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プロローグ 「坂の下の灯り」

 朝は、音でやって来る。


 まだ空が白みきらないうちから、路地の奥で誰かが戸を開ける音がする。

 引き戸が木の溝をこする、乾いた、少しだけ眠気を引きずった音だ。

 つづいて、水を打つ気配。どこかの家の前で、柄杓の水が土を叩き、ほこりを鎮める。

 それから、豆腐屋のラッパが鳴る。

 ——とおふ。

 間延びした、頼りないようでいて、不思議と胸に残る音。

 あの音を聞くと、まだ布団の中にいても、「ああ、朝になった」と思う。


 翔は目を覚ました。天井は低く、木目がところどころ黒ずんでいる。

 夏でもないのに、どこか湿り気を帯びた匂いがするのは、この家が古いからだと、なんとなく知っていた。


 台所の方から、包丁の音が聞こえる。一定の調子で、まな板を叩く音。

 トン、トン、トン。

 その音に混じって、もう一つ、柔らかい気配がある。

 畳を拭く音だ。

 雑巾がい草の目に沿って滑る、かすかな擦過音。

 規則正しく、けれど急がず、まるで呼吸のように続く。


 翔は起き上がり、襖を少しだけ開けた。

 廊下の先、朝の光がまだ弱い座敷で、祖母のフミが腰を折っていた。細い背中が、ゆっくりと前へ進む。

 片手で雑巾を押し、もう片方の手で畳をなぞるようにして、丁寧に拭いている。

 その動きには、迷いがなかった。

 どこを、どの順番で、どのくらいの力で拭くのか——すべてが身体に染み込んでいるようだった。

 翔が見ていると、フミは顔を上げた。


「あら、もう起きたのかい」

 声はやわらかく、少し掠れている。けれど、不思議とよく通る。

「うん」

「まだ早いよ。もう少し寝ていてもいいのに」

 そう言いながら、フミはまた手を動かす。

 雑巾が畳の上を往復する。

 しばらくしてから、ぽつりと付け足した。

「朝のうちに、こうしておくとね。気持ちがいいんだよ」

 それが誰に向けた言葉なのか、翔にはよく分からなかった。自分に言ったようでもあり、家に言っているようでもあった。


 やがて、路地の向こうから声がした。

「おはようさん、フミさん」

 女の声だ。少ししゃがれている。

 フミは顔を上げずに応じる。

「おや、おはよう。今日は早いね」

「弁当があるもんでね。あんたんとこは相変わらずだねぇ、朝からきれいにして」

「古い家だからね、手をかけてやらないと、すぐ機嫌を損ねるんだよ」

 軽く笑う気配が、廊下にやわらかく広がった。


 翔は、そのやりとりを聞きながら、ふと考えた。

 家に機嫌があるのだろうか、と。

 けれどフミの手つきを見ていると、なんとなく、そういうものかもしれないと思えてくる。

 畳も、柱も、戸も、みんな少しずつ古びていて、触れるとひんやりしている。

 けれど、それは冷たいというより、長い時間を覚えているような感触だった。

 外では、父の工場のシャッターが上がる音がした。ガラガラと、重い鉄の音。

 少し遅れて、機械が動き出す。低く、唸るような音が路地に広がる。

 その音は、いつもそこにあった。

 朝から夕方まで、休みなく続く、町の底に流れるような音だった。

 翔はそれを当たり前のものとして聞いていたし、たぶん、明日も明後日もずっと続くのだと思っていた。


 フミは最後に、座敷の中央をひと撫でして、雑巾を絞った。

 ぎゅっと力を込めると、水がぽたりと落ちる。

 それから、畳を見渡して、小さくうなずいた。

「よし」

 誰に聞かせるでもない声だった。

 けれど、その一言で、この家がちゃんと一日を始めたような気がした。


 外の光が、少しだけ強くなる。

 路地に人の気配が増え、声が重なり、音が重なっていく。

 そのすべてを受け止めるように、古い家は静かにそこにあった。

 まだ、何も失われていない朝だった。

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