第22章 「同じ場所で」
その夜、路地の奥の家に人が集まっていた。
声は抑えられている。
でも、数が多い。
自然とそうなった、というより——
集まらざるを得なかった。
ちゃぶ台が、いくつか並べられている。
湯気の立つ急須と、アルミの魔法瓶。
茶碗が足りずに、柄の違うものが混ざっている。
テレビはついていた。
音は小さい。
ブラウン管の奥で、誰かが笑っている。
誰も見ていないのに、消さない。
翔は、部屋の隅にいた。
壁にもたれて、全体が見える位置。
大人たちの間に、少しだけ距離を置いて。
「……で、どうする」
誰かが言った。
きっかけは、それだけだった。
でも、それで十分だった。
空気が、ゆっくり動き出す。
「どうするも何も」
古川が言う。
「もう来てるんだ」
昼間のことを指している。
「期限もある」
誰も否定しない。
分かっている。
「だからって、慌てることはないだろ」
別の声。
落ち着いているようで、少しだけ硬い。
「慌ててるわけじゃない」
すぐに返る。
「でも、待ってくれるわけでもない」
言葉が、少しずつ重なっていく。
前と違うのは——
引かないことだった。
「うちは、動くつもりだ」
佐々木が言った。
はっきりと。
部屋の空気が、一瞬止まる。
もう隠さない。
隠せない。
「……決めたのか」
古川が聞く。
「まだだ」
首を振る。
「でも、決める」
その“間”が、重い。
「期限があるんだろ」
そう続ける。
正しい理由。
でも、それだけじゃない。
「このままじゃ、終わる」
静かに言う。
前に聞いた言葉。
でも、今は逃げていない。
「分かってるだろ」
誰かに向けたわけじゃない。
でも、みんなに届く。
沈黙が落ちる。
その中で、田辺が口を開く。
「……うちも、考えてる」
小さく。
でも、はっきりと。
二つ目。
分かっていたことが、形になる。
「息子がな」
続ける。
「戻る話もあって」
理由が添えられる。
誰も否定できない理由。
「ここじゃ、難しい」
それもまた、事実だった。
誰もすぐには言葉を返さない。
返せない。
どれも、間違っていないから。
そのとき、隆一が口を開いた。
「だからって、出る理由にはならん」
低い声。
はっきりしている。
部屋の空気が、少しだけ締まる。
「ここでやってきたもんがある」
前と同じ言葉。
でも、今は違う場で言われている。
「それは、向こうには持っていけん」
誰もすぐには反論しない。
でも、止まらない。
「持っていけるもんもある」
佐々木が言う。
視線を外さずに。
「全部じゃないけどな」
言い切る。
「でも、残るもんもある」
ぶつかる。
静かに。
「残らんもんもあるだろ」
隆一が返す。
間を置かない。
「それは、どうする」
問いが来る。
答えのないやつ。
「切るしかない」
佐々木が言う。
少しだけ、声が強くなる。
「全部は持っていけないんだ」
それも、正しい。
でも——
それが、引っかかる。
「切るって、何をだ」
古川が聞く。
低く。
真っすぐに。
佐々木は、一瞬だけ言葉に詰まる。
ほんの一瞬。
でも、それで十分だった。
「……ここでのやり方とか」
出てきた言葉は、曖昧だった。
でも、消せない。
「人との付き合いとかもな」
付け足すように。
その一言で、空気が変わる。
はっきりと。
今までで、一番。
「それは違うだろ」
古川が言う。
さっきまでより、強い。
「違わない」
すぐに返る。
「全部抱えて沈むよりはいい」
言い切る。
部屋のどこかで、茶碗が当たる音がした。
小さく、カン、と。
誰も動かない。
でも、空気はもう戻らない。
「……沈むって決めてるのは、お前だろ」
隆一が言う。
低く。
でも、刺さる。
「まだ終わってない」
「終わる前に動くんだよ」
佐々木が返す。
少し前のめりに。
「見えてるだろ」
「見えてるから残る」
隆一は動かない。
「見えてるから、ここでやる」
言葉がぶつかる。
どちらも、引かない。
どちらも、間違っていない。
だから、ずれる。
「意地だな」
誰かが言う。
また出た言葉。
でも、さっきとは違う。
少し、棘がある。
「そうだよ」
隆一が言う。
あっさりと。
「意地だ」
認める。
「でも、それでいい」
その強さに、少しだけ空気が揺れる。
佐々木が、息を吐く。
「……それで潰れたら、どうする」
静かに言う。
怒りじゃない。
でも、優しくもない。
現実の言葉。
「そのとき考える」
隆一は答える。
迷わない。
「遅いだろ」
「早すぎる」
言葉が、すれ違う。
同じ場所で。
同じ話をしているのに。
もう、同じところにいない。
テレビの中で、笑い声が大きくなる。
誰も反応しない。
場違いな音みたいに、浮いている。
翔は、そのやり取りを見ていた。
何も言えずに。
でも、分かる。
どっちも、間違っていない。
どっちも、怖いだけだ。
そのとき、田辺がぽつりと言った。
「……戻れないな」
誰に向けた言葉でもない。
でも、みんな聞いていた。
誰も否定しない。
できない。
沈黙が落ちる。
さっきまでの熱が、少しだけ冷える。
でも、元には戻らない。
ヒビが入ったまま。
残る。
フミが、ゆっくり茶を注ぐ。
音がする。
コポ、コポ、と。
「同じ場所にいてもね」
静かに言う。
「同じ道とは限らないよ」
誰も答えない。
でも、その言葉は残る。
部屋の中に。
それぞれの中に。
テレビは、まだついている。
古い画面が、ちらつく。
音だけが、やけに明るい。
でも——
この部屋の中には、もう戻れないものがあった。
さっきまでと同じ関係。
同じ距離。
それは、もう少しだけ壊れていた。
気づいたときには、もう戻らないところまで。




