第11話 “十六年分の空白”と嘘つきの王子
王妃の部屋を辞し、自室へ戻るまでの道のりは、妙に遠く感じた。
侍女に付き添われながら廊下を歩くあいだ中、
胸の奥でずっと、重たい石を抱えているみたいだった。
(……俺、本当に……レイアスとしてのこと、何も知らないんだよな)
前世の記憶は、やけにはっきりしている。
大学の白い廊下。
採血室の冷たい椅子。
針の光。
血の匂いがした瞬間、視界がぐらりと揺れて、そのまま床の冷たさを感じたあの感覚。
薬学部に進路変更してからの、実験室の空気。
調剤室の乾いた匂い。
白衣の袖口。
処方箋の束。
母の声。
義父の不器用な笑い。
狭いけれど居心地のいいリビング。
それは全部、鮮明だ。
なのに――
“レイアスとしての十六年”は、まるごと抜け落ちている。
誕生日も。
初めて剣を握った日も。
兄弟と何を話してきたのかも。
この城の中で、どこを歩いて、何を見て、どう笑ってきたのかも。
記憶の棚に、その部分だけぽっかりと穴が空いている。
「殿下、こちらでございます」
侍女の声で我に返る。
扉が開かれ、俺の“部屋”が目の前に広がった。
何度も寝起きしてきたはずの場所。
十六年間、毎日のように使ってきた空間。
なのに――俺にとっては、ほとんど“初見”だ。
深紅と黒を基調にした広い寝室。
大きな寝台。
壁際に並ぶ本棚。
窓際の机。
鏡台。
衣装棚。
すべてが、吸血鬼王子の部屋らしく整っている。
「何か必要なものがおありでしたら、すぐにお申し付けくださいませ」
「……ああ。大丈夫だ。少し、一人にしてくれるか」
侍女は一瞬だけ心配そうな顔をしたが、深く礼をして下がった。
扉が閉まる。
静寂が落ちる。
深呼吸を一つすると、ようやく胸が少し軽くなった。
(……一人きり、か)
ここから先は、
「王子らしく」振る舞う必要も、
「レイアスらしく」しなければいけない義務も、
ひとまず脇に置ける。
怖いけれど――
向き合うしかない時間。
俺はゆっくりと部屋の中を見渡した。
まず、本棚に近づく。
整然と並んだ書物たち。
背表紙には銀の文字で題名が刻まれている。
『夜襲戦略概論』
『血環儀礼史』
『吸血鬼王国法典』
『対人戦術演習録』
『魔獣解体と血液保存の技術』
(……うわぁ……)
どれも、前世の俺なら絶対に近づきたくないタイトルだ。
「血液保存」とか、文字だけでクラッとくる。
けれど、その中に一冊だけ毛色の違うものがあった。
『古代詩歌集 月と零の挽歌』
指が自然とそこに伸びる。
本を引き抜いて開くと、
流れるような古代文字の詩と、
余白に小さく、黒いペンで書き込まれた文字が目に入った。
――綺麗な字だ。
細く整った文字で、
意味の分からない単語に注釈が付けられている。
「零冠=王無き王/冠なき王」
「血の未来を断つ者=呪いか祝福か?」
(……これ、俺の字、か?)
