第13話 「ひとり分の決断」
その話は、噂の形で回ってきた。
「聞いた?」
朝、井戸端で光江が言った。
「何を」
「佐々木のとこ、もう決めたらしいわよ」
水を汲む手が、一瞬止まる。
「決めたって、何を」
「移るのよ」
言葉はあっさりしていた。
けれど、その意味はあっさりしていない。
近くにいた何人かが顔を上げる。
「ほんとかよ」
「さあね、でも昨日、誰か来てたって」
「スーツのやつか」
「そうそう」
同じ顔が、思い浮かぶ。
あの、丁寧な言い方の男たち。
翔は、その少し離れたところで聞いていた。
聞こうとしていたわけじゃない。
でも、耳に入る。
「早いな」
「早いっていうか……」
光江が、言葉を探す。
「賢いのかもね」
その言い方に、少しだけ引っかかるものがあった。
誰もすぐには返さない。
「でも、まだ何も決まってないって話じゃなかったか」
「決まってないから、先に動くんでしょ」
それも、分かる気がする。
分かる気がするのが、少し嫌だった。
そのとき、路地の奥から佐々木が歩いてきた。
いつもと同じように。
買い物袋を下げて。
誰かが、声をかける。
「おはよう」
「ああ、おはよう」
いつもと同じ返事。
けれど、その“同じ”が、少しぎこちない。
さっきまで話していた人たちが、少しだけ静かになる。
何もなかったみたいに、水を汲む音が戻る。
佐々木は、それに気づいているのかいないのか、そのまま通り過ぎた。
翔は、その背中を見ていた。
いつもより、少しだけ小さく見える気がした。
その日の昼すぎ。
工場の前に、またあの車が止まった。
白い車。
見覚えのある形。
翔は、すぐに分かった。
父も、気づいていた。
機械の音が止まる前に、手を離す。
「……またか」
小さく言う。
ドアが開く音。
靴の音。
前と同じ男が入ってくる。
「お忙しいところ——」
「何度来ても同じだ」
父は、最後まで聞かない。
男は、一度だけうなずく。
「承知しております」
それでも帰らない。
前よりも、少しだけ踏み込んでくる。
「ですが、周りの状況も変わりつつあります」
父の目が、わずかに動く。
「すでに何件か、前向きなお話をいただいておりまして」
その言葉は、やわらかい。
けれど、逃げ場がない。
「だから何だ」
「ご判断の材料として——」
「いらない」
すぐに返す。
けれど、前よりもわずかに間があった。
翔は、それを見ていた。
男は、資料を一枚だけ置いた。
「置いておきます」
それだけ言う。
強くはない。
でも、引かない。
そのまま、頭を下げて出ていく。
静かに。
来たときと同じように。
ドアが閉まる。
音が消える。
しばらく、誰も動かない。
父は、その紙を見ない。
見ないまま、機械に向き直る。
スイッチを入れる。
——ウィン。
音が鳴る。
少しだけ遅れて、一定になる。
翔は、その紙を見た。
机の端に置かれている。
白いまま。
触れていない。
触れないまま。
夕方、路地に出ると、いつもと同じように人がいた。
話し声もある。
笑い声もある。
でも、その中に、さっき聞いた話が混ざっている気がした。
目には見えないのに、分かる。
誰がどこに立っているか。
どこからどこまでが、同じなのか。
まだ、はっきりとはしていない。
でも——
少しだけ、線が引かれ始めていた。




