表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
22/30

第21話 「寄せてくるもの」

 朝の路地は、少しだけ早く動いていた。

 いつもより、人の出入りが多い。

 理由は、はっきりしていた。


「回ってきた?」

 その言葉が、あちこちで聞こえる。

 回覧板だった。

 板の端が少し欠けている、古いもの。

 その上に、新しい紙が挟まれている。

 翔の家にも、それは来ていた。

 千鶴が、台所でそれを広げている。

「何これ……」

 小さくつぶやく。

 翔は、その横から覗き込む。

 細かい字が並んでいる。

 見慣れない言葉。

「説明会の……追加?」

 前にも見た言葉。

 でも、少し違う。

「個別相談会の実施」

「仮契約に関する説明」

 言葉が、少しずつ具体的になっている。

 逃げ道が、減っている。

「期限も書いてあるわよ」

 千鶴が言う。

 指でなぞる。

 日付。

 はっきりした数字。

 翔は、それを見た。

 ただの数字のはずなのに、重く見える。


「いつだ」

 後ろから声がした。

 父だった。

 いつの間にか立っている。

 千鶴が、紙を見たまま答える。

「来月の……半ば」

 父は、それを聞いても、すぐには何も言わない。

 ただ、一度だけ紙を見る。

 目を細める。

 それだけで、外に出る。

 いつもより少しだけ早い足取りで。

 戸が閉まる。

 音が、少し強い。

 翔は、その紙をもう一度見た。

「期限」

 その言葉だけが、頭に残る。


 路地に出ると、同じ紙を持っている人が何人もいた。

 立ち止まって読む。

 誰かに見せる。

 また読む。

「こんなの、前はなかったよな」

「急に具体的になってきたな」

「もう待ってくれないってことか」


 言葉が、少しずつ変わっている。

 昨日までの“分からなさ”じゃない。

 今日は、“分かってしまう怖さ”だ。

 光江が、紙を持ったまま言う。

「これ、行かないとまずいんじゃない」

「行ったら決まる気がする」

「行かなくても決まるだろ」

 答えは出ない。

 でも、どれも間違っていない気がする。

 翔は、そのやり取りを聞きながら歩く。

 胸のあたりが、少しだけ重い。


 工場に入ると、父はもう機械を動かしていた。

 いつもより、音が速い。

 ——ウィン、ウィン。

 少しだけ急いているような音。

 佐久間が、横で図面を見ている。

「来たな」

 翔に気づいて言う。

「何が」

「向こうのやつだよ」

 紙を軽く叩く。

「期限付き」

 あっさり言う。

 でも、その言葉は軽くない。

「……どうする」

 翔が聞く。

 自分でも、少し驚く。

 前なら、聞かなかった。

 父は、手を止めないまま言う。

「変わらん」

 短い。

 でも、前と同じ強さがある。

「そうか」

 翔は、それ以上言わない。

 言えない。

 でも、前とは少し違う。

 その言葉を、そのまま受け取れる。

 完全じゃないけど、分かる気がする。


 昼すぎ、路地の入口に人が集まっていた。

 見慣れない男たちが立っている。

 スーツ姿。

 手に、紙の束。

 あのときの連中だった。

「こちらで順にご説明を——」

 丁寧な声。

 よく通る。

 でも、路地には少しだけ合わない。

 人が、少し距離をとって集まる。

 近づく者。

 離れる者。

 その間に、見えない線ができる。

 翔は、少し離れたところで見ていた。

 佐々木が、話をしている。

 うなずいている。

 田辺も、少し後ろで聞いている。

 古川は、腕を組んだまま動かない。

 父は、まだ来ていない。


「今なら、より良い条件で——」

 言葉が続く。

 分かりやすい言葉。

 でも、引き寄せる力がある。

「期限内にご判断いただければ——」

 また、期限。

 その言葉が、何度も出てくる。

 少しずつ、囲まれていく感じ。

 逃げ道が、狭くなる。


 そのとき、奥から父が歩いてきた。

 足音が、はっきり聞こえる。

 人の間を、そのまま進む。

 止まらない。

 スーツの男の前で、足を止める。

「また来たのか」

 低い声。

 男は、にこやかに頭を下げる。

「ご挨拶に——」

「いらん」

 すぐに切る。

 周りの空気が、少しだけ張る。

「皆様にご説明を——」

「聞いた」

 父が言う。

「それで十分だ」

 短く。

 男は、少しだけ言葉を選ぶ。

「ただ、今回は具体的な——」

「帰れ」

 はっきり言う。

 前よりも、強い。

 周りの人たちが、息を止める。

 ほんの一瞬。

 男の笑顔が、わずかに揺れる。

 でも、崩れない。

「皆様のためを思って——」

「俺たちのことは、俺たちで決める」

 言葉が重なる。

 静かに。

 でも、押し返すように。


 古川が、一歩前に出る。

「そうだな」

 短く言う。

 それだけで、空気が少し変わる。

 “一人”じゃなくなる。

 男は、その様子を一度見回す。

 佐々木の方を見る。

 田辺の方も。

 それから、また父を見る。

 ほんの少しの沈黙。

「……承知しました」

 そう言って、一歩下がる。

 丁寧な動き。

 でも——

 完全には引いていない。

「ただ」

 その一言が、残る。

「お時間は限られておりますので」

 やわらかい声。

 でも、はっきりした圧。

 それだけ言って、頭を下げる。

 男たちは、そのまま路地の外へ出ていく。

 足音が遠ざかる。


 誰も、すぐには動かない。

 静けさが残る。

 風が、少しだけ通る。

 紙が揺れる音。

 誰かが、小さく息を吐く。

「……来るな」

 古川が言う。

「ああ」

 父が答える。

 短く。

 それだけ。

 でも、十分だった。

 翔は、その場に立っていた。

 さっきのやり取りが、頭の中で残っている。

 まだ、ぶつかってはいない。

 でも——

 同じ場所に立っている感じがする。

 その距離は、もう遠くない。

 ほんの少し、手を伸ばせば届くところにある。


 路地の空気が、少しだけ変わっていた。

 戻れない方向に、ゆっくりと。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