第15話 王室食堂の朝──揃った家族と、ぎこちない朝食
父上との会談を終え、
重く飾られた書斎の扉が静かに閉まる。
その向こう側で父上は、
机上の書類を手に取りながら淡々と告げた。
「……私はまだ片付けがある。
お前は先に食堂へ行きなさい」
俺は深く頭を下げ、
廊下へ出る。
書斎の扉が閉じても、
胸の奥の緊張はしばらく消えてくれなかった。
(……父上、やっぱり怖いけど……
でも、思ってたより優しかったな)
零冠のこと。
血の恐怖のこと。
何もかもを見透かされた気がしたが、
攻められたわけではない。
むしろ――
“抱え込むな”と、あの人は言った。
その言葉に助けられた痛みが、まだ胸に残っている。
* * *
王室食堂までの廊下は、
朝の光に満ちていた。
深紅の絨毯の上を歩くたび、
靴音が小さく返ってくる。
気配の薄い廊下に、
侍従の控えめな声が響いた。
「殿下、お入りください」
大扉がゆっくりと押し開かれる。
中に踏み入れると、
すでに母上と兄弟四人が揃っていた。
父上の席だけが空いている。
(……どうやら、本当に仕事が忙しいらしい)
俺が入ると同時に、
視線が一斉にこちらに向く。
一番最初に立ち上がったのは、
予想どおり――ルーミエルだった。
「兄上!」
あどけなさの残る顔に、
真っ直ぐな心配の色が走る。
「本当に、大丈夫……なんですか?」
俺は、できるだけ“平常”を装って軽く頷く。
「ああ。心配をかけた。
でも、もう落ち着いている」
笑って見せると、
ルーミエルは胸に手を当ててほっと息をついた。
その横で、
「昨日、倒れかけた時はヒヤッとしたわよ、兄様!」
と、勝ち気なミリナが元気よく言い、
「で、でも……本当に、ご無事で……よかったです」
セリカが袖をつまんで小声で続ける。
(……うん。
なんというか、眩しいな)
十六年分の関係性を知らない身には、
この距離が少しだけ遠い。
俺はそっと視線を動かし、
残る一人――次男カーミルを探す。
カーミルはテーブルの端、
俺と斜め向かいの席に静かに座っていた。
目が合うと、
彼はほんのわずかに首を傾け、礼を取る。
「おはようございます、兄上」
礼儀正しい挨拶。
だが、その声音は冷たくはないが、固い。
「おはよう、カーミル」
俺が返すと、
彼はふっと視線を落とす。
(……昨日のこと、気にしてるんだろうな)
血が宙に浮き、消えた瞬間。
儀式の終わり。
俺が倒れかけた姿。
そして……庭園で母上に抱かれたところ。
カーミルがその全てを見ていることは知らないままだが、
彼が曇る理由は理解できる。
そんな空気を切り替えるように――
コン、コン。
扉の外からノックの音が響いた。
「陛下、ご入室!」
侍従の声とともに、
堂々たる足取りと影が食堂へ現れる。
父上だ。
濃い黒衣に深紅のマント。
周囲の空気すら引き締まる存在感。
母上と兄弟たちが同時に立ち上がる。
俺も慌てず席を離れ、
父上が上座に腰を落ち着けたあとに着席した。
(……これで“朝食の開始”になるのか)
家族が全員揃わない限り始まらないというのは、
王家としての作法でもあるのだろう。
* * *
食器の音がひとつ鳴ったあと、
父上が口を開いた。
「昨夜は……騒がせたな」
その低い声に、
場の空気がわずかに張り詰める。
「あのような形で儀式が終わることは、
誰も予想していなかった」
母上が穏やかに言葉を継ぐ。
「けれど、誰も怪我をせずに済んだのは、
あなたの力のおかげです、レイアス」
ルーミエルが力強く頷いた。
「僕もそう思います!
もし血酒が落ちていたら、危なかったはずですし……
兄上は、守ったんです」
胸が少し痛んだ。
(いや……俺は守ろうとしたわけじゃない。
単純に血が怖くて、消えてほしかっただけだ)
しかし結果として、
問題は起こらなかった。
その事実だけが、
今この場では前向きに解釈されている。
ミリナが目を輝かせる。
「だって、あの瞬間……ほんとに綺麗だったのよ!
血酒がふわっと浮いて、ぱっと消えて!
