第16話 宮廷医療院の朝──違和感と、仕事としての“医療”
朝食が終わり、食堂を出てしばらく。
王城の廊下は、日に照らされた赤い石がわずかに温まり、
窓から差し込む光が床に長い帯を作っていた。
その光の帯を踏みながら歩いていると、
ふいに前を行く侍女が、手に持っていた盆を少し傾けた。
「きゃっ……」
盆の上のスプーンがカチャリと音を立てる。
侍女は慌てて持ち直したものの、その手元で何かが光った。
指先。
ごくごく浅い切り傷から、赤い筋が一滴だけにじんでいた。
その一瞬――世界が、わずかに“揺れた”気がした。
光景が白い膜越しに見えるような感覚。
耳の奥で、水の中に頭を沈めたときのような、詰まった音。
(……またか)
思わず足が止まりかける。
だが、心臓が暴れ出すほどではない。
息も乱れない。
昨夜のような圧倒的な発作とは、はっきり違う。
ただ、
血が視界に入った瞬間だけ、
世界が一拍ぐらりと傾く。
「も、申し訳ございません、殿下! すぐに片付けを――」
侍女が顔を青くして振り向く。
俺は、できるだけ穏やかに首を振った。
「大丈夫だ。盆は無事だろう? 手の方を先に処置してもらいなさい」
「は、はいっ……!」
侍女は慌てて頭を下げ、
近くに控えていた別の侍女に誘導されていった。
その背中を見送りながら、
俺は胸の奥に残る違和感に意識を向ける。
(……今までと、明らかに感覚が違う)
前世から続く血液恐怖症の感覚は、よく知っている。
血を見た瞬間に、
呼吸が浅くなり、目が回りそうになって、
手足の感覚が遠のいていく。
だが、今のはそれとは違った。
「嫌なものを見た」という意味での“拒否”ではあるが、
身体の反応が、どこか静かすぎる。
(静か……なのに、よく分からないざわつきだけ残ってる)
胸の奥で、
昨夜の《零冠》がまだ燻っているような感覚。
反動の発作は、とっくに過ぎているはずだ。
だが、何かが変わってしまったことだけは、はっきり分かる。
そこへ、侍従が静かに近づいてきた。
「レイアス殿下。本日のご予定ですが……
このあと、宮廷医療院への定期視察がございます」
「……医療院」
思わず、心の中で苦笑が漏れた。
血の匂いがする場所。
怪我人や病人が集まる場所。
そして――
前世の俺が、
もっとも長く関わってきた現場に近い場所。
(……逃げたいって言っても、通らないよな)
第一王子としての務め。
王家としての責任。
ここで「血が怖いから嫌だ」とは言えない。
俺は小さく頷いた。
「分かった。案内を頼む」
「はっ。医療院の院長も、殿下をお待ちしております」
侍従の後を追いながら、
胸の奥の違和感を、ひとまず脇に押しやった。
* * *
宮廷医療院は、王城のやや奥まった一角にあった。
表向きは白い石壁と高いアーチ窓で構成された、
静かな建物だ。
だが、近づくと微かな薬品の匂いと、
魔力の残滓のようなものが空気に混じっているのが分かる。
侍従が扉を開けると、
中からすぐに医師らしき男が姿を現した。
「レイアス殿下。
お忙しいところ、ようこそお越しくださいました」
穏やかな笑みを浮かべた中年の男。
白衣のような淡い外套に、
胸元には医療院の紋章が刺繍されている。
「医療院長のラナスと申します」
「レイアス=ヴァーミリオンだ。
こちらこそ手間をかける」
軽く会釈を返すと、
ラナスは露骨に嬉しそうな顔をした。
「殿下にお目通りいただけるのは光栄の極み。
ぜひ、この場にあるものをいろいろご覧になってくださいませ」
医療院の中は、
前世の病院とは似て非なる空間だった。
薬草の匂いと、
冷えた金属の匂いと、
魔力のわずかなざわめき。
床には清潔な石板。
壁には、血液の流れや魔力循環を層ごとに描いた図がかかっている。
通路の両側には個室が並び、
その手前が大きな処置室。
中央には長い台があり、その周囲に、
見慣れたようで見慣れない器具が整然と並べられていた。
(……注射器に見えるけど、先端が細くない。
これは……魔力導入用のカテーテルに近いか?)
