第10話 王妃リオネス──息子の変化に揺れる心
レイアスを自室へ戻したあと、リオネスはひとり、自らの私室に戻ってきていた。
重い扉が静かに閉まる音が、やけに大きく感じられる。
深紅のカーテンは既に降ろされ、室内は暖炉の火と数本の燭台だけが灯している。
揺れる炎が、壁にかかった古い絵画と紋章を赤く照らしていた。
リオネスは、その光景をしばしぼんやりと見つめていたが、やがて長く息を吐き、ゆっくりと椅子に腰を下ろした。
「……今日は、あまりにも多すぎますね」
誰に言うでもなく零したその言葉は、柔らかく、しかしかすかに震えていた。
レイアスの《零冠》覚醒。
血を消し去るという、まるで伝承そのものの現象。
そして、その直後に起きた激しい吸血衝動と、血への恐怖による発作。
そして……。
「なにより……あの子の“目”が」
リオネスは、自分の胸元の布地をぎゅっとつまんだ。
さきほど、庭園で見たレイアスの瞳。
深紅の色は変わらない。
だが、その奥に揺れていた光は、彼女が知っている“息子のそれ”とは、どこか違っていた。
弱さ。
怯え。
戸惑い。
そして――諦めのような影。
「……あの子は、“忘れてしまった”だけではないのかもしれませんね」
レイアスは自分のことを語ろうとして、言葉を飲み込んだ。
それはただの照れ隠しや、いつもの「大丈夫だよ」という強がりとは違う、もっと根深い躊躇に見えた。
“母に嘘をつくことに慣れていない子どもの、ぎこちない沈黙”。
そのはずなのに――
あの沈黙には、“もっと別の色”が混ざっていた。
まるで、
「言えば全てが壊れてしまう」と恐れるような、そんな色。
リオネスは小さく首を振る。
考えすぎだ、と自分に言い聞かせるための仕草だった。
「……いけませんね。
母親が、子どもを疑ってはいけないのに」
そう言いながらも、胸のざわめきは収まらない。
幼い頃から、レイアスは繊細で、感受性が強く、血の匂いにひどく怯える子だった。
初めて血の匂いを強く感じたのは、たしか――
まだ歩けるようになって、王城の廊下をよちよちと伝い歩きしていた頃だ。
たまたま、運悪く。
廊下の向こうで、兵士のひとりが軽い怪我をした。
誰も大事には思っていなかった。
吸血鬼にとって、少々の出血は日常の一部だ。
兵士も笑っていたし、周囲の者たちも気にも留めていなかった。
だが、レイアスだけは違った。
「いや……いやぁ……っ」
あのとき、真っ青になって震えながら、母の裾を掴んで泣き出した。
「血の匂いがする……いやだ……いやだ……いやだ……」
小さな両手で耳を塞ぎ、目をぎゅっと閉じて、その場に座り込んでしまったレイアスを見て、リオネスは心底驚いたものだった。
普通の吸血鬼の子どもなら、血の匂いにもっと別の反応を示すはずだ。
好奇心、興味、軽い興奮。
少なくとも“恐怖”ではない。
「……あの時から、あなたはずっと何かを抱えていたのですよね」
リオネスの胸が、じくりと痛む。
あの頃は、まだ“聖血の家系”としての知識と、王家の呪いについての断片しか知らなかった。
だが今は違う。
王妃として、そして聖血の末裔として――
レイアスの“異常さ”が、単なる気質や体質の問題に留まらないことを、嫌というほど理解してしまっている。
血を恐れる吸血鬼。
血を消し去る《零冠》。
色を失った“無色の血”。
それは、ただの偶然ではない。
「……それでも、あの子は……」
リオネスは、先ほどの光景を思い返す。
血酒が空中に舞い上がり、
落ちる“未来”が断ち切られ、
血の滴だけが、世界からふっと消えた瞬間。
あの異様な静寂。
王族たちの息を呑む気配。
血紋院の神官たちのざわめき。
そして――
何よりも鮮烈だったのは、その直後のレイアスの顔だ。
恐怖に引き攣りながら、
それでも必死に意識を手放すまいとする顔。
「……あの子は、あの瞬間……“血が怖かった”のですよね」
《零冠》を使ったから恐怖したのではない。
血を見たくないから、血を消した。
その代償として吸血衝動が暴れ出し、
本能と恐怖がぶつかって、息もできなくなった。
あそこにいたのは、“王の器”などではなく――
血が怖い、ひとりの少年に過ぎない。
「王家の者でありながら……
あれほどまでに血を恐れるなんて」
慈しみと、痛ましさと、
そして少しの“怒り”が胸の奥でせめぎ合う。
怒りの矛先はレイアスではない。
彼に“この体質”を背負わせた、世界そのものだ。
いや、正確には――
この王家に古くから連なる“呪い”と、
それを知りながら、受け入れるしかなかった自分自身にも。
「……あの子にだけ、こんな《冠》を与えるなんて」
静かな部屋で、リオネスは両手を組み合わせ、額を乗せた。
祈るような姿勢。
聖血の里で育った頃、何度も繰り返した祈りの形だ。
“血を導く巫女”として教え込まれた、古い様式。
だが今、彼女は神に祈っているわけではなかった。
祈りたい相手は、もっと近くにいる。
「――ヴァルゼル様」
夫の名を、小さく呼ぶ。
王としての彼は、
決して弱音を吐かない。
何事にも動じず、常に正しい決断を下そうとする。
だが、妻として知っている。
彼もまた、この子が生まれたときから、ずっと怯えているのだと。
“この子は、王になるのか”
“それとも、王家を滅ぼすのか”
あの日――
まだ小さなレイアスを抱き上げた夜、
ヴァルゼルがふと漏らした言葉が、今も耳から離れない。
『こいつの血は、お前の里の“聖血”だけではないのだろう?』
『……ええ。
