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第16話 「見えてしまう」

 その話は、家の中では出なかった。

 出ないまま、あるのが分かる。

 翔は、それが一番やりにくかった。


 朝、父はいつも通りに起きた。

 顔を洗って、黙って座って、飯を食う。

 動きは変わらない。

 でも、何かが違う。

 分かろうとすると、分からなくなる。

 見ないふりをすると、逆に気になる。


「今日、早いな」

 翔が言うと、父は「ん」とだけ返した。

 それ以上はない。

 千鶴も、何も言わない。

 味噌汁の湯気だけが、ゆっくり上がる。

 フミは、いつも通りだった。

 いつも通りすぎて、少し浮いて見えるくらいに。


「ごちそうさま」

 父が立つ。

 そのまま外へ出る。

 音が、少しだけ早い。

 戸が閉まる。

 静かになる。

 翔は、その音を聞いていた。

 何かを置いていったみたいな音だった。


 食べ終わって外に出ると、空気は普通だった。

 子どもの声がして、誰かが笑っている。

 昨日と同じ。

 でも、同じじゃない。

「おはよう」

 声をかけられる。

「ああ、おはよう」

 返す。

 それだけのやり取り。

 でも、その間に何かを測っている感じがする。

 相手も、こっちも。


 工場に入ると、もう父は動いていた。

 機械の前。

 背中だけが見える。

 音が鳴っている。

 ——ウィン。

 一定のはずの音。

 でも、昨日から少し違う。

 翔は、それを聞きながら中に入る。

「手伝うか」

「いい」

 すぐに返ってくる。

 前より、少しだけ強い。

「……そうか」

 それ以上は言わない。

 言えない。


 翔は、少し離れた場所で別の作業を始める。

 工具を手に取る。

 動かす。

 音が出る。

 でも、集中できない。

 耳は、ずっと機械の音を追っている。

 止まらないか。

 ずれないか。

 そんなことばかり気になる。


「昨日さ」

 思い切って言う。

 父の背中に向かって。

 少しだけ間があく。

「……何だ」

 振り向かないまま。

「佐々木んとこ」

 それ以上は続かない。

 言葉が見つからない。

 父は、手を止めない。

「聞いたか」

「うん」

「そうか」

 それだけ。

 終わりみたいな返事。


「……どう思う」

 翔が聞く。

 聞いていいのか分からないまま。

 父の手が、一瞬だけ止まる。

 ほんの一瞬。

 でも、はっきり分かる。

「別に」

 また動き出す。

「人の家のことだ」

 いつもの言い方。

 でも、少しだけ固い。

「でも——」

 翔が言いかける。


 そのとき、機械の音がわずかに揺れた。

 ——キィン。

 小さなズレ。

 父がすぐに手を入れる。

 調整する。

 音が戻る。

 ——ウィン。

 さっきと同じになる。

 でも、同じじゃない。

「自分のとこ考えろ」

 父が言う。

 短く。

 それで終わり。

 翔は、何も言えなくなる。

 言葉が、どこかで止まる。


 昼過ぎ、外に出ると、光江たちがいた。

 いつもの場所。

 いつもの顔。

 でも、話している内容は、いつもじゃない。

「佐々木さんとこ、どうするのかしらね」

「もう決まってるんじゃない」

「いや、まだらしいぞ」

 断片的な言葉。

 どれも、はっきりしない。

 でも、全部それっぽい。

 翔は、少し離れたところで聞く。

 昨日と同じ。

 でも、少し違う。

 昨日は、ぶつかっていた。

 今日は、広がっている。

 誰の話でもないのに、誰の話でもある。


「隆一さんとこはどうするの」

 その言葉で、少しだけ空気が変わる。

 翔は、顔を上げる。

 誰かが、軽く言っただけ。

 深い意味はないのかもしれない。

 でも、消えない。

「さあね」

 光江が言う。

「でも、仕事減ってるって聞いたわよ」

 どこから出たのか分からない話。

 でも、否定されない。

 そのまま残る。


 翔は、その場を離れた。

 それ以上、聞きたくなかった。

 聞いたら、戻れなくなる気がした。

 家に戻ると、誰もいなかった。

 静かだ。

 座る。

 何もしない。

 さっきの言葉が、頭の中で回る。

 佐々木。

 契約。

 仕事が減る。

 どうする。

 どうなる。

 答えはない。

 でも、問いだけが増える。


 夕方、父が戻ってきた。

 何も言わない。

 いつも通りに座る。

 いつも通りに飯を食う。

 でも、その“いつも通り”が、少し遠い。

 翔は、箸を持ったまま言う。

「ここ、なくなるのかな」

 出てしまった言葉。

 止められなかった。

 父が、手を止める。

 ゆっくり、顔を上げる。

 目が合う。

 その目は、いつもと同じじゃなかった。

「分からん」

 それだけ。

 でも、それが全部だった。


 分からない。

 決まっていない。

 でも、動いている。

 そのまま、父はまた飯を食べる。

 何もなかったみたいに。

 翔も、何も言わない。

 言えない。

 外では、またあの音がしている。

 ——ウィン。

 止まらない音。

 でも、もう前と同じには聞こえない。


 翔は、ふと思う。

 見えなければよかった、と。

 何も知らないままでいられたら、楽だったのかもしれない。

 でも——

 一度見えてしまったものは、消えない。

 目を閉じても、そこにある。

 それは、まだ形になっていない。

 でも、確かにそこにある。

 名前のつかないままの、不安だった。

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