第31話 「削るということ」
機械は、動かなかった。
スイッチを入れても、音は戻らない。
沈黙のまま、そこにある。
昨日と同じ場所。
でも、まるで別の空間みたいだった。
隆一は、前に立っていた。
腕を組んだまま、機械を見ている。
何も言わない。
周りも、黙っている。
誰もが分かっていた。
——このままじゃ、回らない。
「……部品、いつ来る」
翔が聞く。
「早くて、三日」
短い答え。
三日。
その数字が、重く落ちる。
今ですら回っていないのに、三日。
持つわけがない。
沈黙。
誰も次を言えない。
その中で——
隆一が、口を開いた。
「……削る」
低く言う。
小さい声。
でも、全員に届く。
「仕事、減らす」
はっきりと。
空気が、変わる。
「……どれを」
誰かが聞く。
その問いが、一番きつい。
隆一は、少しだけ目を閉じる。
考えているんじゃない。
決めるために、止めている。
そして——
「……古いとこから切る」
言う。
ゆっくりと。
言葉を選ばずに。
現実だけを出す。
名前が、浮かぶ。
長く続いてきた取引先。
昔からの付き合い。
顔も、分かる。
声も、思い出せる。
でも——
切る。
「……まじかよ」
誰かが漏らす。
責めているわけじゃない。
でも、受け止めきれない。
「他にあるか」
隆一が返す。
静かに。
でも、逃げない。
誰も答えない。
答えは、ないから。
「……やるぞ」
それで終わり。
決定だった。
感情は、置いていく。
持っていたら、進めない。
翔は、何も言えなかった。
分かっている。
正しい。
でも——
それでも、重い。
その日、電話が何本もかけられた。
黒い受話器を持つ手が、少しだけ強くなる。
「……すみません」
同じ言葉を、何度も繰り返す。
「今回は——」
続きは、短い。
長く言えない。
言えば、崩れる。
向こうの沈黙が、刺さる。
『……そうか』
それだけ返ってくる声もある。
責めない。
でも、温度が下がる。
『分かった』
短く言って、切れる。
その音が、やけに響く。
カチン。
一つずつ、切れていく。
音にならないものも含めて。
長く続いてきたものが、そこで終わる。
そのたびに、何かが削れる。
中から。
確実に。
同じ頃。
佐々木は、手を止めていた。
初めてだった。
動きが、追いつかなかった。
「……どうした」
男が言う。
鍋を振りながら。
「……いや」
返す。
でも、次が出ない。
腕が、上がらない。
力が、入らない。
視界が、少しだけ揺れる。
「……一回、外出ろ」
男が言う。
いつもより、少しだけ低い声。
「大丈夫です」
反射で言う。
「大丈夫じゃねえ顔してる」
即座に返される。
逃げ場がない。
佐々木は、少しだけ黙る。
そして——
手を止める。
外に出る。
扉を開ける。
鈴が鳴る。
チリン、と軽い音。
それが、やけに遠く感じる。
外の空気が、冷たい。
壁にもたれる。
息を吐く。
長く。
でも、足りない。
胸が、重い。
頭が、ぼんやりする。
「……くそ」
小さく漏れる。
自分に向けて。
空を見る。
曇っている。
変わらない。
何も変わらないのに——
自分だけが、削れていく。
扉が開く。
男が出てくる。
煙草に火をつける。
何も言わない。
しばらく、並んで立つ。
「……初日から飛ばしすぎだ」
ぽつりと。
「ここ、そういうとこじゃねえ」
煙を吐く。
「潰れねえやつが、残るだけだ」
淡々と。
説明でも、慰めでもない。
事実。
佐々木は、少しだけ笑う。
「……残りますよ」
かすれた声。
「だろうな」
男も笑う。
短く。
「でもな」
少しだけ間。
「削れ方、間違えると折れるぞ」
視線は、こっちを見ない。
でも、言葉は届く。
佐々木は、何も言わない。
言えない。
分かっているから。
もう、削れ始めている。
夜。
工場の灯りは、少し減っていた。
消している場所がある。
使わない場所。
使えない場所。
静かだ。
音が、少ない。
翔は、受話器を置く。
また一つ、終わった。
返事は、短かった。
それで十分だった。
隆一は、壁にもたれている。
立ったまま。
座らない。
座ると、立てなくなりそうだから。
「……あと、どれくらいだ」
翔が聞く。
数字の話じゃない。
持つかどうかの話。
隆一は、少しだけ考える。
そして——
「……分からん」
正直に言う。
初めてだった。
分からないと認めたのは。
その言葉が、一番重い。
外から、音がする。
ラジオ。
古い歌。
明るい旋律。
笑っているみたいな歌声。
この場所には、合わない。
でも——
消えない。
ずっと流れている。
下町の、どこかで。
誰かがつけている。
続いている。
数日後。
紙が一枚、置かれていた。
机の上に。
白い封筒。
少しだけ、角が折れている。
隆一が、それを開ける。
中身を読む。
表情は、変わらない。
でも——
目が、少しだけ止まる。
「……来たか」
小さく言う。
翔が見る。
「何だ」
「期限だ」
それだけ。
短く。
紙を渡す。
そこには、日付が書かれている。
立ち退き。
契約終了。
猶予。
全部、並んでいる。
数字が、はっきりしている。
逃げられない形で。
「……あと、これだけか」
翔が言う。
声が、少しだけ乾く。
隆一は、何も言わない。
紙を見たまま。
その背中が——
静かに、追い詰められている。
時間が、形を持った。
見えるようになった。
終わりまでの距離が。
外では、またラジオが流れている。
同じ声。
同じ歌。
変わらない。
でも——
ここは、もう同じじゃない。
削れて、削れて、
残ったものだけが、そこにある。
そして——
時間だけは、止まらない。




