第8話 カーミル視点──“理解できない兄”
庭園の影に身を潜めながら、
俺は遠くにいる二人を見つめていた。
レイアス兄上と――母上。
兄上は、まるで壊れたように震えていた。
肩が上下し、喉から必死の呼吸が漏れる。
あの兄上が?
あの“無傷の王子”が?
“血酒の香りを嗅いだだけで”
倒れそうになり、
母上にしがみついて泣いている?
(……なんだよ、それ)
思考がうまく回らなかった。
兄上は完璧で、
強くて、
優雅で、
誰よりも期待される存在で――
なのに。
その兄上が、
俺の知らない場所で“泣いていた”。
母上の腕の中で。
しかも、母上の表情は……
俺には向けられたことのないほど深い悲しみに満ちていた。
(なんでだよ……)
胸の奥が、
ぎゅっと痛んだ。
兄上が泣いている理由なんて知らない。
血を見たくない? 匂いがきつい?
そんな馬鹿な。吸血鬼だぞ。
俺には理解できない。
でも。
理解できなくても――
母上が“必死に抱きしめる価値がある何か”が
兄上にあることだけは、分かった。
それが胸を刺す。
(……また兄上だ。
母上は……兄上にばかり……)
母上はいつも優しい。
俺にだって優しい。
だけど今の温度は、違った。
兄上だけを包み込むように、
誰にも触れさせないように、
“守るもの”を見る目だった。
母上の、その顔を見た瞬間――
胸の奥で、
黒い感情が渦巻いた。
(……兄上なんて……)
憎い。
羨ましい。
ずるい。
ムカつく。
どう言葉にすればいいか分からない。
ただ、胸が苦しくて、呼吸がしづらかった。
兄上が《零冠》を使ったことも、
その力が何なのかも、
俺には分からない。
ただ、
“自分には絶対届かない場所にいる”
という感覚だけが残っている。
それが怖い。
(兄上……お前はいったい……何者なんだよ)
兄上の苦しさも、
弱さも、
焦燥も、
俺には分からない。
分かりたくもない。
でも――知りたい。
知りたいのに、
近づけば、
きっとまた“置いていかれる”。
それが嫌だった。
(兄上は……昔からそうだ)
努力しても追いつけない。
隣に立てると思ったら、
次の瞬間にはまた遠くにいる。
今日なんて、
“血を消した”とかいう意味不明の現象を起こした。
それを見た瞬間、
俺は本気で震えた。
恐怖か、
嫉妬か、
尊敬か、
もう自分でも分からない。
(俺たち兄弟の中で――
一番強いのは兄上なんだ)
悔しい。
なら、せめて母上だけは……
母上の“愛”だけは――
並びたいと思っていた。
なのに。
月光の下で抱きしめられるのは、
いつだって兄上だった。
(……なんで……兄上ばっかりなんだ)
言葉にならない声が喉に詰まる。
兄上が泣いている理由は理解できない。
血を恐れる理由も知らない。
母上が涙を流す理由も分からない。
分からないから――
余計に、苦しい。
(兄上……
お前なんか……嫌いだ)
そう思った。
そう思った瞬間、
胸がひどく痛んだ。
嫌いなのに、
嫌いになりきれないのが、
もっと腹立たしい。
レイアス兄上は完璧なのに、
なんでこんなに壊れそうなんだ。
母上があんな顔をするほど、
なにを抱えているんだ。
何も分からない。
知りたくないのに、気になってしまう。
兄上はそういう存在だ。
(……俺も……いつか……)
言葉はそこで途切れた。
兄上に追いつきたいのか、
兄上を超えたいのか、
兄上を壊したいのかすら分からない。
ただ一つだけはっきりしている。
今の俺は――兄上を正しく“憎んでいられない”。
それがいちばん苦しい。
兄上は母の腕の中で静かに息を整えていた。
その姿に、また胸がうずいた。
何もわからない、
何も理解できない、
ただ苦しい。
この夜――
俺は生まれて初めて、
自分が“兄という存在に飲まれつつある”ことを自覚した。




