第19話 「自分の言葉」
夕方の商店街は、少しだけ明るかった。
日が落ちきる前の、あの時間。
店の明かりが一つずつ点き始めて、外の光と混ざる。
コロッケを揚げる音がしている。
——ジュウ……。
油の匂いが、通りに広がる。
肉屋の前には、いつものように人が集まっていた。
「今日、安いわよ」
「ほんとかい」
そんなやり取り。
ラジオが、店の奥で鳴っている。
少し古い歌。
誰もちゃんと聞いていないのに、消さない音。
翔は、その前をゆっくり歩いていた。
特に用はない。
でも、家に戻る気にもならなかった。
「翔」
呼ばれる。
振り向くと、田辺がいた。
買い物袋を手に下げている。
「……どうも」
少しだけ、間を置いて返す。
前と同じようで、同じじゃない。
「帰りか」
「まあ」
それだけの会話。
でも、終わらない。
どちらも、少しだけ残る。
ラジオの音が、間を埋める。
「……聞いたか」
田辺が言う。
視線は、翔ではなく、揚げ物の方に向いている。
「何を」
分かっているけど、聞き返す。
「うちのことだ」
やっぱり、そうだった。
「少し、話をしてる」
言葉を選ぶように。
「まだ決めてないけどな」
“まだ”。
どこかで聞いた言葉。
でも、今は少し違う。
翔は、何も言わない。
何か言うべきか、分からない。
「お前んとこは、どうする」
その問いは、軽くなかった。
でも、強くもない。
ただ、そこにある。
翔は、少しだけ考える。
答えは、用意していない。
というより、持っていないと思っていた。
でも――
頭の中に、いくつかの言葉が浮かぶ。
父の声。
フミの言葉。
さっき見た商店街。
油の匂い。
ラジオの音。
それが、うまくまとまらないまま、口に出る。
「……分からないです」
まず、それ。
正直に。
田辺は、小さくうなずく。
「だろうな」
否定しない。
それで終わるはずだった。
でも、翔は続けた。
「でも」
自分でも、少し驚く。
言葉が、止まらない。
「ここが、なくなるのは……嫌です」
言ってから、少しだけ息を飲む。
ちゃんとした言葉じゃない。
理由も、説明もない。
でも、それが出た。
田辺は、少しだけ顔を上げる。
初めて、翔の方を見る。
「理由は?」
静かに聞く。
責めていない。
でも、逃がさない。
翔は、言葉を探す。
うまく言えない。
でも、さっきと同じように、浮かんでくる。
「……分からないです」
少し苦笑する。
「でも」
また言う。
「ここにいると、分かることがある気がするんです」
自分でも曖昧だと思う。
でも、止めない。
「工場の音とか」
遠くで、誰かが笑う声がする。
「こういう匂いとか」
コロッケの匂いが、また流れてくる。
「人の顔とか」
田辺は、何も言わない。
ただ、聞いている。
「それが、なくなると」
少しだけ間。
「……自分が、どこにいるのか分からなくなる気がして」
言い切る。
うまくはない。
でも、自分の言葉だった。
しばらく、何も言わない時間が流れる。
ラジオの音が、少しだけ大きく聞こえる。
田辺が、ゆっくり息を吐く。
「若いな」
ぽつりと言う。
からかうようでも、突き放すでもない。
ただ、そう思っただけの言い方。
「でも」
少しだけ間を置く。
「分かるよ」
小さく言う。
それは、予想していなかった言葉だった。
翔は、顔を上げる。
「分かるけどな」
田辺は、苦笑する。
「それだけじゃ、決められないときもある」
現実の言葉。
重いわけじゃない。
でも、軽くもない。
翔は、うなずく。
「はい」
否定しない。
できない。
それも分かるから。
「難しいな」
田辺が言う。
誰に向けたわけでもなく。
自分に言っているように。
「はい」
翔も、同じように返す。
少しだけ、笑う。
ほんの少し。
そのとき、肉屋のおばちゃんが声をかけた。
「ほら、揚がったよ」
コロッケが、紙に包まれる。
湯気が立つ。
「一つ、食ってけ」
田辺が言う。
当たり前みたいに。
翔は、少し迷ってから受け取る。
「……いただきます」
一口かじる。
熱い。
でも、うまい。
何も変わっていない味。
でも、少し違う気もする。
「うまいか」
「はい」
それだけのやり取り。
でも、さっきより少し軽い。
空気が、ほんの少しだけほどける。
ラジオは、まだ鳴っている。
知らない歌が、続いている。
でも、どこかで聞いたことがあるような気もする。
翔は、コロッケを食べながら思う。
自分は、まだ決めていない。
何も。
でも――
何も持っていなかったわけじゃない。
さっき出た言葉。
あれは、自分のものだった。
うまくなくても、曖昧でも。
誰かのじゃない。
外は、もう暗くなり始めていた。
店の明かりが、少しずつ強くなる。
その中で、ラジオの音と、油の匂いが混ざる。
昔から変わらないような、時間。
でも——
その中にいる自分は、少しだけ変わっていた。
ほんの少しだけ。




