第20話 王家会議前 ー 揺れる血、揺れぬ覚悟
謁見の間から退室したあと、
王城の長い廊下を歩きながら、俺はずっと自分の胸の奥を意識していた。
――ドクン。
心臓の鼓動とは微妙にずれた、もうひとつの拍動。
零冠。
血紋院長オルドレウスと視線が合った瞬間に暴れ出したそれは、
謁見が終わった今も、まだ完全には静まっていなかった。
(……人前で暴れなくて、本当に助かったけどさ)
あの場で倒れていたら、
それこそ「注視すべき異常」どころじゃない。
「殿下。こちらで少しお休みになられますか?」
横を歩いていた侍従が、控えめに問いかけてくる。
謁見の間からほど近い場所――王族用の小さな控室の扉の前だ。
「……そうだな。会議まで少し時間があるんだろう?」
「はい。王家会議までには、まだ幾ばくかの余裕がございます」
「じゃあ、少しだけ」
扉が静かに開き、
俺は侍従に礼を言ってから中へ入った。
* * *
控室は、王族用とはいえ質素な造りだった。
小さな長椅子とテーブル。
窓際に置かれた一人掛けの椅子。
壁には飾り気の少ない絵がひとつ掛けられているだけ。
俺は窓際まで歩き、
外の中庭の様子をぼんやりと見下ろした。
侍女たちが洗濯物を運び、
庭師が低木の枝を整え、
衛兵が交代のために行き交っている。
さっきまでいた謁見の間とは、
別世界みたいな日常の光景。
なのに、
そこにいる全員の視線の一部が、
いまや「零冠の第一王子」に向けられているのだと思うと、
胸の奥がざらりとする。
「……ふう」
椅子に腰を下ろし、
背もたれに体重を預けた。
ほんの少しだけ、
視界が揺れる。
疲労なのか、
緊張なのか、
それとも零冠のせいなのか。
(血は、流れてない。
匂いもしない。
それでも……あの老人ひとりに、ここまで反応するのかよ)
血紋院長オルドレウス。
あの男を見た瞬間、
零冠は「敵だ」とでも言うように騒ぎ出した。
血紋院そのものを、
“血の秩序を固定しようとする存在”として拒絶しているのか。
あるいは――
もっと単純に、
「血を覗き込もうとする目」を嫌っているのか。
(……どっちでもいいけどさ。
俺の中で騒ぐな。こっちはこっちで手一杯なんだよ)
胸の奥にぼそっと悪態をつくと、
零冠の拍動が、ほんの少しだけ静まった気がした。
気のせいかもしれない。
でも、そういう“気のせい”に、今はすがりたい。
コン、コン。
扉が控えめに叩かれた。
「レイアス?」
聞き慣れた声に、俺は慌てて姿勢を正す。
「……入って大丈夫だ」
扉が開き、
柔らかな淡金の髪を持つ女性が姿を見せた。
王妃リオネス――俺の母。
いつものように穏やかな笑みを浮かべているが、
瞳の奥にはうっすらとした不安の色がある。
「少し、顔を見に来ただけよ。
座っていていいわ」
「母上……」
何と言えばいいのか分からず、
俺はただ小さく頭を下げた。
リオネスはゆっくりと部屋に入り、
向かいの椅子に腰を下ろす。
しばしの沈黙。
それでも、
この沈黙はさっきまでの謁見の間のそれとは違って――
どこか、呼吸がしやすかった。
「緊張している?」
「……していない、と言ったら嘘になるな」
素直に答えると、
リオネスはふっと小さく笑った。
「そうね。
私も、しているもの」
「母上が?」
「ええ。
血紋院と王家が、ひとつの場で“血”の話をする。
楽しい会議になるとは、とても思えないでしょう?」
苦い本音に、
俺もつられて苦笑する。
「確かに」
リオネスは、少しだけ表情を改めた。
「……レイアス」
「はい」
「さっきの謁見のとき、
あなたの顔色が一瞬だけ変わったの、気づいていたわ」
ドキリ、と胸が跳ねる。
零冠が暴れた瞬間だろう。
「大丈夫。
誰も気づかないくらいの一瞬だった。
でも私は、母親だから」
彼女は自分の胸に手を当てて、
穏やかに続けた。
「血が怖いのも。
血を断つ力を持ってしまったことも。
その両方を抱えて立っているあなたが、
どれだけ無茶をしているかも、
なんとなくだけれど分かるつもりよ」
喉が詰まった。
言葉にならない何かが、胸の奥でぎゅっと丸まる。
リオネスは、ゆっくりと首を振った。
「だから、無理に“完全な王子”でいようとしなくていいの。
怖いときは怖い顔をしてもいい。
ただ――」
そこで一度、言葉を切る。
「“立っていること”だけは、やめないで」
短くて、
それでいて重い願い。
「倒れてしまっても構わない。
誰かに支えてもらうことも構わない。
でも、その場から逃げてしまうことだけは、
あなた自身を一番苦しめるでしょう?」
心に、痛いところばかり突いてくる。
前世で、何度も逃げてきた自分。
仕事から。
責任から。
人との関係から。
今回だけは、
