第2話 「工場は町の心臓」
父の工場は、家のすぐ裏手にあった。
といっても、たいそうな建物ではない。木造の壁に、ところどころ鉄板を打ちつけて補強した、いびつな四角だ。
雨が強い日は、屋根が少しだけ騒がしくなる。
朝、シャッターが上がると、そこから一日が始まる。
ガラガラガラ、と重たい音。
続いて、機械のスイッチが入る。
ウィン、と一度息を吸うような音がして、やがて低く唸りはじめる。
その音が、路地に流れ出る。
翔はその音が好きだった。うるさいと思ったことは一度もない。むしろ、それが聞こえていないと、何か大事なものが抜け落ちたような気がする。
その日も、いつものように音がしていた。
翔は学校から帰ると、ランドセルを放り出して、そのまま裏へ回った。
「ただいまー」
声をかけると、機械の音にかき消される。けれど、父にはちゃんと聞こえているらしい。
振り向きもせずに、片手をひらりと上げた。
油で黒くなった作業着。腕まくりをした前腕には、細かい傷がいくつもある。
「勝手に入るなって言ってるだろ」
言いながらも、声は強くない。
「入ってないよ、まだ外」
「同じだ」
父は短く言って、また機械に向き直る。
金属の棒が回転している。そこに刃物が当たり、削りかすが細い糸のように巻きついていく。光を受けて、きらきらしていた。
翔は、その様子を飽きずに見ていられた。
「それ、何作ってるの」
「見りゃ分かるだろ」
「分かんないよ」
父は少しだけ手を止めて、こちらを見た。
「分からなくていい」
「なんで」
「分かると、つまんなくなる」
よく分からない理屈だったが、父は本気で言っているようだった。
そのとき、横から声がした。
「おう、坊主。来てたのか」
工場の奥から顔を出したのは、父と一緒に働いている佐久間だった。
年は父より少し上で、いつもどこか楽しそうな顔をしている。
「こんにちは」
「こんにちは、じゃねぇよ。学校帰りだろ。宿題やったのか」
「これから」
「だめだな、それは。大人になっても同じこと言うぞ」
「言わないよ」
「言う言う。俺なんか、いまだに言ってる」
けらけらと笑う。
父が、呆れたように言った。
「威張るな」
「威張ってねぇよ。正直なだけだ」
そう言って、佐久間はポケットから何か取り出した。
「ほら、これやる」
手渡されたのは、小さな金属の塊だった。丸く削られていて、ひんやりしている。
「なにこれ」
「失敗作だよ」
「失敗なの?」
「そう。寸法がちょっとだけ合わなかった」
佐久間は指でほんの少しの幅を示した。
「こんだけズレただけで、もう使えねぇんだ」
「もったいないね」
「もったいないよなぁ」
言いながら、あっさり頷く。
「でも、しょうがねぇんだ。そういうもんだからな」
翔は、その金属を光にかざしてみた。きれいに丸くて、どこが悪いのか分からない。
「これ、もらっていいの」
「いいよ。どうせ捨てるだけだ」
「やった」
翔はポケットにしまった。
父がそれをちらりと見て、何も言わなかった。
しばらくすると、機械の音が一段と大きくなった。キィン、と甲高い音が混じる。
「おい、刃、替えろ」
父が言う。
「はいはい」
佐久間が手際よく動く。油の匂いが少し強くなる。
工場の中は、いつも同じ匂いがした。金属と油と、少し焦げたような匂い。
それが服にもついて、家の中にまで入り込んでくる。
母はよく「また油の匂い」と言っていたが、翔にとっては、それも家の匂いの一つだった。
外では、誰かが通りかかったらしく、声がした。
「今日もやってるねぇ」
父が短く答える。
「まあな」
「景気はどうだい」
少し間があった。
「ぼちぼちだ」
それ以上は何も言わない。
通りすがりの足音が遠ざかる。
佐久間が、ぽつりと言った。
「便利な言葉だな、“ぼちぼち”ってのは」
「うるさい」
「いいじゃねぇか。本当のこと言ったら、みんな困るだろ」
父は何も言わず、機械に向き直った。
音がまた一定に戻る。
翔は、そのやりとりをなんとなく聞いていた。
意味はよく分からないが、さっきまでと少し違う空気になった気がした。
けれど、それも長くは続かない。
すぐに、別の声が飛び込んでくる。
「隆一さん、いるかい!」
表の方からだ。
顔を出したのは、近所の魚屋だった。手には新聞紙に包まれた何かを持っている。
「さっきいい鯵が入ってね。これ、持ってきた」
「なんだ急に」
「余ったんだよ。あんたんとこ、こういうの好きだろ」
父は少しだけ顔をしかめたが、結局受け取った。
「あとで金払う」
「いらないよ、そんなもん」
「そういうわけにはいかないだろ」
「いいって。今度なんか作ってくれりゃ」
魚屋は笑って、さっさと帰っていく。
佐久間が小さく吹き出した。
「回ってるなぁ」
「何が」
「いや、なんでもねぇ」
父は包みを見て、ため息をついた。
「千鶴に怒られるな、また」
「いいじゃねぇか。晩飯が豪華になるぞ」
「そういう問題じゃない」
そう言いながらも、どこか困ったような、少しだけ嬉しそうな顔だった。
翔は、その様子を見て、なんとなく思った。
この工場は、ただ物を作っているだけじゃないのかもしれない、と。
音があって、人が来て、何かが行き来している。
それは家の中と同じで、路地ともつながっている。
機械の音が止まると、町が少し静かになる。また動き出すと、何かが戻ってくる。
父の工場は、そうやって一日中、町と一緒に動いていた。
まるで、心臓みたいに。
翔は、ポケットの中の金属を握った。
ひんやりとして、少し重い。
それが、なぜか安心するもののように思えた。




