第23章 「それでも同じ場所で」
雨は、少し前に上がっていた。
路地の地面は、まだ濡れている。
街灯の光が、ところどころに映っている。
さっきの集まりのあと、人は外に出ていた。
部屋の中にいられなかった。
空気が重すぎて。
翔も、その中にいた。
少し離れた場所で、壁にもたれている。
誰も、すぐには話さない。
でも、それは長くは続かなかった。
「……結局、どうするんだよ」
誰かが言った。
抑えた声。
でも、抑えきれていない。
「さっき言っただろ」
佐々木が返す。
少し苛立ちが混じる。
「動くって」
「だからってよ——」
「じゃあどうするんだ!」
声が、上がる。
初めてだった。
はっきりとした衝突の音。
濡れた路地に、響く。
「このまま待って、全部なくなったらどうする!」
佐々木の声。
張りつめていたものが、切れた。
「仕事も、場所も、全部だ!」
言葉が、止まらない。
「守れるのかよ!」
誰に向けているのか分からない。
でも、確かに届く。
「家族もいるんだぞ!」
その一言で、空気が変わる。
重く、現実に引き戻される。
「……分かってる」
隆一が言う。
低く。
「分かってるなら——」
「分かってるからだ」
言葉を重ねる。
前に出る。
「分かってるから、残る」
まっすぐ言う。
「逃げるみたいに出ていけるか」
その言葉が、刺さる。
一瞬、沈黙。
でも——
「逃げてるんじゃねえ!」
佐々木が返す。
声が震えている。
怒りだけじゃない。
「選んでるんだ!」
一歩、踏み出す。
「潰れる前に、残る方法を!」
手が震えている。
握りしめている。
「それの何が悪い!」
叫ぶ。
路地に、響く。
遠くで、犬が一度吠える。
「悪くない」
隆一が言う。
すぐに。
その一言で、少しだけ空気が止まる。
佐々木も、言葉を止める。
「悪くない」
もう一度言う。
はっきりと。
「でもな」
少しだけ間。
「俺はやらん」
それだけ。
静かに。
でも、動かない。
佐々木が、息を吐く。
荒く。
「……話にならないな」
力が抜けたように言う。
「ならないな」
隆一も答える。
同じ温度で。
ぶつかりきったあとだった。
もう、これ以上は出てこない。
そのとき、古川が口を開いた。
「やめろ」
短く。
でも、強い。
二人の間に入る。
「どっちも間違ってねえ」
はっきり言う。
「だから、ぶつかるんだろ」
誰も否定しない。
できない。
「……分かってるよ」
佐々木が言う。
少しだけ視線を落とす。
「分かってるけどよ」
言葉が続かない。
代わりに、息を吐く。
長く。
雨上がりの空気に混ざる。
田辺が、ゆっくり口を開く。
「怖いんだよ」
ぽつりと言う。
その一言で、全部が静かになる。
「このまま、なくなるのが」
誰も動かない。
「でもな」
少しだけ顔を上げる。
「出ていくのも、怖い」
正直な言葉。
飾らない。
だから、重い。
「どっちも、怖い」
それで終わり。
でも、それが全部だった。
誰も、すぐには言葉を出さない。
出せない。
同じものを、感じているから。
しばらくして、隆一が言う。
「……俺も怖い」
小さく。
でも、はっきり。
佐々木が、顔を上げる。
初めて、真正面から見る。
「でも」
続ける。
「ここでやってきたもん、なくす方が怖い」
その言葉は、前と同じ。
でも、少し柔らかい。
押しつけじゃない。
自分の中の話。
佐々木は、何も言わない。
ただ聞いている。
「お前の言うことも分かる」
隆一が言う。
「家族のことも」
「先のことも」
一つずつ。
ちゃんと拾う。
「だから、止めない」
それは、譲歩だった。
初めての。
「……そっちもな」
佐々木が言う。
少しだけ、笑う。
力のない笑い。
「止められても、行くけどな」
冗談みたいに。
でも、本気で。
「だろうな」
隆一も、少しだけ笑う。
同じように。
完全には戻らない。
でも——
切れてはいない。
細くなったまま、残っている。
翔は、その様子を見ていた。
さっきまでのぶつかり合い。
そのあとの、この静けさ。
どっちも、本当だった。
どっちも、この場所のものだった。
遠くで、屋台の音がした。
カン、カン、と。
何かを叩く音。
誰かが笑う声。
いつもと同じ夜。
でも、少しだけ違う。
路地の水たまりに、灯りが揺れる。
その中で、人の影も揺れる。
同じ場所にいる。
でも、同じ道じゃない。
それでも——
同じ場所に立っている。
まだ、ここに。