それをやったら、本当に全部が壊れる気がしている。
「……逃げません」
小さく、けれどはっきりと答えた。
「倒れるかもしれませんけど」
付け足すと、
リオネスはクスリと笑った。
「倒れたら、起こせばいいだけよ」
「……母上は、簡単に言いますね」
「だって、簡単なことだもの。
あなたが倒れたら、私も、あなたの父も、弟たちも、妹たちも。
きっと必死に支えようとする。
それが、王家だわ」
父上と同じことを言う。
あの人は「ひとりで抱えるな」と言い、
この人は「倒れても支える」と言う。
(……本当に、俺は恵まれすぎてるな)
十六年分の記憶はなくても、
この家族の“今”だけは本物だ。
零冠が胸の奥で
わずかに静まったように思えた。
リオネスは、ふと表情を曇らせる。
「……ただ、血紋院は、
必ずしも“あなたを救うためだけに”動いているわけではない」
「それは……分かっています」
血を記録し、秩序を保とうとする組織。
零冠のような“血の例外”は、
彼らにとって管理不能な存在だ。
「彼らが“王家の血”をどう見ているのか。
今日の会議で、その一端が見えるでしょう。
でも――」
リオネスは、まっすぐに俺を見た。
「どんな言葉を投げられても、
“あなたがあなたであること”だけは手放さないで」
「……はい」
返事をすると、
リオネスは立ち上がった。
「長く引き止めてしまったわね。
少し休んでから、会議に向かいましょう」
「母上も、あまり無理はなさらないでください」
そう言うと、
彼女は振り返りざまに、
どこか茶目っ気のある微笑みを浮かべた。
「大丈夫よ。
あなたを産んだ時ほど無茶なことは、もうしないつもりだから」
扉が閉まる。
静寂が戻る。
(……産まれた時、ね)
俺の知らない“レイアスの始まり”に、
必ずこの人は立ち会っている。
零冠の兆しが、あの夜からもうあったのかどうか。
いつか、ちゃんと聞かなければいけない日が来るのかもしれない。
今はただ、
胸の奥で少しだけ軽くなった重りを確かめるだけで精一杯だった。
* * *
同じ頃――。
王城の別の廊下を、
一人の少年が早足で歩いていた。
第二王子カーミル=ヴァーミリオン。
謁見の間から控え室へ移動したあと、
兄や家族とは別に、
ひとりで外気の入る渡り廊下へ出ていた。
冷たい空気が、火照った頬を撫でていく。
(……兄上は)
謁見の間でのレイアスの姿が、
目の奥から離れない。
血紋院の院長が“零冠”を口にした時も、
血の監査を求めた時も、
兄は――倒れなかった。
顔色は一瞬だけ揺れた。
けれど、踏ん張っていた。
(昔の兄上なら、きっと……)
もっと分かりやすく震えていたはずだ。
血の話題だけで、
視線を泳がせ、
母の袖を掴んでいたはずだ。
それが、今の兄は、
王の隣で、
「第一王子」としてそこに立っていた。
自分にはまだ遠い場所で。
「……くそ」
誰にも聞こえないように吐き捨てて、
腰に吊るしていた剣の柄を握りしめる。
(俺だって、努力してきたのに)
朝から晩まで訓練し、
剣を握り続けてきた。
誰よりも“王家の剣”であろうとした。
それでも――
「零冠の王子」という一言で、
兄はあっという間に皆の視線の中心に立ってしまった。
(兄上が悪いわけじゃない。
そんなことは分かってる)
分かっているのに、
胸の奥が黒く濁っていく。
「カーミル殿下」
背後から呼びかける声に、
カーミルは慌てて感情を押し込んだ。
振り返ると、そこには近衛騎士団の教官が立っていた。
「お疲れでしょうが……
午後の会議まで、軽く体を動かしておかれた方がよろしいかと」
「……分かっている」
短くそう返し、
カーミルは渡り廊下から訓練場へ向かった。
剣を振っている間だけは、
雑音を消せる気がしたから。
けれど――
剣を振るたびに浮かんでくるのは、
謁見の間での兄の背中ばかりだった。
* * *
王城から少し離れた一角――。
血紋院の使者団にあてがわれた客間では、
重い空気と薬草の香りが混ざっていた。
簡素な机。
椅子が三脚。
窓は外気を遮るように厚い布で覆われている。
その部屋の中央で、
若い神官ラガンは深く頭を垂れていた。
「――以上が、本日の謁見で確認できた事柄です」
目の前に座るのは、
血紋院長オルドレウス。
先ほどまで王の前にいた時と同じく、
白い法衣を纏い、
静かな眼差しでラガンの報告を聞いていた。
「第一王子レイアス殿下。
零冠覚醒後も、血の話題の中で倒れることはなく。
ただし、我々が“血の監査”を要求した瞬間――
わずかな身体反応が認められました」
ラガンは、
謁見の間で見たほんの僅かな変化を言葉にする。
「顔色の変化。
呼吸の乱れまではいきませんが、
