第25話 「知らない灯り」
その場所は、駅から少し離れていた。
古い商店街のはずれ。
シャッターが閉まった店が並ぶ中で、そこだけ灯りがついている。
看板は、色が剥げていた。
昔は赤かったのかもしれない。
今は、くすんだ茶色。
入口の横に、手書きの貼り紙。
「人手募集」
マジックの文字が、少しにじんでいる。
佐々木は、その前で立ち止まった。
少しだけ見上げる。
「……ここか」
小さくつぶやく。
中から、音がする。
油の弾ける音。
誰かの笑い声。
ラジオの声。
古い歌だった。
聞いたことはある。
でも、ちゃんと知らない。
昭和の歌。
扉を開ける。
鈴が鳴る。
チリン、と軽い音。
「いらっしゃい!」
すぐに声が飛んでくる。
明るい。
でも、どこかざらついている。
中は狭かった。
カウンターが数席と、小さなテーブルが二つ。
壁には、色あせたポスター。
古いビールの広告。
もう売っていない銘柄も混ざっている。
奥で、男が鍋を振っていた。
白いシャツ。
腕まくり。
油で少し黒くなっている。
「……ああ、電話の」
ちらっとこちらを見る。
すぐに火を見ながら言う。
「入って、座って」
佐々木は、カウンターの端に座る。
椅子が、少しきしむ。
「何にする?」
「……あ、いや」
「じゃあこれ」
勝手に決まる。
コップに水が出される。
氷が、カランと鳴る。
ラジオの音が、少し大きくなる。
パーソナリティが、昔の出来事を話している。
高度成長とか、そんな言葉が流れる。
男が、鍋を振りながら言う。
「見学だろ?」
「はい」
「別に難しいことはねえよ」
火が上がる。
一瞬、明るくなる。
「忙しいだけだ」
あっさり言う。
皿に料理が盛られる。
手際がいい。
無駄がない。
「今のとこ、人が足りねえ」
カウンターに皿を置く。
「来れるやつ、すぐ欲しい」
そのまま、次の作業に入る。
「時間は?」
「朝から夜まで」
間もなく返ってくる。
「休みは?」
「ねえと思え」
軽く笑う。
冗談みたいに。
でも、冗談じゃない。
「金は出す」
それも、はっきり言う。
「その分、使うけどな」
意味は、分かる。
時間も、体力も。
全部。
佐々木は、水を一口飲む。
冷たい。
でも、喉が乾く。
「……続いてるんですか、ここ」
思わず聞く。
男は、一瞬だけ手を止める。
「続けてる」
言い直す。
「勝手に続くもんじゃねえ」
また鍋に火を入れる。
「やめなきゃ、続く」
それだけ。
シンプルで、重い。
ラジオから、また歌が流れる。
さっきと違う曲。
少しだけ、明るい。
でも、どこか古い。
店の中の時間が、少しだけずれている。
外の世界と、違う速さで動いている。
「で、どうする」
男が言う。
こちらを見ないまま。
「来るか」
直球だった。
迷う余地を、あまり残さない。
佐々木は、少しだけ下を向く。
カウンターの木目を見る。
傷が、いくつもある。
長く使われてきた跡。
「……少し考えます」
そう言う。
正直に。
「そうか」
それ以上は言わない。
男は、また作業に戻る。
音が、続く。
油の音。
鍋の音。
ラジオの音。
全部が混ざる。
それは——
“ここで生きる音”だった。
店を出ると、空はまだ曇っていた。
商店街は、静かだった。
閉まったシャッターが並ぶ。
風が通る。
少し冷たい。
佐々木は、歩き出す。
一歩ずつ。
ゆっくり。
通りの端に、公衆電話があった。
赤いボックス。
ガラスが少し曇っている。
中に、誰かがいる。
背を向けて、受話器を握っている。
低い声で、何かを話している。
しばらくして、受話器が置かれる。
カチン、と乾いた音。
男が出てくる。
すれ違う。
何も言わない。
入れ替わるように、佐々木は中に入る。
ドアを閉めると、外の音が少し遠くなる。
硬貨を入れる。
指で番号を押す。
ジー、という発信音。
耳に当てる。
呼び出し音が、規則的に鳴る。
一回。
二回。
三回目で——
「……もしもし」
『悪い、今いいか』
隆一の声だった。
少し荒い。
「どうした」
『ちょっと、やばいかもしれん』
短く言う。
間。
『資金、思ったより持たねえ』
言葉が、重く落ちる。
受話器越しでも分かる。
余裕がない。
向こうでも、何かが動いている。
焦り。
音。
人の気配。
ここも、あそこも——同じだった。
佐々木は、目を閉じる。
さっきの店の光景が浮かぶ。
鍋の音。
ラジオ。
あの男の言葉。
——やめなきゃ、続く。
ゆっくりと、息を吐く。
「……そうか」
それだけ言う。
それ以上は、出てこない。
出せない。
受話器の向こうで、誰かが呼ぶ声がする。
隆一が何か返す。
現実が、待っている。
逃げられない場所で。
電話を切る。
受話器を戻す。
カチン、と音がする。
ボックスの外に出ると、空は変わらず曇っていた。
どこにも、抜け道はない。
佐々木は、ゆっくりと振り返る。
さっきの店の灯りが、遠くに見える。
小さい。
でも、消えていない。
あの中に入れば、食っていける。
でも、それは——
“ここじゃないどこか”。
風が吹く。
ラジオの音が、かすかに流れてくる。
さっきの歌。
はっきりとは聞こえない。
でも、分かる。
古い歌。
ずっと前の時代の声。
それでも——
まだ、流れている。
止まっていない。
佐々木は、ゆっくりと息を吐く。
「……分かってる」
誰に言うでもなく。
でも、確かに言った。
選ぶんじゃない。
もう——
引き受けるしかない。
どこで、生きるかを。
その灯りの下で。