そう思った瞬間、
喉の奥が妙に乾いた。
自分の知らない自分の筆跡。
俺の手が、
俺の知らないときに書いた字。
俺がここの文字を読み、
考え、
何か感じて書き残したはずの痕跡。
だけど、その瞬間の記憶は、一切ない。
「……気持ち悪……」
思わず声に出た。
“自分の部屋”なのに、
“自分が書いた字”なのに、
全部他人のものみたいだ。
本を閉じ、棚に戻す。
次に、机に目を向けた。
整然と整えられた机の上には、
インク壺と羽根ペン、
数枚の羊皮紙が重ねられている。
その一番上――
一枚の紙に、見覚えのない文が書かれていた。
『父上との面会時の話題候補』
箇条書きになっている。
・第一軍の新編成案
・南部境界の魔族領との交易報告
・血環の誓約時期についての相談
・弟妹たちの戦闘訓練の進捗
その最後に、小さく――
・父上の「血」に関する発作の有無
と書かれていた。
(……“前の俺”、ずいぶん仕事してるな)
王族として、ちゃんと父王と話をする準備をしている。
軍のこと、国のこと、家族のこと。
俺が今読んでやっと意味が分かるような内容を、
あいつは自分で整理していたらしい。
その“前のレイアス”が、
どんな顔でこれを書いたのか。
どんな気持ちで「父上の血に関する発作」なんて項目を入れたのか。
何も分からない。
(……それでも、一つだけ分かることは)
この紙の主は、
たぶん俺よりずっと“ちゃんとした王子”だった、ということだ。
「はは……やめてくれよ……」
乾いた笑いが出た。
前世の俺は、
社会人として最低限の責任感はあったつもりだが、
こんな大国の政治なんて背負ったことはない。
それどころか、
自分の血でさえまともに直視できなかった。
――採血室の白い天井がよみがえる。
呼吸が早くなる。
指先に冷たい汗が滲む。
(落ち着け。ここには針も、試験管もない)
代わりに、
もっと別の意味でえげつないものがある。
血を吸うことが当たり前の種族。
血で契約し、血で誓い、血で祝う王家。
その長子が――俺だ。
「無理ゲー過ぎない?」
机に片肘をつき、額を押さえる。
十六年分の記憶の空白。
前世の記憶は鮮明なのに、
この部屋で過ごしてきた夜の一つも思い出せない。
王妃が涙を浮かべて「昔もこうして抱きしめた」と言ってくれたその時間を、
俺は丸ごと取りこぼしている。
母の腕に縋って泣いた夜。
血が怖くて震えた日。
兄弟たちがどんな顔で俺を見てきたのか。
全部、知らない。
(……俺、本当に、“レイアス”って名乗ってていいのか?)
この体も、
この血も、
この部屋も、
この家族も。
“前の俺”がここまで積み上げてきた十六年間の結果だ。
そこに、
トラックに跳ね飛ばされた、血液恐怖症の薬剤師の魂が勝手に入り込んだ。
そんな感じがしてならない。
「転生って、もうちょっとこう……
ちゃんと引き継ぎとかしてくれるもんじゃないの……?」
前世の記憶を持った転生ものは、
漫画や小説で何度も見た。
けど、たいてい「チート能力」付きだったり、
前世の知識で無双できたり、
少なくともスタート地点で“記憶が完全”だったりする。
俺は違う。
貴重そうな“無傷の身体”と、
血を見ると自動で発動したくなる《零冠》と、
吸血鬼としての吸血衝動と、
血を見たら倒れるレベルの血液恐怖症。
おまけに、
十六年分の恋愛も、友情も、日常も、ごっそりない。
(……損しかしてないじゃん)
言いようのない虚しさが、胸に広がった。
ベッドの縁に腰を下ろし、
寝台の布を指でつまむ。
柔らかい。
何度も、この上で眠ったはずだ。
疲れて、倒れて、泣いて、笑って。
だけど俺にとって、このベッドは“今日が初日”だ。
――ふと、枕元に小さな箱が置かれているのに気づいた。
手のひらに乗るくらいの銀の箱。
蓋には紅い宝石が一つはめ込まれている。
持ち上げると、
中で何かがわずかに音を立てた。
「……開けて大丈夫なやつかな」
躊躇したが、
ここまで来て何も見ないのは逆に怖い。
そっと蓋を開ける。
中には、
細い鎖のついたペンダントのようなものが入っていた。
透明なガラスの小瓶。
その中に、赤くも黒くもない、
ほんのりと白金色を帯びた“何か”が封じられている。
(……血?)
