第18話 「ここにあるもの」
その日は、風が少し強かった。
路地の奥まで、外の音が入り込んでくる。
紙がこすれる音。
どこかで何かが揺れる音。
落ち着かない。
理由は、風だけじゃない。
「……増えたな」
誰かが言った。
誰に向けたわけでもない。
でも、みんな分かっている。
佐々木。
田辺。
二つ。
その数が、頭のどこかに引っかかっている。
「仕方ないんじゃない」
別の声。
「先のこと考えたら」
それも、分かる。
分かるから、否定しにくい。
「でもなぁ……」
続かない。
言葉が、途中で止まる。
そのとき、奥から足音がした。
重くもなく、軽くもない。
一定の歩き方。
隆一だった。
工場からの帰り。
油の匂いをまとったまま。
いつもと同じ姿。
でも——
その顔を見て、少しだけ空気が変わる。
「隆一さん」
誰かが呼ぶ。
隆一は足を止める。
「何だ」
短く返す。
「ちょっと、いいか」
その言い方は、遠慮がちだった。
でも、引かない。
隆一は、少しだけ考えるようにしてから、うなずく。
「ここでいい」
その場で立つ。
座らない。
距離も詰めない。
そのまま。
「……どうするつもりだ」
聞いたのは、古川だった。
普段はあまり前に出ない男。
でも、今日は違う。
「何を」
「この話だよ」
言い切る。
曖昧にしない。
隆一は、少しだけ目を細める。
「どうするって」
「みんな、動き始めてる」
古川が言う。
「佐々木も、田辺も」
名前が並ぶ。
はっきりと。
「だから、どうする」
問いが、真っすぐ来る。
逃げ道はない。
少しの沈黙。
風の音だけが入る。
隆一は、ゆっくり口を開いた。
「動かん」
短い。
それだけ。
でも、はっきりしている。
「……このままか」
「ああ」
迷いがない。
その言い方に、周りの空気が少しだけ揺れる。
「でもよ」
古川が続ける。
「このままじゃ——」
「分かってる」
被せる。
言わせない。
その声は、少しだけ強かった。
初めてかもしれない。
こんな言い方。
古川が、言葉を止める。
隆一は、そのまま続ける。
「仕事が減るのも、場所が変わるのも」
一つ一つ、確かめるように。
「分かってる」
繰り返す。
「じゃあ何で」
誰かが言う。
今度は、はっきりとした問い。
隆一は、その声の方を見ない。
前を向いたまま。
「ここでやってきたからだ」
静かに言う。
「それだけだ」
簡単な言葉。
でも、簡単じゃない。
「それだけじゃ——」
否定が、途中で止まる。
言い切れない。
隆一は、少しだけ息を吐く。
「図面、見た」
ぽつりと言う。
誰もが、耳を向ける。
「あれは、別の場所だ」
はっきり言う。
「ここじゃない」
風が、少し強くなる。
「まっすぐで、広くて、きれいで」
どこかで聞いたような言葉。
でも、違う響き。
「でも、俺の仕事はあそこにはない」
その一言で、空気が止まる。
誰もすぐに言葉を出せない。
「同じ機械を置けばいいって話じゃない」
続ける。
「同じことをやればいいって話でもない」
声は大きくない。
でも、届く。
「ここでやってきたやり方がある」
手を、軽く上げる。
油のついた手。
「ここで覚えたもんがある」
下ろす。
「それは、持っていけるもんじゃない」
誰も動かない。
動けない。
「だったら、残る」
それだけ。
言い切る。
風の音が、少しだけ弱まる。
誰かが、小さく息を吐く。
「……意地だな」
誰かが言う。
少しだけ笑いを含めて。
でも、軽くはない。
「そうかもな」
隆一は、あっさり言う。
「でも、それでいい」
迷いがない。
古川が、ゆっくり頷く。
「分かった」
それ以上は言わない。
納得したわけじゃない。
でも、引いた。
他の人たちも、少しずつ視線を外す。
その場が、ほどけていく。
会話が戻る。
でも、さっきとは違う。
どこか、芯のある静けさが残る。
翔は、そのやり取りを見ていた。
少し離れた場所で。
何も言えずに。
父の言葉が、頭の中で残っている。
ここでやってきたから。
それだけ。
でも、それが全部。
簡単で、動かない。
強いのか、弱いのか分からない。
ただ、そこにある。
家に戻ると、父はもう中にいた。
何もなかったみたいに座っている。
でも、さっきの言葉は消えていない。
翔は、少しだけ見てから、目をそらす。
何かを言いたかった。
でも、言葉にならない。
外では、風がまだ吹いている。
路地の中を通り抜ける。
揺らす。
いろんなものを。
でも——
動かないものもあった。
そこに残ると決めたもの。
それは、風の中でも、そこにあった。




