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第14話 「ずれる音」

 その日は、朝から少しだけうるさかった。

 いつもの声だ。

 いつもの場所だ。

 でも、調子が違う。


「だから、そういう話じゃないって言ってるだろ」

 路地の真ん中で、声が上がっていた。

 翔は、家の戸を開けたところで足を止める。

 見慣れた顔が、向かい合っている。

 佐々木と、光江だった。

「じゃあ何よ。もう決めたって聞いたわよ」

「“決めた”なんて言ってない」

「でも話は進めてるんでしょ」

 間があく。

 その沈黙が、答えみたいだった。

「……検討してるだけだ」

「それを普通は“決めてる”って言うのよ」

 光江の声は、いつもより強い。

 周りに人が集まっている。

 いつの間にか、自然と。

 誰も止めに入らない。

 入れない。


「別に、悪いことしてるわけじゃないだろ」

 佐々木が言う。

 その言い方は、少しだけ固かった。

「悪いなんて言ってないわよ」

「じゃあ何だよ」

「……早すぎるのよ」

 その一言で、空気が変わる。

 佐々木の顔が、わずかに動く。

「何が」

「みんな、まだ分かってないのに」

 光江は、周りを見た。

 そこにいる顔を、一人ずつ確かめるみたいに。

「なのに、一人だけ先に動くってどういうこと?」

 責めているのか、確かめているのか。

 その境目が、はっきりしない。


「……関係ないだろ」

 低い声。

「俺の家のことだ」

「そうね」

 すぐに返す。

「でも、ここで暮らしてるのはあなただけじゃない」

 その言葉に、誰も口を挟まない。

 挟めない。

 正しいのかどうか、分からないから。

「俺だって考えてる」

 佐々木が言う。

「好きでやってるわけじゃない」

「じゃあ何で」

「このままじゃ無理だからだよ」

 少しだけ、声が大きくなる。

 その瞬間、周りの空気が揺れる。


「仕事も減ってる。先も見えない」

 誰もが、聞いたことのある話だった。

 でも、こうして言葉にされると、重さが違う。

「だったら——」

 光江が言いかけて、止まる。

 続きが見つからない。

「だったら、何だ」

 佐々木が聞く。

 責めるようではない。

 でも、逃げ場もない。

 沈黙が落ちる。

 そのとき、奥から別の声がした。


「契約、したんだろ」

 小さな声だった。

 でも、はっきり聞こえた。

 みんなが振り向く。

 言ったのは、誰だったのか分からない。

 誰かの後ろに隠れるような位置。

「……誰がそんなこと言った」

 佐々木の声が、少しだけ変わる。

「見たって人がいる」

「どこで」

「昨日、役所の人と」

 断片的な言葉。

 でも、それで十分だった。

「してねえよ」

 即座に否定する。

 けれど、その速さが、逆に引っかかる。

「本当に?」

 光江が聞く。

 さっきよりも、静かな声で。

 佐々木は、すぐに答えない。

 ほんの一瞬。

 それだけで、空気が決まる。


「……話はした」

 認める。

「でも、まだだ」

 “まだ”。

 その言葉が、妙に残る。

「ほら」

 誰かが小さく言う。

「やっぱり」

 それが、火種になる。

「もう決まってるようなもんじゃないか」

「そうだよな」

「だから言っただろ」

 声が、少しずつ重なる。

 大きくはない。

 でも、止まらない。

 佐々木は、それを一つ一つ聞いている。

 聞かされている。


「……勝手に決めるな」

 低く言う。

「勝手に話を作るなよ」

「作ってないわよ」

 光江が言う。

「見えてることを言ってるだけ」

「見えてねえだろ」

「見えてるわよ」

 また、ぶつかる。

 でも、さっきとは少し違う。

 言葉が、少しずつ噛み合わなくなっている。

 同じ話をしているのに、同じ場所にいない。

 翔は、その様子を見ていた。

 どこかで、線が引かれていく感じ。

 まだ細い。

 でも、消えない。


 そのとき、フミがゆっくりと前に出た。

「そこまでにしな」

 大きな声じゃない。

 でも、届く。

 みんな、少しだけ黙る。

「何をそんなに急いでるんだい」

 誰に向けた言葉か分からない。

「決めるのも、決めないのも、時間は同じだけ流れるよ」

 静かな言い方。

 でも、逃げ道もない。

「一人が動けば、周りも動く」

 佐々木の方を見る。

「それは、責めることじゃない」

 今度は、光江の方を見る。

「でも、揺れるのも仕方ない」

 どちらにも寄らない。

 でも、どちらも外さない。

 しばらくの沈黙。

 誰も、すぐには言葉を出さない。


 佐々木が、ゆっくり息を吐く。

「……帰る」

 それだけ言って、背を向ける。

 止める声は、ない。

 光江も、何も言わない。

 ただ、その背中を見ている。

 周りの人たちも、少しずつ散っていく。

 何もなかったみたいに。

 でも、何もなかったわけじゃない。

 

 翔は、その場に残った。

 さっきまで声があった場所。

 今は、少しだけ静かだ。

 遠くで、工場の音がする。

 ——ウィン。

 いつもの音。

 でも、どこかずれて聞こえる。

 一定のはずの音が、ほんの少しだけ揺れている。

 翔は、耳をすませる。

 気のせいかもしれない。

 でも、そうじゃない気もする。

 

 路地は、同じ形のままだった。

 同じ人がいて、同じ声があって。

 けれど——

 その中のどこかが、少しだけ噛み合わなくなっていた。

 ほんのわずかなズレ。

 まだ、直せるのかもしれない。

 でも——

 どこから直せばいいのかは、誰にも分からなかった。

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