いや、それにしては薄い。
淡すぎる。
瓶の底に、小さな紙片が一枚たたまれていた。
取り出して開く。
――そこには、見慣れてきた整った字で、短く書かれていた。
『母上の血を希釈したもの。
訓練用。
これなら……少しだけ見ていられる』
息が詰まった。
母の血。
それを限界まで薄め、色を抑え、
ガラスの瓶に閉じ込めたもの。
「……前の俺、なにしてんだよ……」
震えそうになる指を必死になだめながら、
小瓶を光に透かしてみる。
淡い。
赤というより、
ほんのり色づいた水みたいだ。
それでも――
“血”だと意識した瞬間、
心臓が跳ねた。
喉がつまる。
胸がざわっとして、呼吸が浅くなる。
(ああ、やっぱり……
俺の中身は、どこまで行っても“血液恐怖症の男”なんだ)
前のレイアスは、
これを使って訓練していたのかもしれない。
少しずつ血に慣れようと。
恐怖を克服しようと。
王族として逃げないために。
俺は、それすら知らずに、
その努力の上に立っている。
「ごめんな……」
誰に向かっているのか分からない謝罪が、
自然と口から漏れた。
“前のレイアス”にか。
王妃にか。
兄弟にか。
それとも――
この身体そのものにか。
俺は彼の記憶を持っていないのに、
彼の人生に割り込んでいる。
(……でも、じゃあどうすればいいんだよ)
この身体の持ち主は、もうどこにもいないのかもしれない。
魂がどこへ行ったのか、俺には分からない。
だけど――
この身体は、今、確かにここにある。
鼓動もある。
渇きもある。
零冠もある。
そして、
「血が怖い」という弱さも。
「……せめて、同じ方向だけは向いておくべきなんだろうな」
ぽつりと呟く。
前のレイアスが何を考えていたのか、全部は分からない。
でも、紙片に残された一文や、母の言葉や、周囲の視線から少しだけ見えてきた。
あいつは、“血が怖いまま強くなろうとしていた”。
血を直視できないのに、
血の世界で生きる覚悟をしようとしていた。
だったら。
「……俺は、逃げっぱなしにはできない」
血が怖いまま。
血を消せる零冠を持ったまま。
吸血衝動に怯えながら。
それでも――
この身体の主として、
この名前で呼ばれている限り、
“レイアス”でいなければならない。
前世の名前を、ここで口に出しかけて、
寸前で飲み込んだ。
もう戻れない場所だ。
母の顔。
前の世界の駅のホーム。
コンビニの光。
電子レンジの音。
そこに戻りたいと願っても、
トラックに蹴飛ばされた時点で、あの人生は終わっている。
(血が怖くて、転んで、頭を打って……
病院に行こうとして、飛び出して、トラックに……)
最後の光景だけが、やけに鮮明だ。
アスファルトの冷たさ。
あの時に流れた自分の血は、
怖くて、直視できなかった。
「……なのに、何で“吸血鬼”なんかに生まれ変わってんだよ」
文句を言える相手がどこにもいないのが、また腹立たしい。
零冠の王子。
無傷の王。
血に選ばれた器。
呪いを背負う存在。
周囲がどんな言葉を乗せようと――
俺にとって、血は、ただ怖い。
怖いものは怖い。
「……それでも、怖いまま、やるしかないんだろうな」
喉の奥で言葉を噛み締める。
十六年分の空白は、今さら埋めようがない。
前のレイアスの考えも、本当の性格も、もう分からない。
それでも。
これから先、十六年を、
今度は俺が積み上げることはできる。
“レイアスとして”。
王子としての期待や政治の話は、正直まだ頭が追いつかない。
零冠の本質も、吸血衝動の扱い方も分からない。
まずは、小さいところからだ。
血を見ない戦い方を磨くこと。
零冠の発動を少しでも自分で制御すること。
王妃や兄弟の前で、不自然すぎる嘘をつかないこと。
そして――
いつかちゃんと“自分の怖さ”を、自分の口で言えるようになること。
「……ああ、もう。道のりが遠すぎるだろ」
ベッドに倒れ込み、天井を見上げる。
深紅の布が、揺れている。
その向こうに、
さっきまで王妃と一緒に見ていた深紅の月があるのだろう。
血の月。
(俺はきっと、この先もずっと……
血が怖いまま、生きることになる)
それでも、
生きることを諦めたくなかった。
前世では、
小さなミスとパニックの積み重ねの先で、
あっけなく人生が終わった。
今度は――
あのトラックに跳ね飛ばされた意味が、
もしどこかにあるとしたら。
「……せめて、“怖いまま逃げない”くらいは、してみるか」
誰に聞かせるでもない独り言を呟いて、
ゆっくりと目を閉じた。
零冠の気配が、
胸の奥で微かに揺れた気がした。
未来を断つ王の冠。
血の結末を消す権能。
それが、
血を恐れるたった一人の吸血鬼のためにあるのだとしたら――
この矛盾だらけの生き方にも、
少しくらい意味があると、信じてみたかった。