(こっちは……薬研みたいだけど、魔力を循環させる刻印が入ってるな)
ラナスが、俺の視線を追うように説明を始める。
「こちらが、血液保存用の冷却箱でございます。
“冷血薬”と呼ばれる薬液に満たされており、
長時間の保存が可能となっております」
木製の箱の内側には、
薄い青い光を放つ魔法陣が刻まれていた。
中には、
ガラス容器に入った濃い赤の液体がいくつか並んでいる。
(……輸血パック、とはまた違うが……
概念としては、かなり近いな)
ラナスは続ける。
「吸血鬼の体は、一定量の血を失うと、
“渇き”が制御できなくなる場合があります。
その際、他者の血や血酒に頼るのではなく、
この保存血を使って補うことが可能です」
「……自分の種族の本能を、薬で制御するわけか」
思わず、前世の薬剤師としての感覚が顔を出す。
ラナスは嬉しそうに頷いた。
「ええ。
とはいえ、まだまだ研究途上ではありますが。
魔族の中でも、特に我らは“血”という呪いと向き合わねばならぬ種ですので」
(呪い、ね)
それは、よく分かる言葉だった。
俺の中にも、
血の匂いに反応する本能と、
血を見た瞬間に全てを拒絶する理性の恐怖が同居している。
その狭間で、
ずっと揺れ続けている。
ラナスは、別の器具を指さした。
「こちらは、魔血測定器と呼ばれるものです。
吸血鬼は血液中に魔力を宿しておりますので、
その濃度を測ることで、体調や能力の変化を観測できるのです」
透明な筒と、
脇に取り付けられた水晶のような部分。
(……血液検査の簡易魔力版、か)
前世の医療機器を思い出す。
血糖値計、血球計数器。
そんな単語が頭をよぎる。
「測定結果は、どのように確認する?」
俺が尋ねると、
ラナスは嬉しそうに身を乗り出した。
「こちらの水晶面に、色と模様として表示されます。
赤が強いほど魔力濃度が高く、青が混ざるほど希薄に。
また、黒い筋が入る場合は“穢れ”や呪詛の可能性が高いとされています」
「穢れと魔力の分別まで一度に……?
随分と便利だな」
「開発した錬金術師は、王立学舎でも教科書に載るほどの人物ですよ」
ラナスは誇らしげに笑った。
「殿下は、医療にご興味がおありで?」
「……多少は」
否定はできない。
薬剤師として働いていた時間。
薬の飲み合わせ。
副作用。
患者の表情や訴え。
それらは今も、俺の中で生々しく残っている。
「薬草の乾燥保存には、湿度ではなく“魔力の流れ”を管理しているのか?」
自然と、専門的な質問が口をつく。
ラナスは目を丸くして、それから顔を輝かせた。
「そこまでご存知とは!
さすが王妃殿下のご子息……
聖血の家系は、知の継承もなされているのですね」
(……いや、それは多分、違う)
母上から受け継いだものではなく、
前世の俺が拾い集めてきた知識だ。
だが、それをいちいち訂正するわけにもいかない。
俺は曖昧に微笑み、話を流した。
* * *
視察は順調に進んでいた。
薬品庫の確認。
診察室の環境。
記録書類の管理方法。
血の匂いがゼロ、とは言わないが、
医療院だけあって清潔に保たれている。
どの部屋も、換気と魔力浄化が徹底されているのが分かる。
(……思ったより、平気だな)
もちろん、
心地よい場所というわけではない。
しかし前世の病院に比べれば、
見た目の生々しさはかなり薄い。
薬草と魔力の匂いが、
血の匂いを上手く上書きしているのだろう。
そんなふうに油断しかけたときだった。
「け、怪我人だ! 訓練場から搬送!」
医療院の入口から、慌ただしい声が響いた。
廊下の向こうから、
二人の衛兵が担架を抱えて飛び込んでくる。
その上には、
若い男の衛兵がひとり。
肩口の鎧が外され、
布が当てられているが――
その隙間から、赤いものがにじみ出ていた。
(……っ)
視界が、一瞬だけ強く揺れた。
白い靄。
世界と自分の境界がぼやける感覚。
だが、昨夜のように足元から崩れ落ちるほどではない。
心臓は速くなるが、
手足の感覚はまだそこにある。
ラナスがすぐに走り寄り、
声を張り上げた。
「どのような状況だ!」
「訓練中に、槍の柄が折れまして……!
