第29話 「削れていく音」
朝は、早かった。
というより——終わっていなかった。
佐々木は、壁にもたれていた。
狭い厨房の裏。
油の匂いが染みついている。
時計を見る。
針は、もうすぐ五時を指している。
昨日の朝から、ずっとここにいる気がした。
「……休んでいいぞ」
奥から声が飛んでくる。
あの男だ。
「その代わり、回らなくなるけどな」
軽く言う。
冗談みたいに。
でも——事実だ。
「……いいです」
佐々木は答える。
短く。
体が重い。
腕がだるい。
足が、少し震えている。
でも、動けないほどじゃない。
まだ、いける。
そう判断する。
「そうか」
それ以上は言わない。
また鍋の音が始まる。
火が上がる。
油が弾ける。
ラジオが流れている。
古いニュース。
昔の景気の話。
笑い話みたいに語られている。
今とは、違う時代。
でも——同じ場所。
「皿!」
声が飛ぶ。
「はい」
反射で動く。
手が勝手に動く。
考える余裕はない。
ただ、回す。
流す。
つなぐ。
それだけ。
時間の感覚が、曖昧になる。
朝なのか、昼なのか、夜なのか。
区別がつかない。
ただ、音だけがある。
鍋。
油。
声。
そして——
自分の息。
同じ頃。
「……足りねえな」
隆一が言う。
低く。
工場の中は、音がまばらだった。
いつもなら、もっと響く。
機械の音。
人の声。
でも今日は——間がある。
空いている。
「ここ、誰やる」
翔が言う。
指差す先。
本来なら二人いる場所。
今は、誰もいない。
「俺やる」
隆一が即答する。
「じゃあ、こっち誰もいなくなる」
「……回すしかねえだろ」
それで終わり。
正解はない。
ただ、選ぶだけ。
翔は、歯を食いしばる。
「……分かった」
動く。
慣れていない場所に入る。
手順が、少し遅れる。
リズムが狂う。
それが、全体に広がる。
「遅い!」
誰かの声。
責めているわけじゃない。
でも、余裕がない。
空気が、少しずつ荒れていく。
「水!」
「はい!」
佐々木がコップを差し出す。
手が、少し震える。
気づかないふりをする。
男が一口飲む。
「……顔、死んでるぞ」
ちらっと見る。
笑っている。
でも、見ている。
「大丈夫です」
即答する。
考えずに。
「そうか」
それだけ。
深くは聞かない。
聞いても、意味がないから。
「次いくぞ」
また声が飛ぶ。
動く。
止まらない。
止められない。
「……ミスだ」
翔が言う。
手元を見る。
工程が一つ、飛んでいる。
「どこだ」
「ここ」
隆一が確認する。
一瞬、目が細くなる。
「……やり直す」
短く言う。
「時間ねえぞ」
「でも、このまま出せねえだろ」
正論。
でも、現実は厳しい。
一瞬、止まる。
全体が、詰まる。
「……くそ」
誰かが吐く。
空気が、さらに重くなる。
昼を過ぎても、終わらない。
人は足りない。
手は足りない。
時間も、足りない。
削れていく。
少しずつ。
確実に。
夕方。
佐々木は、外に出た。
少しだけの休憩。
壁に背をつける。
空を見る。
曇っている。
同じ空。
でも、見え方が違う。
ポケットを探る。
何もない。
連絡する相手もいない。
いや——
いる。
でも、しない。
もう、別の場所にいるから。
息を吐く。
長く。
「……きついな」
小さく言う。
初めて、誰にも向けずに出た本音。
でも——
「やめるか?」
後ろから声。
振り返る。
あの男が立っている。
煙草をくわえている。
「今なら、まだ間に合うぞ」
軽く言う。
試すみたいに。
佐々木は、少しだけ笑う。
「……やめませんよ」
はっきり言う。
迷いはない。
「だろうな」
男も笑う。
煙を吐く。
「顔に出てる」
同じことを言う。
誰かと同じ。
でも、意味が違う。
「その顔なら、潰れねえ」
ぽつりと。
煙の向こうで言う。
保証じゃない。
ただの感覚。
でも——
少しだけ、支えになる。
夜。
工場の灯りは、まだ消えない。
でも、音は弱い。
疲れている。
全員が。
「……今日はここまでだ」
隆一が言う。
遅い判断。
でも、限界だった。
誰も反論しない。
できない。
翔は、その場に座り込む。
息が荒い。
手が、重い。
全身が、だるい。
「……これ、続くのか」
誰かが言う。
誰にでもなく。
隆一は、答えない。
答えられない。
ただ、立っている。
その背中が——
昨日より、確実に削れている。
外では、同じように灯りがついている。
小さく。
どこかで、誰かが働いている。
続けている。
やめていない。
でも——
どこも、楽じゃない。
その夜、ラジオから流れたのは、古い歌だった。
明るい曲。
前向きな歌詞。
それなのに——
どこか、遠い。
今の場所には、届かない。
ただ、流れているだけ。
ひびは、もう入っている。
見えないところから。
静かに。
確実に。
そして——
戻らない。




