第9話 王妃の部屋──欠落した十六年と嘘つきの王子
王妃に抱えられたまま庭園を離れ、
城の奥へ向かう長い廊下を歩いていた。
赤い絨毯の下で、
自分の足音がやけに遠く感じる。
胸の奥の吸血衝動はまだ燻っているが、
王妃の手が背を支えてくれるだけで、
暴れる鼓動が少しだけ収まった。
(……やっぱり、この人……
どうしてこんなに安心するんだ)
記憶はない。
なのに安心感だけは、まるで染みついているようだった。
王妃は静かに言った。
「レイアス……部屋に戻りましょう。
あなたの顔色は……まだ十分とは言えません」
「……すまない」
その言葉が自然に口をついた瞬間、
自分でも驚いた。
“王子としての語彙”なのか、
身体が覚えている喋り方なのか分からない。
前世の俺の口調じゃない。
そのギャップが胸に重くのしかかった。
王妃の部屋に入ると、
扉が静かに閉められる。
深紅と白金を基調とした広い部屋で、
天蓋付きの寝台、
暖炉、
壁に飾られた古い紋章――
どれもが品があり、触れるのが怖いほど美しかった。
王妃はそっと椅子を引き、
俺を座らせる。
「レイアス……息は、落ち着いた?」
「……さっきよりは」
王妃が近づき、
俺の額に手を当てた。
その手は驚くほど優しくて、
幼子を宥めるような温かさだった。
胸の奥が、また痛む。
(……俺はこの人の“息子”なんだよな?
だけど……思い出せない)
王妃はしばらく俺の呼吸を見守っていたが、
ふと視線を伏せた。
「……レイアス。
本当に……今日は、驚くことばかりでしたね」
《零冠》のことだ。
血を消したあの瞬間。
全員の視線。
周囲のざわめき。
そして吸血衝動の暴走。
その記憶が胸をざわつかせる。
「……母上」
「なあに、レイアス?」
王妃の返事があまりに優しく、
胸が苦しい。
言うべきか、言わないべきか。
(……でも、このままでは……)
俺はこの世界のことを知らなすぎる。
兄弟の顔は分かるが、
性格を知らない。
侍女の名前も知らない。
王族としての礼儀も、
行事も、
血の儀式も、
何も知らない。
言動の端々に“違和感”が出ていることくらい、
自分でも分かる。
このままだと……いずれ必ずバレる。
(前世の記憶はあっても……
レイアスとしての十六年が……まるごと無い)
この矛盾は隠しきれない。
だから――
せめて王妃だけには、
少しだけ打ち明けたい。
息を吸い、
ゆっくりと口を開いた。
「……母上。俺は……」
俺は――。
言おうとした瞬間、
王妃は微かに微笑んだ。
「そう。
あなたは“言おうとしている”のね」
(……え?)
王妃の瞳は優しく揺れたまま、
俺の口元に触れた。
「でも、大丈夫。
無理に話さなくていいのですよ」
「……どうして……?」
王妃は、泣きそうな声で答えた。
「あなたが……何かを忘れていることくらい、
母には分かります」
心臓が止まりかけた。
(……気づいて……た?
そんな……はず……)
王妃の声は震えていた。
「レイアス……。
あなたは幼い頃から本当に繊細で……
“何かを閉じ込めてしまう癖”があったのですよ」
「……閉じ込める……?」
「ええ。
悲しい記憶も。
苦しいことも。
血が怖いことも。
あなたは“忘れたふり”をして、
誰にも言わずに心の奥に押し込めてきた」
違う。
俺は、忘れたふりなんてしていない。
俺は――本当に知らないんだ。
でも王妃は、それを“昔からの癖”だと思っている。
(……どうする?
この人に全てを言ってしまったら……
“レイアスではない何か”だと疑われるかもしれない)
前世の記憶を持つなど説明できない。
飲み込んだ言葉が胸に刺さる。
王妃は、
俺が黙った理由を“別の方向”で受け取ったらしい。
「あなたは……今、怖いのでしょう?」
王妃の指先が頬をなぞる。
「《零冠》の覚醒も、
吸血衝動の苦しみも、
血を消してしまったあの瞬間も……
全部があなたにとって、
記憶と心を揺さぶるほどの出来事だった」
その言い方は、
俺の苦しみを“正しい理由”で理解してくれているようで、
逆に胸が痛くなる。
(違う……俺は……
レイアスとしての記憶そのものが……ないんだ)
喉が詰まる。
声が出ない。
だが王妃は慈しむように頭を撫でた。
「あの庭園で泣いたのは、
“初めて”ではありません」
(……!)
俺は思わず顔を上げた。
王妃の瞳は優しいままだった。
「あなたは昔から……
本当に泣き虫な子だったのですよ。
優しくて、
傷つきやすくて、
誰よりも繊細で……」
(そんな……話、俺は知らない……)
知らないのに――
胸の奥で何かが疼く。
懐かしいような、違和感のような、
説明のつかない感覚。
王妃は続けた。
「だから、あなたが今日……
血の香りで苦しんだり、
母を呼んだりしたことは……
“初めてではない”のです」
初めてじゃない?
(俺は……レイアスとして……
ずっと……こうして守られてきた……?)
知らない。
思い出せない。
でも――
身体が反応してしまう。
胸が熱くなり、
喉の奥が詰まる。
(……そんな記憶……俺には……ないのに……)
王妃は泣く寸前の顔で俺の手を握った。
「レイアス。
あなたが“忘れてしまったもの”は……
いつか必ず……取り戻せます」
(……取り戻せるのか?
前世の記憶と……この十六年間の記憶……
両方抱えて生きるなんて……)
返事ができない。
王妃は俺の沈黙を“悲しみ”だと受け取り、
手を重ねる。
「あなたが何を忘れていても……
母は、怒ったりしません。
責めたりもしません」
(……優しすぎるだろ……)
胸が痛い。
俺はこの人の「息子」のはずなのに、
何一つ覚えていない。
それなのに、
この人は――
俺を疑いもしない。
王妃の声が震えた。
「レイアス……
あなたは生まれた時からずっと……
“母の宝物”でした」
涙がかすかに頬を伝った。
その涙が落ちる音だけが、
静かな部屋に響いた。
(……俺は……
この十六年を忘れているだけじゃない。
“誰かの愛情”をまるごと失ったんだ)
その事実が、
胸に重く突き刺さる。
王妃は立ち上がり、
俺の肩にそっと外套を掛けた。
「……ゆっくり思い出せばいいのですよ、レイアス。
あなたはもう……一人ではありません」
その言葉は慰めでもあり、
同時に――
俺の嘘を覆い隠す“美しい誤解”でもあった。
言えない。
俺は、レイアスではないと。
前世の男で、
血が怖いだけの弱い人間だと。
その告白は――
今の俺にはできなかった。
何も返事することができず、
ただ喉の奥で苦しさを噛み殺す。
王妃の瞳は揺れていた。
その揺らぎの奥に、
隠しきれない“不安”があった。
王妃は本能で感じている。
――この子は“なにかが違う”。
そして俺もわかっていた。
この“違い”は、
いずれ必ず露見する。
だが今はただ――
優しい嘘に包まれるしかなかった。
深紅のカーテンの向こうで、
外の月が静かに沈んでいく。
十六年分の記憶の欠落は、
俺の胸の中で静かに広がり続けていた。




