第20話 「残る言葉」
夜の路地は、昼よりも静かだった。
遠くで、テレビの音が漏れている。
どこかで笑い声がして、すぐに消える。
風は弱くなっていた。
代わりに、湯気の匂いが漂っている。
角の銭湯からだった。
暖簾が、ゆっくり揺れている。
男湯、女湯。
少し色あせた文字。
翔は、その前を通り過ぎようとして、足を止めた。
「おう」
声がした。
振り向くと、古川がいた。
手に、牛乳瓶を持っている。
腰に手を当てて、一本飲み干すところだった。
——コトン。
空になった瓶を、箱に戻す。
「帰りか」
「はい」
翔が答える。
「お前も入ってくか」
「いや、今日はいいです」
「そうか」
短いやり取り。
でも、古川はそのまま帰らない。
少しだけ、そこに立っている。
暖簾の向こうから、人の声がする。
桶の音も、かすかに。
「……昼、聞いたぞ」
古川が言う。
「何を」
分かっているけど、聞き返す。
「商店街での話だ」
やっぱり、それだった。
翔は、少しだけ目をそらす。
「大したこと、言ってないです」
「そうか?」
古川は、軽く笑う。
「大したことだろ」
その言い方は、茶化していない。
むしろ、確かめている。
翔は、何も言わない。
言ったことを思い出す。
ちゃんとした言葉じゃなかった。
でも、自分の言葉だった。
「……なあ」
古川が言う。
少しだけ、声が低くなる。
「ここにいると、分かることがあるって言ったな」
翔は、顔を上げる。
まっすぐ見られている。
「はい」
「それ、何だと思う」
問いが来る。
簡単じゃないやつ。
翔は、少し考える。
でも、さっきみたいに言葉が出てこない。
「……分からないです」
正直に言う。
古川は、うなずく。
「俺もな」
ぽつりと。
「分かってなかった」
視線を、銭湯の暖簾に向ける。
「でも、さっき聞いてな」
少し間を置く。
「分かる気がした」
翔は、何も言わない。
ただ聞く。
「ここにいるとよ」
古川が続ける。
「無駄なもんが、減るんだよ」
ゆっくりした言い方。
「見なくていいもんは見ないで済むし」
遠くのテレビの音が、少し大きくなる。
「知りすぎなくていいことは、知らなくていい」
また、少し間。
「その代わり」
暖簾が、ふわりと揺れる。
「近くのことは、嫌でも分かる」
桶の音が、カンと鳴る。
「誰が何してるか」
「どこが調子悪いか」
「誰が困ってるか」
言葉が、ゆっくり並ぶ。
「面倒だろ」
少しだけ笑う。
「でもな」
視線を戻す。
「それが、なくなるのは」
言いかけて、止まる。
言葉を選ぶみたいに。
「……つまらん」
短く言う。
強い言葉じゃない。
でも、芯がある。
翔は、その言葉を聞いていた。
さっき、自分が言ったことと似ている。
でも、少し違う。
古川の言葉になっている。
「だからよ」
古川が、少しだけ背筋を伸ばす。
「俺は残る」
はっきり言う。
前よりも、迷いがない。
「決めたのか」
翔が思わず聞く。
「ああ」
短くうなずく。
「さっきまでは、迷ってたけどな」
苦笑する。
「一人目、二人目見て、揺れてた」
正直に言う。
「でも、お前の話聞いてな」
翔を見る。
「なんか、引っかかった」
胸のあたりを軽く叩く。
「ここに」
翔は、少し驚く。
自分の言葉が、そこにあることに。
「たいしたことじゃねえんだよ」
古川は言う。
「理屈じゃない」
「金の話でもない」
「先の話でもない」
指を一本ずつ折る。
「でも、そういうのが決めるときもある」
全部言い終えて、手を下ろす。
しばらく、二人とも黙る。
暖簾の向こうから、人が出てくる。
湯気と一緒に。
体を拭きながら、挨拶をして通り過ぎる。
いつもの風景。
変わらないやり取り。
でも——
その中で、何かが決まっている。
「帰るか」
古川が言う。
「はい」
二人で歩き出す。
並んで。
何も話さない。
でも、さっきより少しだけ軽い。
路地の奥に、明かりが見える。
一つ一つ、点いている。
同じ場所に、同じように。
翔は、歩きながら思う。
自分は、何かを決めたわけじゃない。
でも——
言葉は、残る。
自分の中にも、誰かの中にも。
それが、どこかで形になる。
さっきの古川みたいに。
外は、もうすっかり夜だった。
銭湯の暖簾が、また揺れる。
その向こうから、湯気が漏れる。
変わらないもの。
まだ、ここにあるもの。
それを見ながら、翔は歩いた。
少しだけ、足取りが変わっていた。




