第17話 変わりゆく感覚と、血紋院の影
自室に戻ると、ドアを閉めた瞬間に、
それまで張りつめていた何かがふっとほどけた。
背中が扉にもたれかかる。
「……はあ」
長く息を吐くと、
肺の奥に残っていた緊張が、少しだけ外へ逃げていく。
(なんとか、倒れずには済んだ、か)
医療院。
血の匂い。
裂けた肩口。
零冠が動き出しそうになった感覚。
それらが、まだ皮膚の内側にべっとりと張りついたままだ。
俺は靴を脱ぎ、
窓辺の近くに置かれた椅子に腰を下ろした。
ふと、部屋に備え付けられた姿見に目がいく。
そこに映るのは、
白い肌と紅の瞳を持つ、吸血鬼の第一王子レイアス。
――の、はずだ。
だが、鏡越しに見た自分の瞳は、
どこか、昨日までと違って見えた。
光の入り方、というだけではない。
瞳の奥に、細く尖った何かが差し込まれているような、
妙な鋭さがある。
(……なんだ、この感じ)
顔を近づけて、
じっと見つめる。
前世と違って、
目の色はもともと鮮やかだ。
虹彩の輪郭もはっきりしている。
それなのに、
今はさらに“輪郭の外側”に、
薄い縁取りが生まれたような、不思議な違和感があった。
「気のせい、で片付けていいレベルじゃないよな……」
ぽつりと呟く。
視線を外し、
今度は自分の手のひらをゆっくりと握りしめた。
皮膚の感覚も、微妙に変わっている。
触れているものの温度だけじゃない。
中を流れている血の流れまで、
ぼんやりと“意識できてしまう”ような妙な生々しさがある。
(血の流れなんて、意識したくなかったんだけどな)
よりによって、
血液恐怖症の自分が。
***
ベッドに腰を下ろし、
背中を壁につけて膝を抱える。
落ち着くと、
考えずにはいられなくなる。
(整理しよう)
前世で身につけた、
半ば職業病みたいな癖だ。
患者の訴えを聞き、
症状と経過を整理し、
原因候補を並べる。
今は、その矛先が自分自身に向いているだけ。
(まず――昨日)
零冠が初めて発動したのは、
あのお披露目の儀。
血酒が宙に浮き、
床に落ちる前に消えた。
そのあと、
一時間ほどで反動の発作が来た。
呼吸困難。
動悸。
冷や汗。
震え。
そして今日。
医療院の視察。
怪我人の血。
零冠が“起きかけた”感覚。
「あの時の俺、ちゃんと立ってたよな……」
声に出すと、
自分の耳がくすぐったい。
採血台から落ちていた頃の俺が聞いたら、
鼻で笑いそうな話だ。
(恐怖が消えたわけじゃない)
血は今でも怖い。
見たくない。
匂いも嗅ぎたくない。
でも――
それと同時に、
別の感覚が混ざり込んできている。
昨日まではなかった種類の、ねっとりした何か。
(渇き、だな)
言葉にすると、背筋がぞわりとした。
吸血鬼としての“本能”と呼べば、
それで説明はつく。
流れている血が、
床に落ちてしまう前に、
どこかへ“回収”しなければという、
得体の知れない衝動。
けれど、
その渇きが本格的に表に出てくる前に、
零冠がそれを打ち消そうとしているようにも感じる。
「俺の中の、本能と恐怖と零冠が……
三つ巴で喧嘩してるみたいなもんか」
我ながら、ひどい構造だと思う。
恐怖だけなら、
回避すればいい。
本能だけなら、
訓練と理性で抑える道もある。
だが両方を抱えた上で、
さらにそこへ“血を断つ権能”まで乗せられたら――
まともに立っているだけで、精一杯だ。
(それでも、さっきは……)
零冠は、
あの場で勝手に発動しなかった。
俺が「やめろ」と念じたとき、
ちゃんと踏みとどまった。
それは、
唯一の救いかもしれない。
