第7話 “渇き”と“恐怖”──吸血鬼が血を拒む瞬間
庭園に出た瞬間、
冷たい夜気が肺に流れ込み、
少しだけ呼吸が楽になった。
石畳の上に膝をつき、
手をついて、必死に息を整える。
「……くっ……は……っ……」
胸が焼ける。
心臓が何かを求めて暴れている。
息を吸うたび、
喉の奥がひりついた。
(……やばい……来た……)
《零冠》を使った反動。
覚醒の代償。
――吸血衝動。
吸いたい。
飲みたい。
喉の奥で、獣みたいな渇きが暴れ回る。
でも、同時に――
胸の奥から別の感情がせり上がる。
“血を見るな。
見たら倒れる。
見たら死ぬ。”
前世の記憶。
過呼吸。
採血の針。
指を切ったときのあのパニック。
全てが一気に蘇ってくる。
吸いたい本能と、
血を拒絶する恐怖が、
真逆の力で俺を引き裂く。
「……あ……っ……やめ……ろ……!」
体の奥で
“何か”が蠢いた。
牙が疼く。
心臓が暴れる。
血管が脈打つ。
喉が焼けるような渇き。
目の奥が熱い。
耳鳴りがする。
(吸いたくない。
怖い。
でも……)
でも――
吸わないと苦しい。
吐き気が込み上げる。
胃がひっくり返されるような感覚。
心臓の鼓動が
頭の中に響く。
ダン……
ダン……
ダンッ……!
血を求める、赤い脈動。
吸血鬼の本能。
(なんで俺がこんな……!!)
石畳に爪が食い込むほど手を握りしめ、
額を地面につけた。
夜風が頬を撫でる。
庭園の花々が揺れる。
でも、匂いが……匂いが全部“血”に変わっていく。
草の匂い。
木の匂い。
土の匂い。
それらがすべて、
血の匂いに統一されてしまう。
「……いやだ……っ……!」
怖い。
怖い。
怖い……!
吸いたい――その欲求が、
血を見たくない――その恐怖を
圧倒しようとしてくる。
両手で耳を塞いでも、
渇きは止まらない。
心臓が喉にせり上がってくるみたいだ。
涙が滲んできた。
(俺……吸血鬼なのに……
血が怖い吸血鬼なんて……
どうやって生きるんだよ……)
声にならない声で泣きながら、
必死に耐える。
額を押さえ、
喉元を握りしめ、
身体を丸めて震える。
深紅の月光が降り注ぎ、
庭園を淡く照らしていた。
美しい夜。
なのに。
俺の中は地獄だった。
――そのとき。
胸の奥で
“ゼロ”の感覚が揺れた。
(……《零冠》……?)
未来を断ち切る権能。
血を“なかったこと”にする異能。
その気配が、
俺の中で微かにざわめいた。
(……やめろ……!
今出てくるな……!)
零冠が動けば、
吸血衝動がさらに暴れる。
過去の自分、
恐怖の記憶、
吸血鬼の本能……
それら全部が、
一つの渦になって俺を飲み込む。
喉がつまる。
吐き気。
涙。
呼吸。
痛み。
全てが混ざっていく。
「……誰か……」
絞り出すような声が漏れた。
「……だれか……たすけ……」
情けない。
みっともない。
王子らしくもない。
だけど、
その声は止められなかった。
「……きつい……
こわい……
いやだ……」
庭園の奥――
月光の下で、
俺はひとり泣き崩れた。
吸血鬼としての“渇き”と、
前世から連れてきた“恐怖”。
この矛盾が、
俺の身体を引き裂いていた。
喉を押さえた手が震え、
爪が食い込み、
涙がぽたぽた落ちる。
(なんで……俺なんだよ……
なんで“王子”なんて生まれたんだよ……
こんな体質で……
生きられるはずないだろ……)
“零冠”の覚醒が、
俺を救ったように見えて。
実際には――
地獄の入口を広げただけだった。
吸血鬼としての渇きは、
血液恐怖症を跳ね除けて迫ってくる。
恐怖は渇きを押さえつけて悲鳴を上げる。
どちらにも振れられず、
ただ苦しむだけの存在。
その矛盾が、
俺という身体を蝕んでいる。
「……誰か……
……たすけ……」
喉から漏れたその声は、
自分でも驚くほど幼かった。
助けなんて求めたくない。
頼りたくなんかない。
けれど、
吸血衝動の渇きと、
血への恐怖が胸の奥でぶつかり合って、
どうしようもなかった。
その時――
「レイアス……?」
静かな声が夜の空気を震わせた。
顔を上げると、
月光の下に――王妃リオネスが立っていた。
白金の髪が風に揺れ、
蒼い瞳が深い悲しみを帯びている。
彼女が一歩近づいただけで、
胸の奥が不思議と温かくなる。
(……どうして……?
この人を“知っている”みたいな……
安心感が……どこから来る……?)
記憶はない。
だが身体が“懐かしさ”を覚えている。
王妃は震える手を伸ばし、
俺の頬にそっと触れた。
「ああ……やはり……。
あなたがこうして苦しむと、
胸が押しつぶされる気持ちになります……」
蒼い瞳が潤む。
「最近のあなたは……
母に甘えてくれなくなりましたから……
忘れてしまったのですね」
忘れた。
――レイアスとしての記憶のことか。
俺が何も答えられずにいると、
王妃はしゃがみ込み、
そっと俺の背中を抱いた。
「いいのですよ。覚えていなくても。
あなたが苦しいとき、
母はいつだって……こうして側にいましたから」
その“言い方”が胸を締めつけた。
まるでこの腕に抱かれるのは“決して初めてではない”かのように。
でも、俺には思い出せない。
なのに――
王妃の手が触れた瞬間、
渇きで暴れていた心臓が少しだけ落ち着いた。
(……なんで……こんなに……安心する……?)
王妃は涙をこぼしながら微笑んだ。
「レイアス。
あなたは弱い子などではありません。
恐れてもいいのです。
怖がってもいいのです」
抱きしめられる。
胸が、痛いほど熱くなる。
記憶にはない。
なのに――懐かしい。
胸が引き絞られる。
「……なんで……
こんな……優しいんだよ……」
絞り出すように言うと、
王妃はそっと額に手を置いた。
「あなたは……“選ばれた子”なのです。
母にとって、誰より大切な」
その声音には、
祈りのような愛と、
深い後悔が滲んでいた。
(……俺……一人じゃないのか……?)
庭園の闇の中で、
王妃に抱かれながら、
俺は初めて――
“この世界で、生きていけるのかもしれない”
と、ほんの少しだけ思えた。
記憶がなくても。
血が怖くても。
吸血鬼なのに矛盾していても。
この人の温もりが、
そのすべてを包み込んでくれていた。