胸のあたりに手を寄せるような仕草。」
「恐怖か」
オルドレウスが、短く問う。
ラガンは即答しなかった。
「恐怖――もあるでしょう。
しかし、それだけとは言い切れません」
「ほう」
「血の話題に対する拒否反応に加え……
“何かを抑え込もうとしている”ような、
妙な緊張が見られました」
ラガンは、自分の胸元を軽く押さえてみせる。
「あれは、血を嫌悪する者の姿勢というよりも――
暴れ出そうとする何かを、内側から押し留めている者の姿勢です」
オルドレウスの紅い瞳が、
わずかに細められた。
「零冠そのものを、か」
「断定はできません。
ですが、レイアス殿下の中で、
血への恐怖と零冠の権能が、
すでに何らかの“せめぎ合い”を始めている可能性は高いかと」
部屋の中に、
冷たい沈黙が落ちる。
やがてオルドレウスは、
机の上の羊皮紙に指で軽く触れた。
そこには、
血紋院内部用の簡易記録が記されている。
『第一王子レイアス
零冠覚醒後初日
医療院での血の場において逃避行動なし(複数証言)
血紋院使者団来訪時に中等度の緊張反応』
「……“血を恐れ、血を断ち、血の前から逃げない王子”か」
オルドレウスの口元に、
かすかな苦笑が浮かぶ。
「厄介な矛盾だな」
ラガンも、苦く笑った。
「血紋院にとっても、王家にとっても……でしょうね」
「だからこそ、観測に値する」
オルドレウスは、杖の先で床を軽く叩いた。
「我らは、血を裁く者ではない。
ただ、血の秩序がどこへ向かうのかを見届ける者だ」
「……本日の会議では、
どこまで踏み込むおつもりで?」
ラガンの問いに、
オルドレウスは肩をすくめる。
「王家の場で、我らが前に出すぎることはない。
“監査の必要性”を示し、
“零冠を放置した場合のリスク”を淡々と述べるだけだ」
「王家が、それをどう受け取るか」
「それもまた、観測対象の一部だ」
オルドレウスの瞳に宿る紅は、
焔というよりも、氷のようだった。
「忘れるな、ラガン。
祝福か破滅か。
道を選ぶのは、常に“当事者”だ。
我らは、その結果を血に刻むだけだ」
ラガンは静かに頭を下げた。
(……それでも)
胸の奥で、
若い神官としての感情がかすかにうずく。
零冠の王子。
血を恐れ、
血を断ち、
それでも血の場から退かない少年。
(できることなら――)
彼の“初めの一歩”が、
滅びではなく、
ほんの僅かでも救いの方向へ向かうのを見たい。
だが、それは血紋院の仕事ではない。
ラガンは自分の中の甘さを押し込め、
ただ観測者としての役割を胸に刻み直した。
* * *
控室を出て、
再び自室に戻る途中。
王城の廊下を歩く俺に向けられる視線は、
昨日までとは少し違っていた。
ただの好奇心ではない。
「零冠の王子」に対する、
畏れと期待と、不安と――
それら全部が混じり合った色。
すれ違う侍女が、
小さく会釈をして言う。
「本日のご謁見、お見事でした、殿下」
「……顔色ひとつ変えずにお立ちになっていたと、
皆、噂しておりました」
(顔色、ちょっと変わってたんだけどな……)
心の中で苦笑しながら、
俺はできるだけ穏やかに応じる。
「そう見えていたなら、幸いだ」
期待が膨らめば膨らむほど、
その中身が“ただの血液恐怖症持ちの元薬剤師”であることが、
ひどく滑稽に思えてくる。
自室に入り、扉を閉める。
ベッドの縁に腰を下ろし、
胸に手を当てた。
「……おい」
零冠に向かって、
わざとくだけた声で話しかけてみる。
「今日くらい、大人しくしてろ。
血を消す出番なんか、ない方がいいんだからな」
返事は、もちろんない。
代わりに、
ドクン、と一度だけ、
いつもより強い拍動が返ってくる。
肯定か、否定か。
それすら分からない。
(こいつを“道具”として扱えるかどうかが、
この先の俺の生き残り方を分けるんだろうな)
血の呪い。
王家の責任。
零冠の権能。
どれもこれも、
ひとりの人間に乗せるには重すぎる。
それでも――。
(逃げないって決めたのは、俺だ)
母上にも、父上にも、
そう約束してしまった。
王家会議。
そこで何を言われ、
何を決められ、
誰がどんな顔をするのか、
まだ想像もつかない。
けれど少なくとも、
そこに立つ自分だけは、
自分で選ぶことができる。
「……行くか」
立ち上がり、
鏡の前に立つ。
寝不足の影は、まだ少し残っている。
それでも、
瞳の奥だけは、
昨日よりも僅かに“覚悟の色”を増しているように見えた。
(優雅な第一王子らしく、ね)
誰にともなくそう呟いて、
俺は会議の場へ向かうため、扉の取っ手に手をかけた。
胸の奥で、零冠が静かに、
しかし確かに――
次に訪れる“血の場”を待ち構えているように、
小さく蠢いていた。