(じゃあ、こいつは――完全な呪いってわけでもないのか)
胸の奥に意識を向ける。
何もないはずの場所で、
何かが、かすかに“脈打つ”感覚がした。
ドクン、と。
心臓の鼓動とは違うリズム。
ほんの一瞬だけ、
視界の色が薄くなる。
「……お前、どっち側なんだよ」
呟きは、
誰に向けたものでもない。
恐怖の味方なのか。
本能の味方なのか。
どちらの味方でもなく、
ただ“血の帳尻”だけを合わせようとしているのか。
答えは、まだ出ない。
ただひとつだけ、
はっきりと分かっていることがある。
(昨日から、俺はずっと変わり続けている)
この体も。
感覚も。
周りの目も。
何もかもが、
昨日までの延長線上にはもうない。
それが、
少し怖くて――
少しだけ、悔しい。
前のレイアスが積み上げてきた十六年に、
勝手に別の人生を混ぜ込んでいるような後ろめたさがあるからだ。
「……ごめんな」
鏡の中の自分に向かって、
誰にも聞こえない声でそう言った。
その瞬間、
胸の奥の“冠”が、
もう一度だけ、小さく脈打った気がした。
まるで、
何かに応えたかのように。
* * *
午後の王城は、
いつもより少しだけざわついていた。
侍従たちが運ぶ書類の束。
廊下を走る若い兵士たち。
中庭で休憩中の侍女たちの、ひそひそ話。
「ねえ、聞いた? 医療院での話」
「第一王子殿下のこと?」
「そうそう。
血だらけの衛兵が運ばれてきたのに、
殿下、一歩も引かなかったんですって」
「零冠の王子様が、血に動じないなんて……
やっぱり“王の器”って、そういうものなのかしら」
「でも、“血を消す”って噂もあるじゃない。
怖くはない?」
「怖いけど……昨日の儀式も、
あの力がなかったら怪我人が出てたかもしれないし……」
「呪いなのか、加護なのか、どっちなんでしょうね」
ささやきは、
誰かひとりの足元で止まることはない。
侍女たちから兵士へ。
兵士から小姓たちへ。
小姓たちから、廷臣たちへ。
王城という器の中で、
“零冠の第一王子”という言葉だけが静かに膨らんでいく。
その流れのどこかに、
一人の男もいた。
質素な服装。
一見、ただの文官にしか見えない青年は、
廊下の隅でその噂話に耳を傾けていた。
「……血の前で、顔色ひとつ変えなかった、ね」
ぽつりと繰り返す。
青年――ラガンは、
ほんの少しだけ目を伏せ、
まるで何かを心の中で計算するような表情になった。
(昨日の報告書と、今日の噂。
数は少ないが、方向は同じだ)
零冠。
血を消す冠。
血紋院が“注視すべき異常”と記した存在。
その王子が、
血の前で退かなかった。
それは、
血紋院にとって無視できない情報だった。
ラガンは、
手に持っていた書類を軽く抱え直し、
静かに歩き出す。
向かう先は――
王城ではない。
城下を抜け、
さらに奥まった場所にある、
血紋院の総本山だ。
* * *
ヴァーミリア王都の一角。
王城から少し離れた丘の上に、
血紋院の聖堂は建っている。
外見は、
一般的な大聖堂とそう変わらない。
高い尖塔。
大きなステンドグラス。
重々しい石の扉。
だが、その地下は、
王族でも立ち入れない“血の記録庫”と繋がっている。
ラガンは儀礼的な祈りを済ませると、
奥へ続く廊下を迷いなく進んだ。
「失礼します。
ラガン=ノア、報告にあがりました」
扉を叩くと、
中から落ち着いた声が返ってくる。
「入れ」
この部屋は、
血紋院の中枢――院長の執務室だ。
扉を開けると、
香の薄い煙が漂っている。
部屋の奥、
円卓の向こう側には、白い法衣をまとった老人が座っていた。
銀髪を後ろで束ね、
