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第10話 「張り紙」

 それは、いつのまにか貼られていた。

 誰が貼ったのか、最初に見つけたのが誰なのかも、はっきりしない。


「あれ、何だ?」

 朝、水を撒いていた光江が、ふと足を止めた。

 路地の入口、電柱の横。

 見慣れた場所に、見慣れない紙が一枚。

 白い紙に、黒い文字。

 それだけなのに、妙に目立っていた。

「ちょっと、これ……」

 声に気づいて、千鶴も出てくる。

「どうしたの」

「あそこ」

 指さされた先を見る。


 千鶴は、少し目を細めた。

 近づいて、読む。

 そのまま、動かなくなる。

「……何それ」

 後ろから覗き込んだ誰かが言う。

 千鶴は、すぐには答えなかった。

 もう一度、紙を見る。

 まるで、見間違いであってほしいみたいに。

「どうしたのよ」

「何が書いてあるの」

 声が重なる。

 やがて、千鶴がぽつりと言った。

「……立ち退き、だって」


 一瞬、意味が通らない。

「は?」

「立ち退きのお願い、って」

 その言葉が、少し遅れて広がる。

「なんだそれ」

「誰が?」

「どこの話よ」

 ざわざわとした声。


 誰かが紙を読む。

「“本区域一帯を再開発のため——”」

「再開発?」

「何それ」

 聞いたことのあるような、ないような言葉。

 ふわっとしていて、つかみどころがない。

「ここ、ってこと?」

「そう書いてあるじゃない」

「全部?」

「一帯って書いてあるだろ」

 誰も、ちゃんと理解していない。

 けれど、何か良くないことだというのは分かる。


 そのとき、フミがゆっくり歩いてきた。

「どうしたんだい」

 いつもの声。

 けれど、周りの空気はいつもと違う。

「フミさん、これ見てよ」

 光江が紙を指さす。

 フミは近づいて、目を通した。

 少し時間がかかる。

 文字を一つひとつ追うように読む。

 読み終えて、顔を上げた。

「……そうかい」

 それだけだった。

「“そうかい”じゃないわよ」

 千鶴が言う。

「これ、どういうことなの」

「どういうことかねぇ」

 フミは、紙をもう一度見た。

「書いてある通りなんだろうね」

 あまりにもそのままの言葉。

「だから、それが分かんないのよ!」

 少しだけ強い声。

 千鶴らしくない。

 それだけ、この紙がいつもと違う。

 そのとき、後ろから声がした。


「何の騒ぎだ」

 父だった。

 仕事に行く途中らしい。

 腕を組んで、紙を見る。

 黙って読む。

 顔は変わらない。

 けれど、読み終えたあと、少しだけ間があった。

「……ふん」

 短く息を吐く。

「こんなもん、いきなり貼ってくるか普通」

「どういうことなのよ」

 千鶴が聞く。

 父は、少しだけ考えてから言った。

「まだ決まった話じゃない」

「でも、書いてあるじゃない」

「“お願い”だろ」

 その言い方は、妙に現実的だった。

「決まってるなら、“命令”になる」

 そう言って、背を向ける。

「とにかく、仕事行ってくる」

「ちょっと——」

 千鶴が呼ぶが、父は振り返らない。

 そのまま歩いていく。

 いつもの背中。

 でも、少しだけ速い。


 残された人たちは、また紙を見る。

 誰も、剥がそうとはしない。

 ただ、見ている。

 しばらくして、誰かが言った。

「これ……本当にやるのかしら」

 誰も答えない。

 答えられない。

 言葉にすると、現実になりそうで。

 翔は、そのやりとりを少し離れたところから見ていた。


 “立ち退き”。

 意味はよく分からない。

 けれど、なんとなく嫌な感じがする。

 自分の場所じゃなくなるような、そんな感じ。

 そのとき、健二が小声で言った。

「なあ」

「うん」

「ここ、なくなるのかな」

 その問いは、さっきまでのどの大人の言葉よりも、まっすぐだった。

 翔は、すぐには答えられなかった。

 路地を見る。

 洗濯物が揺れている。

 どこかで味噌の匂いがする。

 遠くで、工場の音が続いている。

 いつもと同じ景色。

 変わっていない。

 なのに、どこか違う。

「……分かんない」

 それしか言えなかった。


 風が、少しだけ吹いた。

 張り紙が、かすかに揺れる。

 音はしない。

 ただ、そこにある。

 それだけで、何かが変わり始めていた。

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