。

 誰かが、いつも通りに流している。

 この町のどこかで。

 変わらないものも、確かにある。

 でも——

 ここは、変わってしまった。

 もう、同じじゃない。


 フミは、空を見上げる。

 曇っている。

 ずっと、変わらない空。

「……終わるんだね」

 小さく言う。

 誰にも聞こえないくらいで。

 でも——

 自分には、はっきり聞こえた。

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