もう二度と見られない光景だったわ!」
セリカも頷いて小さく付け加える。
「……儀式の神官様たち、
本当に驚いていました……」
カーミルだけが、
ナイフを持つ手を静かに止めていた。
彼の瞳には、
好奇心とも不安ともつかない揺らぎがある。
その揺らぎの意味を読む前に、
父上が告げる。
「血紋院からは“注視すべき異常”と報告があったが……
王家としては、それを“危機”とは見なさぬ」
全員が息を呑む。
「レイアスの力は王家の管理下にある。
誰であれ勝手な判断は許さぬ」
政治的な意味を含んだ言葉だ。
王家が主導権を握る。
息子を危険視させない。
その意思がはっきりと示された。
ルーミエルが嬉しそうに息をつき、
セリカが安堵の色を見せる。
ミリナはほっと胸を撫で下ろし、
カーミルは逆に表情を固くした。
父上は続けて、俺に視線を向ける。
「レイアス。
体調は、どうだ」
「……問題ありません、父上」
「無理に血酒を口にする必要はない。
今日は、飲まなくてよい」
その一言で、
胸の奥の緊張が一気に解けた。
(……助かる)
血酒の匂いを嗅ぐだけで吐き気がする。
昨日の儀式は、本当に限界だった。
父上の配慮が素直にありがたい。
* * *
料理が並べられ、
ゆったりとした空気が流れはじめる。
とはいえ、
吸血鬼らしい料理が多いのは変わらない。
生肉。
血のソース。
スープに漂う鉄の匂い。
視界に入るだけで胃が縮む。
(……よく前の俺、これを“普通”に食べてたよな……
いや、食べられなかったのか?)
どこかで克服しようとしていたのだろうが、
今の俺にはまだ無理だ。
その空気を切り裂くように、
「兄上」
カーミルの声が落ちた。
全員が振り返る。
「昨夜の……あの現象。
“血を消す力”は……意図したもの、なのですか?」
真正面からの直球。
俺は、嘘をつかず、
かといって余計なことを言わぬよう慎重に言葉を選ぶ。
「……意図して、というよりは。
気づいたら、そうなっていた、という方が近い」
カーミルの瞳が揺れる。
「では……
兄上は、また同じことができるのですか?」
その問いは、
本人も怖がりながら投げているのが分かる。
「……分からない」
正直にそう言った。
「昨日のあれが、どう発動したのか。
自分でも理解していない。
もう一度できるかどうかも、試してみないと分からない」
カーミルはほんの一瞬だけ沈黙し――
すぐに視線を逸らした。
「……そうですか」
その声には、
安堵、落胆、嫉妬、諦め――
複数の感情が静かに沈み込んでいた。
ルーミエルが明るい声を出す。
「でも、兄上が僕たちを守ってくれたのは事実です!
僕は嬉しいです!」
ミリナも元気に続く。
「そうよ! だってうちの家族、みんな強いんだもの!
兄様は零冠、カーミル兄様は剣、
ルーミエルは魔術でしょ?」
「み、ミリナお姉様……わたくし……」
セリカを腕で引き寄せながら、
ミリナが笑う。
「セリカはかわいいから、それでいいの!」
「えぇ……?」
その姉妹のやりとりに、
母上が優しく笑いかける。
「誰一人欠けてはならない子たちばかりです」
(……俺も、その“ひとり”に入ってるんだよな)
胸の奥に、
じんわりと温かいものが広がる。
* * *
食事が終わりかけたころ、
父上が静かに告げた。
「数日のうちに、
家族全員で話し合いの場を設ける」
食卓の空気が、
一瞬で張り詰める。
「昨夜のこと。
王家の立場。
血紋院への対応。
そして――お前たち一人ひとりの今後についてだ」
兄弟たちはそれぞれに複雑な表情を浮かべる。
カーミルは眉をひそめ、
ルーミエルは不安そうにし、
ミリナとセリカは小声で何か囁き合う。
父上の視線が、俺へ落ちる。
「レイアス。
この場の中心に立ってもらうことになるだろう」
胸の奥がぎゅっと軋む。
それでも――
逃げるわけにはいかない。
「……承知しました、父上」
父上は満足げに頷いた。
* * *
食堂を出ると、
兄弟たちはそれぞれの方向へ散っていく。
ふと視線を向けると、
カーミルの背中が、
わずかに速い歩幅で遠ざかっていく。
呼び止めようか迷った。
だが――
声が出なかった。
(……タイミングが分からない)
兄弟として十六年間築いてきたはずの距離感が、
俺には分からない。
それでも――
いつか必ず、この距離を埋めにいかなくてはならない。
食堂を見返すと、
父上は侍従と小声で話しながら
別の部屋へ移動していた。
朝の光の中で、
王家の歯車が再びゆっくりと動き始める。
零冠の気配が、
胸の奥で静かに燻っていた。
その音は――
これから始まる“家族会議”の前触れのようにも思えた。




