第18話 カーミルの焦り――揺らぐ自尊と、迫り来る王家会議
中庭に面した訓練場は、午前の光が差し込み、
剣を振るう騎士たちの影を地面に濃く落としていた。
その中央で、
カーミル=ヴァーミリオンは、
剣を握ったまま動けなくなっていた。
「……くそっ」
小さく吐き捨てて、握っていた木剣を持ち直す。
しかし指の力がうまく入らない。
汗ばんだ手のひらが滑り、
剣の重さがやけに遠くに感じる。
「カーミル殿下、構えが甘い!」
近衛騎士の教官が声を張る。
だが、注意されたところで、
今のカーミルにはどうしようもなかった。
頭の中が、ざわついている。
――“第一王子は、動じなかったらしいぞ”
——“血の海の中で顔色ひとつ変えなかったって”
——“零冠の王子……王の器かもしれない”
訓練場に来る途中で耳にした噂が、
脳裏を離れずにこびりついている。
(兄上が……血の前で、動じなかった?)
信じられなかった。
レイアスは、昔から血が苦手だったはずだ。
少しでも怪我をすれば、
必ず王妃にしがみついて震えていた。
あの“血を見るだけで顔を覆っていた兄”が、
医療院で、怪我人の前で、何事もなかったように立っていた――?
「あり得ない……あり得るわけがない!」
カーミルは、手に汗が滲むのも気にせず、剣を振り上げた。
が――。
「っ!」
刃が空を切り、
姿勢が崩れた。
バランスを立て直す前に、
足元の石畳がぐらりと揺れたように感じる。
膝が落ちる。
地面を拳で叩いた。
(どうしてだ……どうして体が言うことを聞かない)
周囲を見ると、
騎士たちが訓練を止め、こちらを見ていた。
気まずい沈黙が流れる。
「……続けろ!」
カーミルが怒鳴ると、
騎士たちは慌てて訓練に戻った。
だがその目つきには、
どこか“気遣い”の色があった。
(やめろ……そんな目で見るな)
胸が、焼けるように痛む。
レイアスへの噂。
兄の評価が、城の中で急速に広がっている。
昨日まで「頼りない兄」だったはずなのに。
今、誰もが
「第一王子は優雅だ」
「零冠は呪いではなく加護だ」
「次代の王にふさわしいのはレイアス殿下だ」
と口にする。
(俺は……兄上に追いつくために、あんなに努力してきたのに)
朝は剣の修練。
昼は体術。
夜は座学と暗器対策。
寝る間も惜しんで鍛えてきた。
それでも――
(どうして俺より先に、兄上が評価されるんだよ……!)
剣を握った手が震える。
怒りなのか、悔しさなのか、
自分でも分からない。
ただ、胸の奥に黒い渦が膨らんでいく。
その時だった。
訓練場の門が音を立てて開いた。
「カーミル殿下!」
息を切らせた若い近衛兵が駆け込んでくる。
「王太后殿下……いえ、王妃様からのご伝言です!」
「……母上から?」
カーミルは眉をひそめる。
こんな時間に、母から直接伝言とは珍しい。
近衛兵は胸に手を当てて告げた。
「明日――王家の会議が開かれるとのこと。
殿下も必ず出席するようにと」
訓練場が静まり返る。
王家会議。
それは、王族全員が参加する、
“国家の方針を決める場”。
血紋院。
零冠。
継承順位。
教育方針。
様々な思惑がぶつかり合い、
新たな“力の均衡”が生まれる瞬間だ。
(王家会議……?
なんで今……)
思考が止まりかけたカーミルの胸の奥で、
何かが音を立てて崩れた。
(もしかして……兄上のせいか?)
零冠の噂。
医療院の出来事。
血紋院が動き出したという風聞。
それらが繋がって、
王家全体が動かされ始めているのだとしたら――。
「……っ」
胸が痛む。
呼吸がしにくい。
視界の端が揺れる。
兄が評価されるほど、
自分が小さく感じる。
(兄上が悪いわけじゃない……
でも、どうして……どうして俺じゃないんだ)
握りしめた拳が、震える。
剣が――今にも折れそうなくらい震えた。
「カーミル殿下……?」
近衛兵の声に、
カーミルは無理矢理笑みを作った。
「分かった。伝言、確かに受け取った。
明日の会議には出る」
「はっ!」
兵が下がると、
再び訓練場は日差しの中に沈んだ。
騎士たちが木剣を振り、
掛け声を上げる声が響く。
その中心で、
カーミルはひとり、剣を見つめた。
(兄上……俺は……負けたくない)
心の底から湧き上がる感情は、
痛みと、焦りと、嫉妬と――
ほんの少しの、諦めのようなもの。
(兄上に勝てる方法……
俺にだって、あるはずだ)
明日の会議が何をもたらすか、
まだ誰にも分からない。
ただ、カーミルは気づいてしまっていた。
――自分の中で、
“兄を倒したい”という欲求が
はっきりと形になり始めていることに。
その瞬間、
訓練場に吹いた風が、
どこか冷たかった。
まるで、
兄弟の未来が
静かに軋み始めていることを告げるように。
そして――
翌日に開かれる王家会議へ向けて、
王城全体に重い空気が漂い始めていた。
倣うように、
カーミルの心にも、
暗い影がゆっくりと落ちていくのだった。