転倒した際、肩を石柱に強くぶつけたようで!」
担架の上の衛兵は、
顔をしかめながらも、かろうじて意識はある。
布を少しずらすと、
浅くはない裂傷が見えた。
血が、ゆっくりと流れ出し、
肌を伝って滴になろうとしている。
(やめろ)
胸の奥がぎゅっと縮む。
(落ちるな)
その“滴”が床に落ちる瞬間を、
俺はもう二度と見たくなかった。
昨夜、血酒が床に落ちる前に消えた光景が蘇る。
俺の意志ひとつで、
この場の血が消える――
そんな感覚が、指先を痺れさせる。
胸の奥で、何かが“カチリ”と音を立てて嚙み合った気がした。
《零冠》。
名も形も持たないはずの“冠”が、
そこにあるとしか思えない重さで、
内側から圧をかけてくる。
喉がひゅっと鳴った。
(……だめだ)
ここであれを発動させるわけにはいかない。
儀式の場とは違う。
今目の前にいるのは、
俺が守るべき臣下であり、
医師たちにとっては“治療すべき患者”だ。
この血は、
彼らにとって大事な情報であり、記録であり、
処置の指標になる。
俺が勝手に消してしまったら――
治療の妨げにしかならない。
「レイアス殿下……?」
ラナスが、振り返って俺を見る。
血の匂い。
鉄と、汗と、魔力の混じった匂い。
足が、床に縫いつけられたように動かない。
けれど、
ここで顔を背けたら、
いよいよ“王子”として立つ場所がなくなる気がした。
俺は、深く息を吸い込んで――
ゆっくりと言葉を出す。
「……治療を。
院長、任せていいか」
ラナスの目が、一瞬だけ驚きに見開かれた。
すぐに、その顔は仕事のものになる。
「もちろんです。
殿下は少しお下がりください。血飛沫がかかるといけません」
「ここで見ている」
自分でも驚くほど落ち着いた声が、喉から出た。
身体の内側では、
恐怖と嫌悪と、零冠のざわめきが入り乱れているのに。
「……承知しました」
ラナスはそれ以上何も言わず、
衛兵の肩に手を当てる。
「麻酔を。魔力鎮静も併用する。
傷は深いが、筋肉までは裂けていないようだ。縫合の準備を」
助手たちが、手際よく器具を並べ始める。
糸。
針。
消毒薬。
魔力を込めた小さな石。
(……よくできてるな)
思わず、そんな場違いな感想すら浮かぶ。
前世の医療現場なら、
ここで自分も動いていたかもしれない。
だが今は、
俺は動かない方がいい。
動いた瞬間、
零冠が“介入”してしまうかもしれないから。
血の匂いが、わずかに強くなった。
光景が、また少し揺れる。
だが――
耐えられないほどではない。
歯を食いしばり、
拳を握りしめる。
(……これくらいで、情けない顔をするな)
王子である前に、
デタラメな前世を抱えて転がり込んできた俺の、
せめてもの意地だ。
やがて、
血の匂いが少しずつ弱まっていく。
傷口が縫い合わされ、
薬草のペーストが塗られ、包帯が巻かれていく。
ラナスが額の汗を拭い、
衛兵に声をかけた。
「しばらくは安静に。
魔力の流れに乱れはありません。命に別状はないでしょう」
衛兵が、かすかに頭を下げる。
「……ありがとうございます……」
ラナスは、ふとこちらを見た。
「殿下。
お見苦しい場面をお見せしましたが……」
「いい。
これが、あなた方の“仕事”だ」
俺は、できるだけ自然に答えた。
「俺のことで手を止める方が、よほど問題だ」
ラナスの表情に、
尊敬の色が浮かぶ。
「……第一王子殿下は、
血を前にしても動じられないのですね」
(いや、動じまくっているんだが)
心の中でだけ、苦笑した。
だが、口には出さない。
ラナスは続ける。
「王家の方々の中には、