額には血紋院の紋章を示す細い刺青。
血紋院長、オルドレウス。
ラガンは、
彼の前まで進み出ると、膝をついて頭を下げた。
「院長。
第一王子レイアス殿下について、新たな情報が入りました」
「聞こう」
オルドレウスの声は低く、
それでいてよく通る。
ラガンは、
王城で耳にした噂を簡潔にまとめて話した。
医療院での怪我人。
流れた血。
その場に居合わせた第一王子。
動じなかった、という証言。
「……以上です。
まだ噂の域を出ませんが、
少なくとも複数の目撃者がいるようです」
オルドレウスは、
しばし沈黙した。
皺だらけの指が、
机の上に置かれた一枚の羊皮紙をなぞる。
そこには、
昨日、王城から届けられた密書の文言が記されていた。
『第一王子レイアス=ヴァーミリオン
十六歳
零冠覚醒
血を消す現象、確認』
「……零冠が、目覚めたあと――
すぐに眠ると思っていたか?」
不意に、
院長はラガンに問いかけた。
ラガンは正直に首を振る。
「いえ。
むしろ、あれは“始まり”だと考えていました。
ただ、ここまで早く、王子の振る舞いに変化が出るとは」
「血を前にしても、退かない王子」
オルドレウスは、
その言葉を口の中で転がすように繰り返した。
「それが、王家にとって“救い”となるのか……
それとも、“破滅”となるのか」
彼はゆっくりと立ち上がり、
背後の壁に掛けられた一枚の古い布をめくった。
そこには、
粗い線で描かれた古の予言がある。
《血の未来を断つ冠。
冠無き王、血環を裂く者》
王族なら誰もが知っている言葉。
だが、血紋院にだけ伝わる続きが、その下に刻まれていた。
《血の王が零を戴くとき、
血の秩序は書き換えられる。
祝福か、破滅か。
道を選ぶのは、“初めの歩み”にあり》
オルドレウスは、
その文言を見上げながら、静かに言う。
「医療院での出来事は、
その“初めの歩み”のひとつに過ぎぬのだろう」
ラガンは眉をひそめた。
「では、我々はどう動くべきでしょうか」
「決まっている」
オルドレウスは振り向き、
深紅の瞳でラガンを見据えた。
「第一王子の血を、正式な形で確認する。
零冠の印が、どこまで王家の血を侵しているのか。
それを知らぬままでは、王国の未来など語れん」
「……王城へ、使者を?」
「ああ。
“定期的な血の監査”という名目なら、
王も断りづらいはずだ」
オルドレウスの声には、
宗教家としての静かな熱が宿っている。
「零冠が完全に目覚める前に。
我らは、その血筋をこの目で見極めねばならん」
ラガンは深く頷き、立ち上がった。
「使節団の準備を、すぐに整えます」
「頼んだぞ、ラガン。
お前の目で見てこい。
“王の器”と噂されるその第一王子が――
本当に、血の王たるにふさわしいかどうかをな」
ラガンは部屋を辞し、
廊下へ出る。
聖堂の鐘の音が、
遠くで静かに鳴っていた。
その音はまるで、
王城と血紋院、
ふたつの巨大な器の間で、
新たな波紋が生まれつつあることを告げる合図のようだった。
(零冠の王子、レイアス殿下……)
ラガンは、
まだ会ったことのない王子の姿を想像する。
血を恐れ、
血を断ち、
それでも前に進もうとしている、矛盾だらけの存在。
(祝福か、破滅か。
どちらに転ぶにせよ――)
血紋院の若き神官の瞳に、
観測者としての静かな炎が灯る。
(その“初めの一歩”だけは、
この目で見ておきたい)
彼は歩みを速め、
王城行きの支度に取りかかった。
その頃、王城では――
自室のベッドに座る第一王子が、
自分の胸の奥で静かに脈打つ“見えない冠”のことを、
ひとりきりで見つめ続けていた。




