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第15話 「先に見えたもの」

 その日の夜、路地は少しだけ静かだった。


 昼間のことが、どこかに残っている。

 誰も口にはしない。

 でも、消えてもいない。

 佐々木は、店の戸を半分だけ閉めていた。

 明かりはついている。

 けれど、いつもより外にこぼれない。

 中で、一人座っていた。

 何もしていないわけじゃない。

 手は動いている。

 でも、進んでいない。

 同じところを、何度も触っている。


 ——トントン。

 軽く叩く音。

 止まる。

 また、叩く。

 その繰り返し。

 やがて、外から足音がした。

 ゆっくりした歩き方。

 戸の前で止まる。

「いるかい」

 フミの声だった。

「……いるよ」

 少し間を置いてから答える。

 戸が開く。

 冷たい空気が少し入る。

 フミは、そのまま中に入った。

 いつものように。

「座るよ」

「勝手にしな」

 ぶっきらぼうに言う。

 でも、追い出さない。

 フミは、椅子に腰を下ろした。

 少しの沈黙。

 店の中の音だけがある。


「昼は、賑やかだったね」

 フミが言う。

「……見てたのか」

「見なくても分かるよ」

 佐々木は、小さく息を吐く。

「噂、回るの早すぎるだろ」

「回ってるんじゃないよ」

 フミが言う。

「みんな、探してるのさ」

「何を」

「答えを」

 佐々木は、少しだけ笑う。

 力のない笑いだった。

「そんなもん、どこにもねえよ」

「そうだね」

 フミは、あっさり言う。

「でも、ないままじゃ落ち着かない」

 また、沈黙。

 外で、誰かの話し声が遠くに聞こえる。

 すぐに消える。


「……話はした」

 佐々木が言う。

 昼間と同じ言葉。

 でも、少し違う。

「役所のやつと」

「うん」

「契約は、してない」

「うん」

「でも、条件は聞いた」

 フミは、何も言わない。

 急かさない。

 佐々木は、手を止めたまま続ける。

「金は出る」

「だろうね」

「今より広いとこも、あるらしい」

「そうかい」

「設備も、新しくできるって」

 言葉は並ぶ。

 どれも悪くない。

 むしろ、いい話に聞こえる。


「……でもな」

 そこで止まる。

 少し長い沈黙。

「そこに、ここはない」

 ぽつりと出た言葉だった。

 フミは、ゆっくり頷く。

「そうだね」

「当たり前だけどな」

 佐々木は、苦笑する。

「図面見せられてさ」

「うん」

「きれいなんだよ」

「だろうね」

「まっすぐで、広くて」

 少しだけ顔を上げる。

「でも、どこにも引っかからねえんだ」

 その言い方は、少しだけ切実だった。

「ここにあったもんが、どこにもない」

 フミは、そのまま聞いている。

「じゃあ、何で迷ってるんだい」

 静かに聞く。

 責めるでもなく、誘うでもなく。

 ただ、そこに置くように。

 佐々木は、すぐには答えない。

 少し考える。

 考えているのか、言葉を探しているのか。


「……見えたからだよ」

 やっと出てきた言葉。

「何が」

「終わりが」

 短い。

 でも、重い。

 フミの目が、少しだけ細くなる。

「このままじゃ、いずれ終わる」

 佐々木は言う。

「仕事も、場所も」

 昼間に出た言葉と同じ。

 でも、今は逃げていない。

「だったら、先に動いたほうがいいんじゃないかって」

「怖かったんだね」

 フミが言う。

 優しくも、強くもない。

 ただ、事実として。

 佐々木は、少しだけ顔をしかめる。

「……ああ」

 否定しない。

「怖えよ」

 はっきり言う。

「見えちまったら、もう戻れねえ」

 その言葉は、静かだった。

 でも、重さがあった。

 フミは、ゆっくり息を吐く。


「みんなもね、同じだよ」

「分かってる」

「ただ、まだ見てないだけ」

「……だろうな」

 短いやり取り。

 でも、十分だった。

 外の風が、少し強くなる。

 戸がわずかに鳴る。

「だからね」

 フミが言う。

「あんたが悪いわけじゃない」

 佐々木は、顔を上げる。

「でもね」

 少し間を置く。

「あんたが動けば、みんな揺れる」

 その言葉は、昼間と同じ。

 でも、今は違う場所に届く。

「分かってるよ」

 佐々木は言う。

「分かってて、やってる」

 それもまた、逃げていない。

 フミは、少しだけ笑う。

「だったら、いいさ」

 立ち上がる。

「どうせ、止まらない流れだ」

 あっさりした言い方。

 でも、諦めではない。

「ただね」

 戸に手をかけて、振り返る。

「一人で決めたつもりでも、一人の話じゃなくなる」

 佐々木は、何も言わない。

「それだけ、忘れなきゃいい」

 そう言って、外に出る。

 戸が閉まる。

 また、静かになる。


 佐々木は、そのまま座っていた。

 手は動かない。

 目の前のものも、見ていない。

 しばらくして、机の端に置いてあった紙を手に取る。

 白い紙。

 昼間、置かれたままのもの。

 ゆっくり開く。

 中を見る。

 文字と数字。

 条件。

 場所。

 期限。

 ——期限。

 その言葉に、目が止まる。

 指でなぞる。

 何度も。

 外では、いつもの音がしている。

 誰かの声。

 遠くのテレビ。

 食器の触れる音。

 全部、いつもと同じ。

 でも——

 その中に、もう一つの音が混ざっていた。

 時間が、動く音。

 止まらないまま、進んでいく音。


 佐々木は、紙をたたんだ。

 元の場所に戻す。

 触れなかったみたいに。

 でも——

 一度見たものは、もう消えなかった。

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