でも、陛下。あの子は、“呪いそのもの”ではありません。
あの子は、ただの子どもです』
『ただの子どもが、《零冠》を宿して生まれてくるものか』
そのやりとりの後、
二人で何度も、何度も話し合った。
レイアスをどう育てるべきか。
血をどう扱うべきか。
《零冠》が覚醒したとき、どうするのか。
そして、結論はいつも同じだった。
――「それでも、あの子は“息子”である」。
王位継承者である前に、
呪いの器である前に、
聖血を継ぐ者である前に。
レイアスはこの腕に抱いた、
最初の子なのだ。
「……あの子が、今日……」
リオネスはゆっくり顔を上げた。
あの小さかった赤子が、
十六年を経て、
血を消す《零冠》を発動させた。
そして同時に――
“何かを忘れている”。
「忘れている、だけなら……よかったのですけれど」
リオネスの胸に巣くう違和感は、もっと別のものだった。
あの子は“忘れている”顔ではなく――
“知らない”顔をしていた。
血の儀式の名を尋ねたときも。
深紅の刻鐘の意味を聞いたときも。
兄弟の呼び方に、わずかに間があったときも。
王族なら誰もが当たり前に知っているはずのことを、
まるで初めて聞いたかのように戸惑っていた。
「……記憶の混乱、で済ませるには……少し、筋が通りませんね」
十六年。
それは決して短くない。
もちろん、幼い頃の細かいことまで覚えていろとは言わない。
だが、儀式や兄弟の性格や、
何度も繰り返してきた日常の一部まで曖昧になるには、
あまりにも急激すぎる。
「まるで……」
思いながら、リオネスはふと口ごもる。
口に出してはいけない、と思った。
しかしその言葉は、すでに心の中では形を成してしまっていた。
――まるで、“別の誰か”が、
レイアスの身体に入っているかのように。
「……ありえません」
リオネスはかぶりを振る。
たとえ“魂の入り替わり”や“転生”などという概念が、
古い伝承の中に存在していたとしても。
それは物語や儀礼の中の話であって、
自分の息子に起きることではない。
そうであってほしくない。
だが。
「それでも……」
先ほど、レイアスが必死に声を押し殺しながら、
“母上”と呼んだあの声音。
呼び方も、言葉遣いも、確かにレイアスだ。
けれど――
そこに滲んでいた“遠慮”は、
これまでの彼にはなかったものに思えた。
“本当に自分を息子と見ていいのか”
そう問いかけるような、線の細い迷い。
「……あの子は今、“二つ”の何かに挟まれている」
リオネスは、ようやくそのことだけは言葉にできた。
血を恐れる本能と、
吸血鬼としての渇き。
王家の長子として求められる役割と、
一人の少年としての弱さ。
呪いの器としての運命と、
母の子としての幸福。
そして――
“何かを忘れてしまったレイアス”と、
“何かを知っているような目をするレイアス”。
その矛盾が、今まさに彼を引き裂いている。
「……あの子を守れるのは、いったい誰でしょうね」
王としてのヴァルゼルか。
理想の弟たちか。
それとも、
聖血の里の巫女たちか。
リオネスはそっと胸に手を当てた。
「いいえ。
あの子を守るのは……まず、母であるこのわたくしです」
それは、決意というよりも、
確認に近い言葉だった。
レイアスの出生にまつわる“秘密”。
聖血の家系として、王妃として、
彼女は知っていて、
しかしこれまで語らなかったことがある。
それを打ち明ければ、きっと彼は傷つく。
いまの彼には重すぎる真実だ。
だから――まだ言えない。
「ごめんなさいね、レイアス。
あなたに嘘をついているのは、本当はこの母なのです」
静かに瞳を閉じる。
重い後悔が胸を満たす。
それでも、今ここで全てを明かすことはできない。
《零冠》が覚醒した今、
血紋院は必ず動く。
王城の中の力関係も、
微妙に揺らぎ始めるだろう。
レイアスは、その渦の中心に立たされる。
「それまでに……あなたが“自分自身”を選べるように」
血に飲まれるのではなく。
呪いに流されるのではなく。
誰かの期待や恐怖に押し潰されるのでもなく。
“血が怖い”という、たった一つの弱さを抱えたまま――
それでも優雅に笑える王になれたなら。
「……欲張りでしょうか」
ぽつりと呟く。
だがそれでも、母としての願いは変わらない。
レイアスが、レイアスとして生きられる未来を。
《零冠》の王としてではなく、
血を恐れるただの青年として笑える時間を。
どれほど短く、儚いものであったとしても。
「あなたの変化が……
あの子自身の“選択”であることを、願っています」
そうでなければ――
レイアスはただ、世界の都合で作られた“器”になってしまう。
リオネスはゆっくりと立ち上がり、窓辺に歩み寄る。
カーテンをほんの少しだけ開けると、
夜空に浮かぶ深紅の月が見えた。
血の月。
吸血鬼にとっては祝福の象徴。
聖血の里では“星が落とした血のしずく”と歌われる存在。
リオネスはその月にそっと囁く。
「どうか、レイアスから……“これ以上”奪わないで」
前世かもしれない何か。
十六年分の記憶。
血への耐性。
王族としての当たり前の幸福。
それでもまだ、奪うつもりなのかと。
深紅の月は、何も答えない。
ただ静かに、王城を照らしている。
その光の下で、
王妃リオネスの胸に宿る“不安と愛情”は、
静かに、しかし確実に膨らみ続けていた。
それはやがて――
レイアスの運命を揺るがす“ある決断”へと
繋がっていくことになるのだが。
この夜の彼女はまだ、
そこまでを想像することはできなかった。




