第28話 「出ていく音」
朝は、いつもより早かった。
まだ空が薄い。
街の音も、ほとんどない。
シャッターの並ぶ通りに、ひとつだけ人影があった。
佐々木だった。
足元に、古いボストンバッグ。
それほど大きくない。
必要なものだけ、詰めたサイズ。
それで足りる、と決めた大きさ。
店の前に立つ。
鍵は、まだ閉まっている。
中は暗い。
当たり前の光景。
でも——今日だけは、違って見える。
少しだけ、息を吐く。
ドアノブに手をかける。
当然、開かない。
分かっていたのに、少しだけ止まる。
「……だよな」
小さく笑う。
ポケットから、鍵を出す。
回す。
カチ、と音がする。
扉を開ける。
中に入る。
空気が、まだ夜のままだった。
静かで、冷たい。
電気はつけない。
そのまま奥まで歩く。
見慣れた場所。
何度も立った場所。
同じ位置で、立ち止まる。
カウンター。
壁。
古い傷。
全部、知っている。
でも——もう、ここじゃない。
バッグを足元に置く。
手を、カウンターに置く。
木の感触。
少しざらついている。
しばらく、そのまま。
何も動かない。
時間だけが、過ぎる。
外で、シャッターの音が一つ鳴る。
誰かが店を開け始めている。
朝が、来る。
佐々木は、手を離す。
振り返る。
出口を見る。
そこで、足音がした。
ドアが開く。
光が、少し入る。
「……早いな」
隆一だった。
立ったまま、こちらを見る。
少しだけ驚いている。
「そっちこそ」
佐々木が返す。
いつもと同じ調子で。
でも、少しだけ違う。
間がある。
隆一は、中に入る。
ドアを閉める。
少しだけ暗さが戻る。
佐々木の足元を見る。
バッグ。
それで、分かる。
「……今日か」
「今日だ」
短いやり取り。
それ以上、説明はいらない。
しばらく、何も言わない。
言うことは、もうほとんど出尽くしていた。
それでも——
何かを探しているみたいに、時間だけが流れる。
「……あっちは?」
隆一が聞く。
「すぐ入れる」
佐々木が答える。
「人足りねえってよ」
「そうか」
それだけ。
良いとも、悪いとも言わない。
「そっちは?」
佐々木が聞く。
少しだけ間があく。
「……やる」
隆一が言う。
それだけ。
昨日と同じ言葉。
でも、重さが違う。
もう、引けない位置にいる。
「だろうな」
佐々木が小さく笑う。
分かっていた顔。
そのとき、またドアが開く。
翔だった。
少し息を切らしている。
二人を見る。
状況を、すぐに理解する。
言葉が、出ない。
ただ、立っている。
「……行くのか」
やっと出た言葉。
「ああ」
佐々木が答える。
迷いはない。
もう、決まっている。
翔は、少しだけうなずく。
何か言おうとして——やめる。
言葉にすると、軽くなる気がした。
代わりに、一歩近づく。
「……気をつけろよ」
それだけ言う。
短く。
でも、本音。
「お前もな」
佐々木が返す。
同じ温度で。
それで、十分だった。
隆一は、何も言わない。
ただ、少しだけ顎を引く。
それが、答えだった。
佐々木は、バッグを持つ。
肩にかける。
重くはない。
でも、軽くもない。
ドアに向かう。
一歩、歩く。
足音が、やけに響く。
二歩。
三歩。
そこで、少しだけ止まる。
振り返らない。
そのまま言う。
「……やめんなよ」
小さく。
でも、はっきり。
「どっちもな」
続ける。
誰に向けたか分からない。
でも、確かに届く。
そして——
ドアを開ける。
外の光が入る。
少し眩しい。
そのまま、出ていく。
足音が遠ざかる。
すぐに聞こえなくなる。
ドアが、ゆっくり閉まる。
カタン、と音がする。
それで終わり。
静かになる。
さっきまでと同じ場所。
同じ空間。
でも——
確実に、何かが減っている。
空気が、少し軽い。
そして、少し冷たい。
翔は、ドアの方を見たまま動かない。
隆一も、同じだった。
誰も、すぐには動かない。
しばらくして——
「……やるぞ」
隆一が言う。
振り返らないまま。
その声で、現実に戻る。
翔は、うなずく。
「ああ」
短く。
二人は、動き出す。
同じ場所で。
減ったままの状態で。
それでも——
止まらない。
昼を過ぎた頃。
最初の違和感が来た。
「……まだ来てねえのか」
翔が言う。
入口の方を見る。
いつも来るはずの人が、いない。
時間は、もう過ぎている。
隆一は、時計を見る。
少しだけ、眉が動く。
「……連絡は?」
「ねえ」
短い沈黙。
そのとき、ドアが開く。
別の人間が入ってくる。
少し気まずそうな顔。
「……悪い」
入ってすぐに言う。
「俺、今日で抜けるわ」
あっさりと。
でも、目は逸らしている。
空気が、止まる。
「急で悪いけど」
続ける。
「話、来ててさ」
言い訳みたいに。
でも、本当のこと。
隆一は、何も言わない。
ただ、見ている。
その視線に、少しだけ押される。
「……しょうがねえだろ」
その人間が言う。
自分に言い聞かせるように。
「生活あるし」
その言葉で、全部が決まる。
正しい。
だから、止められない。
「……分かった」
隆一が言う。
それだけ。
引き止めない。
引き止められない。
「世話になった」
その人間は、頭を下げる。
短く。
そして——そのまま出ていく。
ドアが閉まる。
また一つ、音が減る。
翔は、何も言えない。
ただ、立っている。
さっきの朝と、同じだった。
でも——違う。
これは、始まりだった。
崩れる音は、静かに来る。
一気じゃない。
少しずつ。
確実に。
削っていく。
隆一は、しばらく動かなかった。
何も言わない。
ただ、立っている。
その背中が、少しだけ小さく見える。
でも——
「……やるぞ」
もう一度言う。
さっきより、低い声で。
翔は、うなずく。
「ああ」
短く。
それしかない。
外では、いつもの音が流れている。
遠くで、ラジオ。
古い歌。
変わらない声。
でも——
中は、もう同じじゃなかった。
灯りは、まだついている。
小さく。
揺れながら。




