第11話 「説明の言葉」
張り紙が出てから、三日ほど経った。
剥がされることもなく、増えることもなく、ただそこにある。
けれど、誰もそれを“ただの紙”としては見なくなっていた。
通るたびに、ちらりと目がいく。
読んでも意味は変わらないのに、もう一度読む。
そんなことを、みんながしていた。
その朝、張り紙の横に、もう一枚紙が増えていた。
「また何か貼ってあるわよ」
光江の声で、また人が集まる。
前よりも、集まるのが早い。
千鶴が近づいて読む。
「……説明会のお知らせ、だって」
「説明会?」
「今度の日曜、公民館で……」
「誰が来るの」
「区の担当者、って書いてある」
また、分からない言葉が増えた。
「区って、どこまでのことよ」
「役所だろ」
「役所って誰よ」
同じところをぐるぐる回る。
フミは、少し離れたところからその様子を見ていた。
「行くしかないねぇ」
ぽつりと言う。
「行って、聞くしかない」
それは当たり前のことのようで、少しだけ重かった。
日曜日。
公民館は、思っていたより人が多かった。
この路地の人間だけじゃない。近くの通りや、さらに向こうからも来ているらしい。
見たことのある顔と、見たことのない顔が混ざっている。
「こんなにいるのか」
父が小さく言う。
千鶴は、落ち着かない様子で周りを見ている。
真理は、少し後ろに立っていた。
翔は、その間にいる。
会場の前には、長机が並び、その向こうにスーツ姿の男たちが座っていた。
この町ではあまり見かけない格好だ。
ぴしっとしていて、どこか隙がない。
やがて、一人が立ち上がった。
「本日は、お忙しい中——」
話が始まる。
丁寧な言葉。
よく通る声。
けれど、どこか遠い。
「本区域における再開発事業につきまして——」
またその言葉だ。
再開発。
さっきよりも長い説明が続く。
「都市機能の向上」
「安全性の確保」
「住環境の整備」
言葉は、どれも立派だった。
けれど、どれも具体的ではない。
誰かが小さく言う。
「何言ってるか分かるか?」
「さっぱりだ」
笑いにはならない、小さな声。
「つきましては、皆様には——」
話は続く。
資料が配られる。
紙には図が描かれている。
四角い建物、まっすぐな道路。
今の路地とは、まったく違う形。
翔は、その紙を見た。
どこを見ても、知っている場所がない。
ここが、どこなのか分からない。
「質問のある方は——」
その言葉で、会場が少しざわつく。
誰も手を挙げない。
挙げていいのかどうかも、分からない。
やがて、一人の男が立ち上がった。
「ちょっといいですか」
年配の男だった。
「ここに住んでる者ですけど」
「はい」
「つまり、出ていけってことですか」
その言葉で、空気が一瞬止まる。
みんなが前を見る。
スーツの男は、少しだけ間を置いてから答えた。
「いえ、そのような一方的なものではなく——」
また、丁寧な言葉。
「ご理解とご協力をお願いする形で——」
「だから、それは出ていけってことだろ」
少し強い声。
会場がざわつく。
「補償等につきましても——」
「いくらだよ」
別の声が飛ぶ。
「金の話をしてるんじゃない」
また別の声。
「ここで暮らしてんだよ、こっちは」
言葉が重なり始める。
スーツの男は、手を軽く上げた。
「皆様、落ち着いて——」
その言い方が、少しだけ場違いに聞こえる。
父は、腕を組んだまま黙っている。
顔は変わらない。
けれど、視線はまっすぐ前に向いている。
千鶴は、不安そうに資料を見ている。
何度見ても、分からない。
真理は、その様子をじっと見ていた。
前ではなく、周りを。
人の顔を、一人ずつ。
ざわつき、不安げな顔、怒っている顔。
その中で、フミだけが、静かに座っていた。
資料は膝の上に置いたまま、ほとんど見ていない。
ただ、話を聞いている。
その顔は、いつもと変わらない。
けれど、目だけが少しだけ鋭かった。
やがて、説明は終わった。
終わったのかどうかも、はっきりしないまま。
人々は、ざわざわと外へ出る。
「結局、どういうことなの」
「分かったやついるのか」
「話にならないな」
同じ言葉が、あちこちで繰り返される。
帰り道、路地に入ると、少しだけほっとする空気があった。
見慣れた場所。
いつもの匂い。
けれど——
「どうなるのかねぇ」
誰かが言う。
今までとは違う問いだった。
フミが、ゆっくり歩きながら答える。
「すぐには決まらないさ」
「でも、いずれは、ってことだろ」
その言葉に、誰もすぐには返さない。
少しの沈黙。
フミは、立ち止まった。
「分からないことはね、怖く見えるもんだよ」
みんな、顔を上げる。
「でもね、分かっても、怖いものは怖い」
静かな言い方だった。
「だから、慌てなくていい」
それだけ言って、また歩き出す。
誰も反論しない。
できない。
路地は、いつもと同じだった。
子どもの声がして、どこかで鍋の音がする。
けれど、その中に、ひとつだけ新しいものが混ざっていた。
うまく言葉にできない、不安のようなもの。
それはまだ小さい。
けれど、確かにそこにあった。




