第5話 血の香りと“王冠のない王”
神官が持つ銀の壺から、
赤い香りがゆっくり立ちのぼっていく。
甘いようで、鉄っぽくて、
どこか熱を帯びた――
吸血鬼の血を刺激する“香気”。
その匂いが空気に混ざった瞬間、
俺の身体がびくっと震えた。
呼吸が浅くなる。
喉が焼けるような乾きに襲われる。
(やば……吸血衝動……?
いや、それより先に……怖い……!)
目が勝手に逸らされる。
胸が締めつけられる。
額から汗が落ちる。
前世で採血の針を見ただけで倒れたときの、
あの息苦しさが蘇る。
苦しい。
怖い。
逃げたい。
――なのに、この体は。
“血を求める本能”が、
まるで心臓を握りつぶすように脈打ってくる。
(混ざるな……!
今混ざったら、本当に倒れる……!!)
逃げたい“恐怖”と、
近づきたい“吸血本能”。
相反する二つの衝動が胸の中でぶつかり、
呼吸ができなくなる。
父王がこちらを見た。
その表情は、
“見極める”ような赤い瞳。
「レイアス。大丈夫か」
平静に聞こえる声。
だがその奥には、
わずかに“警戒”が混ざっていた。
カーミルが小さく息を呑む。
(まずい……これもうバレる……!
倒れたら、絶対おかしいと思われる……!)
視界の端で、
ルーミエルが不安そうに前のめりになる。
「兄上っ……!」
セリカが泣きそうな顔で叫ぶ。
「レイアス兄さま、やめて、倒れないで……!」
父王が手を伸ばし――
その瞬間だった。
――カシャンッ。
銀の壺が傾き、
聖血酒が光を帯びて空中へ舞い上がる。
赤い液体が宙を散り、
時間がゆっくりと伸びたように見えた。
その一滴一滴に、
俺の意識が吸い寄せられる。
(やめろ……!
落ちてくるな……!
血を……見る……な……!)
胸が裂けそうになる。
怖い。
怖い。
怖い……!
――その“恐怖”の奥で、
別の何かが“目覚めた”。
(……落ちる“未来”が、見える)
落ちる。
床に弾ける。
赤が広がる。
血の匂いが濃くなる。
俺の意識が落ちる。
その“未来”が、
鮮明に浮かんだ。
次の瞬間――
すべての赤が、音もなく“消えた”。
ぱちん、と小さな音だけが響いた。
銀の壺からこぼれた赤い滴が、
床に触れる寸前で
まるで“この世から切り取られたように”消滅した。
ルーミエルが息を呑む。
セリカが両手で口を覆う。
ミリナが怖がって泣きそうになる。
カーミルの瞳が見開かれる。
父王が立ち上がり――
王妃リオネスの瞳が大きく揺れた。
「……今のは……?」
侍女が震える声で囁いた。
「……殿下……“零冠”が……」
零冠。
(……これが……俺の、スキル……?
《零冠》が……発動した……?)
でも俺は何もしていない。
ただ――
“怖かった”。
血が落ちる“未来”が怖くて、
「落ちるな」
「消えろ」
と強く願っただけ。
血が床に落ちる──その未来の“結果”が、
まるごと消し飛んだ。
王妃が震える声でつぶやく。
「……未来を……断った……」
父王が俺を見る。
その瞳に宿った感情は、
驚愕でも恐怖でもなく――
“覚悟していた”ような光。
「レイアス。
それが……お前の《零冠》か」
心臓が跳ねた。
動揺で言葉が出ない。
王妃がそっと口元を手で覆いながら、
涙が滲んだ瞳で俺を見た。
「あなた……本当に……覚醒したのですね」
カーミルが震えた声でささやく。
「兄上……
あなたは……ずるい……
どうして……
どうしてそんな……“王の力”を……」
ルーミエルは息をするのも忘れたかのように、
俺の消した血滴の跡を見つめている。
セリカは拍手しそうな勢いで輝いていた。
「レイアス兄さま……すごい……!!!」
ミリナは王妃の影から、怯えた瞳でこちらを見ていた。
血紋院の神官たちも、
驚愕のあまり息を呑んでいる。
「“結果だけが消えた”……
これは……
“血の未来”を断つ王の権能……?」
俺は――。
俺の身体は――。
震えていた。
怖さで。
自分自身で。
そして、
“血を消した”という異様な現実で。
父王が静かに歩み寄り、
俺の肩に手を置いた。
「レイアス。よく持ちこたえた」
あたたかい手だった。
その温度が、
緊張で冷え切っていた胸に染みていく。
「……お前の“恐れ”が、お前を覚醒させた」
恐れ。
俺の最大の弱点。
血を見るだけで倒れる恐怖。
吸血鬼でありながら血を拒絶する本能。
その“弱さ”が――
俺の力を目覚めさせた。
王妃が歩み寄り、
そっと俺の手を取った。
「大丈夫……レイアス。
あなたはもう、ひとりで怯えなくていいのですよ」
その声を聞いた瞬間、
胸がきゅっと痛んだ。
(……泣きそうだ。
なんでこんな優しいんだ、この人……)
そして――
感じた。
“何かが始まってしまった”。
《零冠》は血を消した。
だがその反動が、
体の奥で静かに“蠢き始める”。
(……やばい……これは……)
吸血衝動だ。
発動の後に必ず来る、
“代償”。
――吸いたい。
――それでも怖い。
二つの矛盾が同時に胸を締めつける。
俺は、椅子に手をついて立ち上がった。
「……少し……外の空気……吸ってくる……」
声が震えた。
王妃がすぐにうなずいた。
「行っていらっしゃい。
……誰も追わせません」
侍女がすぐに駆け寄った。
「殿下、こちらへ」
廊下へ出ると、
扉の向こうから父王の声が聞こえた。
「……あれが“血を恐れる王”か。
ならばきっと、運命は動く」
俺は、その言葉の意味も考えられないほどに
呼吸が乱れていた。
血の香りが遠ざかり、
胸の奥に渦巻く“渇き”と“恐怖”が
せめぎ合い――
吸血鬼なのに、血を恐れ、
血を求めてしまう体。
その矛盾が、
今、全身で悲鳴を上げていた。
――《零冠》の覚醒。
その代償は、
俺の中で静かに燃え上がっていた。




