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第1話 「おすそ分けは回る」

 その日、最初にやって来たのは、煮物だった。

 まだ昼前だというのに、表の戸が遠慮なくガラリと開いて、声が飛び込んでくる。


「千鶴さーん、いるかい」

 返事をする前に、もう人は上がり込んでいる。

「あら、お光さん。どうしたの、そんな大きな鍋」

 母の千鶴が台所から顔を出すと、近所の光江が、得意げに鍋の蓋を少しだけ持ち上げた。

 湯気と一緒に、甘辛い匂いがふわりと広がる。

「里芋。朝から炊いたんだよ。ほら、あんたんとこ、こういうの好きだろ」

「好きだけど……これ、うちだけじゃ食べきれないわよ」

「いいんだよ、残ったら回せば」

 それを聞いて、千鶴は苦笑する。

「また回るのね、これ」

「回る回る。ぐるっと一周して、どっかで消えるさ」


 光江は笑いながら、勝手知ったる様子で台所に入り、鍋をどんと置いた。

 もうここが自分の家であるかのような遠慮のなさだ。

 その様子を、座敷で見ていた翔がぽつりと聞いた。

「お母さん、これ、ほんとに回るの?」

「回るわよ」

 千鶴は即答した。

「この前のひじき、覚えてる?」

「うん」

「あれ、もとはお向かいの家だったのよ」

「えっ」

「それがね、斜め向かいに行って、裏の家に行って、それで最後にうちに戻ってきたの」

「なんで?」

「知らないわよ。誰かがまた炊いたんじゃないの」

 さらりと言うが、よく考えると妙な話だ。


 翔は鍋を覗き込む。里芋はつやつやと光っていて、確かにおいしそうだった。

「これも戻ってくるの?」

「どうかしらね」

 千鶴は肩をすくめた。

「でも、戻ってきたら、また食べればいいでしょ」

 それが当然のことのように言う。

 そのとき、奥の座敷から、雑巾を絞る音がした。

 ぎゅっ、と水を含んだ布が締まる音。

「フミさん、これ里芋。食べるでしょ」

 光江が声を張ると、祖母のフミが顔を出した。

「あら、まぁ。いい色に炊けてるねぇ」

 そう言って、鍋の中を覗き込む。

「朝からかい。働き者だこと」

「暇なだけだよ」

「そんなことはないよ。手間をかけるのは、いいことだよ」

 フミは穏やかに言って、ひとつ摘んで口に運んだ。少しだけ目を細める。

「うん、やさしい味だね」

 その言い方が、妙に嬉しそうで、光江は満足げにうなずいた。

「だろう。あんたにそう言われると、安心するよ」


 しばらくして、光江は帰っていった。鍋を一つ残して。

 台所には、まだ湯気が残っている。

 千鶴は鍋を見つめて、小さくため息をついた。

「さて、と」

 その「さて」は、何かを始める合図だ。

「翔、これ、お隣に持っていってくれる?」

「えー、また?」

「また、じゃないの。まだ回しきれてないのよ」

「これ、うちのじゃないじゃん」

「いいのよ。もううちのものみたいなものだから」


 理屈が分かるような、分からないような話だ。

 翔はしぶしぶ鍋を持ち上げる。思ったより重い。

「落とさないでよ」

「落とさないよ」

「あと、ちゃんと挨拶するのよ」

「するよ」

「『いただきます』じゃなくて、『どうぞ』よ」

「分かってるよ」

 やりとりを聞いていたフミが、くすりと笑った。

「まぁまぁ。どっちでも通じるさ」

「そういうわけにはいかないの」

 千鶴はきっぱりと言う。

「うちは、うちのやり方があるんだから」

 その言葉に、フミは軽くうなずいた。

「そうだねぇ。それもまた、大事なことだ」


 翔は鍋を抱えて、路地に出た。

 昼の光が、少しだけ傾き始めている。

 どこかの家から、焼き魚の匂いが流れてきた。

 隣の家の戸は、少しだけ開いていた。

「こんにちはー」

 声をかけると、すぐに返事がある。

「はーい、どうしたの」

 顔を出したのは、まだ若い奥さんだった。

「あの、これ」

 翔は鍋を差し出す。

「里芋。どうぞ」

「あら、まぁ。ありがとう」

 奥さんは少し驚いた顔をして、でもすぐに笑顔になった。

「どこから?」

「えっと……」

 翔は少し考えてから言った。

「たぶん、お向かい」

「たぶん、って何よ」

 奥さんは笑いながら受け取る。

「じゃあ、うちも何か返さないとね」

「いいって言ってたよ」

「そういうわけにはいかないでしょ」

 その言い方が、母とそっくりで、翔は少しだけ面白くなった。


 結局、翔が家に戻るときには、小さな皿に乗った卵焼きを持たされていた。

 甘い匂いがする。

「ただいま」

 台所に入ると、千鶴が振り向いた。

「あら、早かったわね」

「これもらった」

「やっぱりね」

 千鶴は笑って、皿を受け取る。

「ほら、回るでしょ」

 得意げだ。

 翔は、なんとなく納得したような、していないような気持ちで頷いた。

 そのとき、フミがぽつりと言った。

「うまく出来てるもんだねぇ」

 翔が見ると、フミは座敷からこちらを見ていた。

「何が?」

「こうやってね、行ったり来たりしてるうちは、誰も困らないんだよ」

 静かな声だった。

「少しずつ分けて、少しずつもらって。そうしてるとね、足りないことがなくなる」

 それから、ほんの少し間を置いて、付け足す。

「人も同じだよ」


 翔には、その意味がよく分からなかった。

 けれど、なんとなく、悪いことではない気がした。

 台所では、卵焼きが切り分けられている。外では、また誰かの声がした。

 どこから来て、どこへ行くのか分からないものが、この町では、いつも静かに回っていた。

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