血の匂いに過敏な方もいらっしゃいます。
殿下の落ち着きは、我々にとっても心強いものです」
(……皮肉な話だな)
血が怖くて、
血を消してしまう力まで持ってしまった人間が、
“血に強い王子”として評価されている。
世界と、自分の認識の間にあるズレが、
胸に小さな棘のように刺さる。
その瞬間――
胸の奥で、零冠がふるりと震えた。
先ほど、血が滴りそうになった時ほどの大きな反応ではない。
ただ、微かに“光る”ような感覚。
(……今の、は)
血が止まり、
傷が覆われたあとで発生した揺らぎ。
発動はしない。
世界から何かが消えることもない。
だが、“条件”が少しずつ変わっているような気がする。
血が流れる瞬間だけでなく、
“血と命の境界”そのものに、
この力は耳を澄ませているのかもしれない。
(俺が理解するより先に、
こいつの方が、この世界の理を掴み始めている気がするな)
ぞっとする考えだった。
同時に、
それを“道具”として扱えるようにならなければ、
王家どころか、自分自身すら守れないことも分かっている。
「本日の視察は、ひとまずこちらで終了となりますが……」
と、ラナスが控えめに言う。
「殿下、何かご質問などは?」
俺は一瞬だけ考え、
それから首を振った。
「いや。
十分だ。
医療院の実情がよく分かった」
「ありがとうございます。
殿下のような方に理解していただけるのは、我々にとっても励みです」
本心からの言葉なのだろう。
その善意を、
今の俺は素直に受け取ることにした。
* * *
医療院を出て、
王城の廊下に戻る。
先ほどと同じ光の帯が、
床に伸びていた。
胸の奥の違和感は、
少しだけ形を変えている。
耐えられない恐怖ではない。
だが、“何かがおかしい”という確信だけが、強くなっていた。
(……昨日までの俺は、
こんなふうに“冷静に”血を見ることすらできなかったはずだ)
発作がひどかった時期の記憶が、
脳裏によみがえる。
注射の前。
採血のたび。
採血台から転げ落ちた、情けない感覚。
(それと比べれば、今は……
まだマシ、なんだろうか)
零冠を手に入れた代償として、
俺の中の恐怖は、
形を変えながらも、じわじわと再構成されている。
「……殿下」
背後から声がした。
振り返ると、
医療院の入口に立つラナスが、深々と頭を下げていた。
「本日はありがとうございました。
第一王子殿下が、
我々の仕事を真摯に見てくださったこと――
医療院一同、誇りに思います」
その言葉に、
廊下の奥で控えていた看護師たちが、
小さく囁き合うのが聞こえた。
「殿下、顔色ひとつ変えなかったわね……」
「本当に王の器だわ……」
「零冠って噂は怖いけど……やっぱり殿下は殿下よね」
俺は、
彼らの言葉に苦笑するでもなく、
ただ静かに頷いた。
「こちらこそ。
これからも、王都の命を支えてほしい」
それだけ告げて、歩き出す。
背後で、
医療院の扉が静かに閉まる音がした。
(……優雅な第一王子、か)
俺の中の、前世の俺が、
少しだけふざけたように笑った。
(本当のところは、
血が怖くて仕方がないただの小心者なんだけどな)
それでも――
今、王城の中で流れている噂は、
“血に動じない零冠の王子”だ。
そのギャップが苦しくもあり、
救いでもある。
評価に追いつくように変わるのか。
評価と逆方向に転がってしまうのか。
まだ分からない。
ただひとつ言えるのは、
昨日までの俺とは違う世界を、
もう歩き始めてしまっている、ということだけだ。
胸の奥で、
零冠が静かに、しかし確かに、そこにあった。




