第6話 カーミル視点──“兄の背中が遠すぎる”
レイアス兄上が倒れかけたあの瞬間、
俺は――
息をするのも、忘れた。
兄の紅い瞳に力がなく、
額には汗が滲み、
呼吸は荒く、
まるで病人のようにふらついていた。
(――また、倒れるのか)
“また”。
その単語が、無意識に浮かんだ。
兄上は昔から“弱かった”。
いや、弱く見えた。
俺たちの前では平然としているが、
食事の匂いにさえ青ざめ、
剣の訓練では目を逸らし、
血を見るだけで膝をつく。
それでも、兄上は努力を怠らなかった。
それが、
俺はずっと――羨ましかった。
努力する姿が。
痛みに耐える姿が。
立ち上がる姿が。
立ち向かう姿が。
俺には、
その“立ち向かう勇気”がなかった。
ずるい、と思っていた。
でも本当は――
ただ負けていた。
負けている自分から、目を逸らしていただけだ。
そんな兄上が、
今、目の前で“血の香りだけで”倒れかけている。
(やっぱり……おかしい。兄上は……変だ)
美しくて、優雅で、
誰よりも強いはずなのに、
“血”だけが弱点。
王族にとって血は祝福だ。
誇りだ。
力の源だ。
なのに兄上は、その血を怖がる。
これは――
“弱さ”ではなく、
“異常”だ。
俺は本能でそう感じていた。
だからこそ、
兄上が血の香りで倒れれば、
王家全体の恥になると恐れていた。
王族としての誇りが、
兄上を拒絶していた。
兄上の弱さを見て、
心がざわついた。
それは嫌悪ではなく――
焦りだった。
(兄上……頼むから、倒れないでくれ……)
そんな願いが、
胸のどこかで渦巻いていた。
そのとき――
銀の壺が傾いた。
赤い光を帯びた“血酒”が空中へ浮き上がる。
時間が、ゆっくり流れた。
血の滴が弧を描き、
床へ落ちようとする――
その刹那。
――すべてが“消えた”。
視界から、
音から、
空気から。
血の滴が。
“結果”そのものが。
ぬるりと、現実から剝ぎ取られたように。
「な……」
声が、喉に張り付いた。
兄上の目が、
血の滴が消えた空間を見つめていた。
震えていた。
恐怖で。
困惑で。
そして――
何かに“触れた”者の表情で。
(兄上……お前……何をした……?)
兄上の身体から、
“空気”が変わった。
凍てつく静寂。
王の気配。
神性に近い何か。
俺が、生まれて初めて感じる、
“格の違う存在の息づかい”。
父王でさえ、
今の兄上ほど“異質”ではない。
空間が兄上を中心に“沈んだ”ように見えた。
重い。
苦しい。
揺らいでいる。
(まるで……世界が兄上を中心に傾いたみたいだ……)
王妃が震える声でつぶやく。
「……未来を……断った……」
零冠。
古い王家の文献に、
たった一行だけ記されていた言葉。
《血の未来を断つ王、冠なき王が来たる》
まさか。
まさか、兄上が。
(兄上……お前……
本当に“王になる者”だったのか)
喉が焼けるように熱くなる。
俺がどれだけ剣を磨いても、
どれだけ努力しても、
一歩も届かない“王の権威”。
兄上は、努力でも才能でもなく――
“存在そのものが王”だった。
心が掻きむしられた。
嫉妬か。
恐怖か。
絶望か。
全部だ。
(兄上……俺は、勝てないのか?
一度も?
一生、勝てないのか?)
兄上は顔色を悪くし、
苦しそうに胸を押さえていた。
あれだけの力を振るった代償。
吸血衝動の暴れ。
それでも――
兄上は美しかった。
無傷で。
優雅で。
儚くて。
“王の器”。
俺にはないものすべてを持っている。
父王が歩み寄ったとき、
兄上の姿が揺れ、
倒れそうになるのが見えた。
王妃が駆け寄る。
ルーミエルが泣きそうな顔で名を呼ぶ。
セリカが手を伸ばす。
ミリナは震えて王妃の背に隠れる。
俺は――
動けなかった。
兄上が倒れれば、
誰よりも傷つくのは兄上自身。
それでも。
俺は動けなかった。
(俺は……兄上が怖いんだ)
弱くて、強くて、
脆くて、誰よりも美しい兄上が。
“王族の姿”をしたまま、
“人間のまま”強くなろうとする兄上が。
俺は――
兄上に追いつきたいと願いながら、
兄上を恐れ続けていた。
兄上が立ち去る背を見ながら、
胸がきつく締めつけられた。
「兄上……その力は……ずるい……」
嫉妬が零れた。
でも、
誰にも聞こえないほど小さな声で続けた。
「……でも……
兄上が……死ぬほど苦しんでいるのは……
俺は……嫌なんだよ……」
初めて、
自分が何を抱えていたのか気づいた。
俺は兄上に勝ちたい。
でも兄上に死んでほしくない。
そんな矛盾した気持ちを抱えたまま、
俺はただ――
兄の背中を見つめていた。
“王の力”を得た兄の背中は、
前よりもずっと遠く、
手が届かないほど光を帯びていた。
それでも――
俺はその背を追い続ける。
たとえ一生届かないとしても。
それが、
俺の生き方だから。




