第24話 「同じ場所、違う準備」
翌日も、空は曇っていた。
雨は降っていない。
でも、晴れる気配もなかった。
いつも通りの時間。
いつも通りの場所。
誰も遅れていないのに、空気だけが違っていた。
無駄な会話が、消えていた。
翔は、入口のところで少しだけ立ち止まる。
中を見る。
いつもの顔が、いつものようにいる。
でも——どこか、距離がある。
「……おはよう」
言う。
返事は返ってくる。
でも短い。
それで終わる。
奥では、佐々木が誰かと小さな声で話していた。
聞こえないようにしているわけじゃない。
でも、聞こえない。
距離がある。
机の上に、見慣れない紙があった。
何枚か、まとめて置かれている。
翔は近づいて、一枚だけ手に取る。
求人票だった。
場所は、少し離れた街。
条件が並んでいる。
給与、時間、待遇。
悪くない。
むしろ——いい方だ。
「……もう動いてんのか」
思わず、声に出る。
「当たり前だろ」
背後から声。
振り返ると、佐々木が立っていた。
「昨日の今日だぞ」
そう言って、紙を一枚取る。
慣れた手つきで折る。
「早い方がいい」
「……もう決めたのか」
「決めてねえよ」
即答。
でも、間がない。
「選んでるだけだ」
言い方は軽い。
でも、目は笑っていない。
「お前は?」
不意に聞かれる。
翔は、少しだけ詰まる。
「……まだ」
「だろうな」
それ以上、追わない。
佐々木は、そのまま奥に戻る。
また、小さな声で話し始める。
その背中を、少しだけ見る。
昨日とは、違う背中だった。
もう、動いている人間の背中だった。
反対側では、隆一が一人で何かを書いていた。
古いノートを開いて、数字を並べている。
電卓の音が、規則的に響く。
カチ、カチ、と。
誰にも見せるわけでもなく、ただ続けている。
翔は、少しだけ近づく。
「……何してんの」
「計算」
顔も上げずに言う。
「残るって言っただろ」
それだけ。
ノートの中には、びっしりと数字。
収支。
足りない分。
埋めるための案。
どれも、簡単じゃない。
「いけそう?」
聞いてしまう。
一瞬だけ、手が止まる。
「……いけるようにする」
顔を上げる。
目は、昨日と同じだった。
でも——少しだけ、疲れている。
「じゃないと、意味ねえからな」
また、手を動かす。
カチ、カチ、と音が戻る。
その音が、妙に大きく感じる。
昼になっても、空気は変わらなかった。
誰かが外に出る。
戻ってくる。
また誰かが出る。
その中に、佐々木もいた。
スマホを見ながら、外へ出ていく。
翔は、無意識に後を追った。
少し距離を置いて、同じ方向に歩く。
角を曲がったところで、佐々木が立ち止まる。
電話をかけている。
「……はい、昨日の件で」
声が、いつもより低い。
「ええ、大丈夫です」
間。
「はい、人数は——」
言葉が、現実になる音だった。
翔は、少し離れた場所で止まる。
聞こえないふりをする。
でも、聞いている。
「……分かりました」
電話が終わる。
佐々木は、しばらくその場に立っていた。
何もしていない。
ただ、息を吐く。
長く。
その背中は——昨日より、少しだけ小さく見えた。
「……もう決まったのか」
思わず、声をかける。
佐々木が振り返る。
少し驚いた顔。
「……聞いてたか」
「聞こえた」
「そっか」
それだけ。
少しだけ、笑う。
「仮押さえだ」
「仮?」
「向こうも人足りねえらしい」
ポケットにスマホをしまう。
「すぐ来れるやつ優先だとよ」
「……じゃあ」
「ああ」
短くうなずく。
「行こうと思えば、すぐ行ける」
その一言が、重い。
現実として、そこにある。
「でもな」
少しだけ、間を置く。
「思ったより、楽じゃねえ」
初めて、本音が漏れる。
「条件いい分、きついぞあれ」
苦笑する。
「当たり前か」
誰に言うでもなく。
翔は、何も言えない。
ただ、その横に立つ。
同じ方向を見る。
知らない街の方角。
「……それでも、行くのか」
聞く。
静かに。
佐々木は、少しだけ考える。
ほんの数秒。
でも——
「行く」
はっきり言う。
「怖えけどな」
笑う。
昨日と同じ言葉。
でも、少しだけ違う。
「でも、分かってて行く」
それが——
覚悟だった。
風が、少しだけ吹く。
雨の匂いが、まだ残っている。
遠くで、またあの音がした。
カン、カン、と。
いつもと同じ音。
でも——
もう同じ場所には、いられない音だった。




