第27話 「決断」
夜は、少し冷えていた。
風が、細く通る。
昼間よりも、音が少ない。
翔は、外に出ていた。
眠れなかった。
歩いて、歩いて——気づけば坂の下まで来ていた。
古い街灯が一本。
オレンジ色の灯り。
その下に、人影があった。
「……遅いね」
声がする。
真里だった。
壁にもたれて、こっちを見ている。
「……なんでいるんだよ」
「なんとなく」
肩をすくめる。
「来る気がしたから」
軽く言う。
でも、目はちゃんと見ている。
翔は、少しだけ苦笑する。
「当たってるな」
「でしょ」
小さく笑う。
少しだけ間があく。
風の音だけが、通る。
「……どうすんの」
真里が言う。
まっすぐ。
逃がさない聞き方。
翔は、すぐに答えられない。
視線を、少し落とす。
「……分かんない」
正直に言う。
隠しても、意味がない。
真里は、頷く。
「だろうね」
否定しない。
「顔に出てる」
「出てるか」
「出てる」
即答。
少しだけ笑う。
でも、すぐに戻る。
「でもさ」
続ける。
「分かってるでしょ」
その一言で、空気が変わる。
柔らかさが消える。
逃げ場がなくなる。
「どっちが楽かじゃないよ」
静かに言う。
「どっちが、あとで自分に残るか」
ゆっくりと。
言葉を置く。
翔は、何も言わない。
言えない。
胸の奥に、引っかかる。
「……あたしね」
真里が続ける。
「昔、逃げたことある」
少しだけ、視線をずらす。
遠くを見る。
「そのときは、楽だったよ」
あっさり言う。
「でもさ」
戻る。
まっすぐに。
「ずっと残るんだよね」
指で、自分の胸を軽く叩く。
「ここに」
その仕草が、小さいのに重い。
「別に、誰も責めないよ」
「誰も覚えてないかもしれない」
「でも——」
少しだけ間。
「自分が、覚えてる」
風が吹く。
街灯の光が、少し揺れる。
翔は、目を閉じる。
浮かぶ。
隆一の言葉。
——残る。
佐々木の背中。
——行く。
あの店の灯り。
続いている場所。
全部、頭の中で重なる。
「……怖えよ」
小さく言う。
本音だった。
初めて、ちゃんと出た言葉。
「分かる」
真里は、すぐに返す。
「怖いよ」
同じ温度で。
「でもさ」
少しだけ、笑う。
「怖い方って、だいたい正解」
軽く言う。
冗談みたいに。
でも、逃げてない。
翔は、息を吐く。
長く。
胸の奥のものを、少しだけ外に出す。
目を開ける。
前を見る。
もう、ぼやけていない。
「……俺」
言葉を出す。
一度、止まる。
でも——続ける。
「残る」
はっきり言う。
声が、揺れていない。
真里は、何も言わない。
ただ、少しだけ頷く。
「……そっか」
それだけ。
でも、十分だった。
「後悔するかもな」
翔が言う。
「するでしょ」
即答。
二人で、少し笑う。
短く。
「でも」
翔が続ける。
「逃げたって思うよりは、マシだ」
自分の言葉だった。
借り物じゃない。
真里は、それを聞いて——少しだけ目を細める。
「いいじゃん」
ぽつりと。
「ちゃんと、自分で決めた顔してる」
その言葉に、少しだけ力が抜ける。
風が、また通る。
さっきよりも、少しだけ冷たくない。
「……ありがとな」
翔が言う。
「別に」
真里は肩をすくめる。
「ラジオで言ってたよ」
ふと思い出したように言う。
「“人は結局、自分で決めたことしか信じられない”って」
「誰が?」
「知らないおじさん」
軽く笑う。
昭和の声。
遠くから流れてくるみたいな言葉。
翔も、少しだけ笑う。
「……じゃあ、行くわ」
「うん」
短い返事。
引き止めない。
もう、分かってるから。
翔は、坂を上る。
一歩ずつ。
さっきよりも、足が重くない。
軽くもない。
ただ——
決まっている。
戻る。
あの場所へ。
守る側へ。
壊れるかもしれない場所へ。
でも、それでも。
ドアを開ける。
中には、隆一がいた。
まだ起きている。
ノートを開いている。
顔を上げる。
「……どうした」
いつも通りの声。
でも、少しだけ疲れている。
翔は、まっすぐ見る。
迷わない。
「俺、残る」
言う。
短く。
でも、全部込めて。
隆一の手が、止まる。
少しだけ、間。
そして——
「……そうか」
それだけ言う。
大きくは反応しない。
でも、目が少しだけ変わる。
「手、貸せ」
続ける。
すぐに。
もう前提になっている。
「おう」
翔は頷く。
迷いはない。
隆一は、ノートを少しずらす。
隣を指す。
「ここ座れ」
翔は座る。
同じ方向を見る。
同じ数字を見る。
同じ現実を見る。
逃げ場のない場所。
でも——
一人じゃない。
外では、風が吹いている。
遠くで、ラジオの音がかすかに流れる。
古い歌。
ずっと続いてきた声。
それは、今も止まっていない。
この場所と、同じように。
壊れるかもしれない。
でも——
やめなければ、続く。
その灯りの下で。




