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第17話 「二つ目の足音」

 それは、はっきりした形では来なかった。

 いつものように、何となく始まる。


「聞いた?」

 また、その言葉からだった。

 翔は、その言い方に覚えがあった。

 振り向かなくても、誰がどんな顔で言っているか分かる。

「今度は誰よ」

「田辺のとこ」

 一瞬、間があく。

「田辺さん?」

「うそでしょ」

 驚きは、昨日よりも少しだけ大きい。

 でも、声は抑えられている。

 大きくしてしまうと、何かが決まってしまいそうで。


「まだ決めたわけじゃないらしいけど」

「でも、話はしてるって」

「佐々木さんと同じ?」

「たぶん」

 “同じ”。

 その言葉が、妙に重なる。


 翔は、少し離れたところでそれを聞いていた。

 昨日と同じ場所。

 でも、立っている意味が違う。

 昨日は一つだった。

 今日は、二つになった。

「田辺さんがねぇ……」

 誰かが言う。

 その言い方には、少しの驚きと、少しの納得が混ざっている。

「息子さん、外で働いてるでしょ」

「ああ、それでか」

「戻ってくる話もあるって聞いたわよ」


 話が、少しずつ形を持ち始める。

 誰かの事情が、誰かの言葉で組み立てられていく。

 本当かどうかは、分からない。

 でも、それらしくなる。


「だったら、いいのかもしれないわね」

 ぽつりと誰かが言う。

 その一言で、空気が少しだけ変わる。

 否定の形じゃない。

 かといって、肯定でもない。

 でも——

 前より、遠くない。


 そのとき、奥の方から田辺が歩いてきた。

 いつも通りの歩き方。

 背筋を伸ばして、ゆっくり。

 変わったところは、何もない。

 でも——

 視線が少しだけ集まる。

 それを、本人も感じている。

 足が、ほんのわずかにだけ遅くなる。


「おはようございます」

 田辺が言う。

 きちんとした声。

「おはよう」

 返す声も、きちんとしている。

 でも、その間に、昨日にはなかったものがある。

 言葉にしない確認。

 測るような間。


 田辺は、そのまま通り過ぎる。

 何も言わない。

 何も起きない。

 でも——

 何もなかったわけじゃない。

 翔は、その背中を見ていた。

 昨日の佐々木とは違う。

 でも、同じものを持っているように見えた。

 見えない何か。

 まだ決まっていないもの。

 でも、もう動いているもの。


 昼すぎ、工場で佐久間が言った。

「増えてきたな」

 独り言みたいに。

 でも、聞こえるように。

 父は、何も言わない。

 機械を動かしたまま。

「一つなら偶然だけどな」

 佐久間が続ける。

「二つになると、流れだ」

 父の手が、一瞬だけ止まる。

 すぐに動き出す。

「……まだ分からん」

 低い声。

「そりゃな」

 佐久間は笑う。

 軽く。

「でも、分かるだろ」

 その言い方は、軽いまま。

 でも、外さない。

 父は、答えない。

 答えないまま、音だけが続く。

 ——ウィン。

 一定のはずの音。

 でも、どこかで引っかかる。


 夕方、家に戻ると、千鶴が誰かと話していた。

 声が少しだけ小さい。

「……そうなの?」

「ええ、まだ決めてはないって」

 相手の声は聞こえない。

 でも、何の話かは分かる。

 翔は、戸の外で少しだけ立ち止まる。

「でも、あの人がねぇ……」

 千鶴の声。

 少しだけ揺れている。

「分からなくもないけど……」

 納得と、不安が混ざっている。

 翔は、そのまま中に入った。

 会話が止まる。

「あら、おかえり」

「うん」

 それだけ。

 何も聞かない。

 聞けない。

 聞いたら、答えが返ってきてしまいそうで。


 その夜、食卓は少しだけ騒がしかった。

 昨日より、言葉がある。

 でも、それは安心じゃない。

「田辺さんとこも、らしいわよ」

 千鶴が言う。

 父は、黙っている。

「まだ決めたわけじゃないって」

「そうか」

 短い返事。

「どうなるのかしらね」

 千鶴が言う。

 それは問いだけど、答えを求めていない。

 父は、箸を動かしたまま言う。

「どうにもならん」

 それもまた、答えじゃない。

 でも、逃げてもいない。

 少しの沈黙。


 フミが、ゆっくり口を開く。

「二つになるとね」

 みんな、顔を上げる。

「一つ目より、軽く見えるもんだよ」

 静かな声。

「前に誰かが通った道は、歩きやすいからね」

 誰も否定しない。

 できない。

「でもね」

 少し間を置く。

「歩きやすい道が、正しいとは限らない」


 その言葉は、柔らかい。

 でも、逃げ場はない。

 父は、何も言わない。

 千鶴も、黙る。

 翔は、その言葉を聞いていた。

 頭の中で、繰り返す。

 歩きやすい道。

 正しいかどうか。

 分からない。

 でも——

 人は、歩きやすい方に行く。

 たぶん。


 外では、いつもの音がしている。

 声があって、光があって、生活がある。

 何も変わっていないように見える。

 でも——

 その中に、もう一つ音が増えていた。

 誰かが動く音。

 それが、もう一つ増えた。

 たったそれだけのこと。

 でも、その“たった”が、前とは違う。

 最初の一歩じゃない。

 二つ目の足音。

 それは、後ろに続く場所を作る音だった。

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