第1話 血が怖い吸血鬼王子
血の匂いで、目が覚めた。
……最悪だ。
ここ、どこだよ。
視界に映るのは見たこともない天蓋だった。
深紅の絹が波打ち、銀色の柱が四方を支えている。天井には夜空のような漆黒が広がって、そこに散った紅い宝石が星みたいに埋め込まれていた。
息を吸うたびに、鼻の奥を金属の匂いが刺す。
――鉄。
……血の匂い。
「っ、やめろ……」
胸が急に締めつけられた。呼吸が浅くなる。
喉が塞がったみたいに空気が入ってこない。掌がじっとり汗ばみ、指先が震えた。視界の端が白くかすんでいく。
――ああ、これ、知ってる。
血の匂いを感じたときの、“あれ”だ。
息が荒くなる。心拍が跳ね上がる。
ただ血の匂いを「想像しただけ」で気分が悪くなっていたのに、今は実際に、はっきりとこの部屋のどこかで血の匂いがしている。
落ち着け。深呼吸。血は見てない。見てないから――
「レイアス様、お目覚めですか?」
唐突に扉の方から声がして、心臓がびくりと跳ねた。
視線を向けると、黒いドレスに身を包んだ女性が一人、静かに膝をついていた。深いワインレッドの髪をまとめ、首筋まできっちり隠す高い襟。長い睫毛の下、紅い瞳が伏せられている。
……誰だ、この超・中世ファンタジーな侍女。
「……れい、あす?」
思わずオウム返しになる。
「はい。吸血鬼王国ヴァーミリア第一王子、レイアス=ヴァーミリオン様」
さらっと、とんでもない情報が出てきた。
吸血鬼王国?
第一王子?
俺が?
いやいやいや。待て。落ち着け。
状況を整理しようとして――そこで、違和感に気づいた。
「……これ、俺の声?」
喉から出た声は、よく知っているはずの自分の声とは違っていた。前の俺より、少し高く、よく通る。
手を持ち上げてみる。白く長い指。節は細く、爪は透けるような薄い紅を帯びていて、爪先に向かうほど色が濃くなっている。
細くて、綺麗で、どこか人間離れした“手”。
俺は――ベッドの上に横たわっていた。深紅のシーツ。枕元には黒い薔薇が飾られ、部屋全体が「血」と「夜」をテーマにデザインされたみたいな趣味の悪さ……いや、世界観の徹底ぶりを放っている。
「……夢か?」
そう呟いて、言葉の響きに自分で違和感を覚える。
夢だと思いたいのに、皮膚感覚があまりにもはっきりしていた。背中に敷布の感触。手の平に伝わるシーツの冷たさ。胸の鼓動。喉の渇き。血の匂い。
夢にしては、気持ち悪さがリアルすぎる。
「レイアス様? ご気分が優れませんか」
侍女が心配そうに顔を上げた。
瞳が、真紅だった。人間じゃありえない色。
彼女の喉元には、小さな黒い紋章――血の滴を模したペンダントが光っている。
ああ。世界観だけじゃなくて、キャラクター設定もガチで吸血鬼寄りなんだなこれ。
「……吸血鬼、王国?」
かすれた声で繰り返すと、彼女はわずかに首を傾げてから柔らかく微笑んだ。
「はい。ここはヴァーミリア王城、レッドオーレリア宮。
レイアス様のお部屋でございます」
そういえばさっき「第一王子」とか言っていた。
「俺が……王子?」
「はい。陛下と王妃様のご長子にございます。
本日は十六歳のご生誕の日。深紅の刻鐘がまもなく鳴り響くでしょう」
十六歳。
生誕。
深紅の、刻鐘。
言葉だけ聞けば優雅だが――そのどれも、今の俺の頭では処理できなかった。
十六歳ってことは、高校一年か二年くらい。
いや、俺は――。
「……俺、いくつだったっけ」
ぽつりと零れた独り言に、自分で自分を殴りたくなる。
――いや、おかしいだろ。何で自分の歳を忘れてるんだ、俺。
「レイアス様?」
侍女が不思議そうに首をかしげる。
胸の奥で、何かがぱきりと音を立てて割れたような感覚がした。
その瞬間――頭の中に“別の風景”が雪崩れ込んできた。
白い天井。
蛍光灯の光。
消毒液の匂い。
プラスチックの椅子。
ゴム手袋をはめた看護師。
腕に巻かれる止血帯。
「じゃあ、ちょっとチクッとしますねー」
「――や、めろ」
思わず口から声が漏れる。
針が皮膚を刺す瞬間の、あのどうしようもない緊張。
チューブを通って、赤い液体がゆっくり流れていくのが見えて――視界がぐにゃりと歪む。
「あ、顔色、悪いですけど大丈夫ですかー?」
大丈夫じゃない。
頭が真っ白になる。汗が噴き出す。心臓が暴れる。
音が遠くなる。
目の奥がじんじんして――
――そのまま、意識を手放した。
「……採血で、倒れた」
自分の口からこぼれた独白に、遅れて意味が追いつく。
そうだ。
俺は――重度の血液恐怖症だった。
小さな切り傷でも、血がにじむのを見た瞬間、指先が震えて動かなくなる。
「大したことない」と頭では分かっていても、体が勝手にパニックになる。
血が流れる映像もダメだ。乾いて黒くなった血はまだマシだが、“生きている赤”が苦手だ。
──そうだ。
俺は、血を見ることが怖くて、怖くてたまらなかった。
「霧島……慧」
名前が口をついて出た瞬間、
侍女がぴくりと肩を揺らした。
「……今、何と?」
「いや、何でも……」
そこで、もう一つの記憶が襲ってきた。
雨上がりのアスファルト。
濡れた路面。
家の前の小さな段差で足を滑らせ、前のめりに倒れた。
額に衝撃。
次の瞬間、目の前の地面が赤く染まっていた。
額から流れ落ちる血。
頬を伝って顎から滴る、まだ温かい液体。
「……っ、は、」
ベッドの上だというのに、全身が硬直した。
喉が凍りつく。
呼吸が浅くなる。酸素が足りない。
やめろ。思い出すな。あの赤を思い出すな。
あのときも、俺は――。
自分で自分の血を見て、完全にパニックになった。
こんなに血が出てる。止まらない。止まらない。
「死ぬのか」と思った次の瞬間、逆に“血を見ないように”したくて、ふらふらと立ち上がって家の外に出た。
外に出れば、誰かに助けを呼べる。
病院に行ける。
そう考えたはずだ。そこまでは覚えている。
けれど、
視界の端が赤くぼやけている中で、
ふいにヘッドライトの光が目に焼き付いた。
クラクションの音。
タイヤが水をはじく音。
体が宙に浮く感覚。
――ああ、俺はそこで、死んだのか。
ゆっくりと現実に戻る。
深紅の天蓋。銀の柱。黒い薔薇。血の匂い。
吸血鬼王国。
第一王子、レイアス。
前世の名前は霧島慧。
二十代後半。薬剤師。血液恐怖症。
事故死。
今の俺は――吸血鬼王国の王子。
十六歳。
でも、血が怖いのは、何一つ変わっていない。
「……詰んでない?」
小さく呟いたつもりだったのに、
侍女にははっきり聞こえたらしい。
「レイアス様? 本当にご体調が優れないようでしたら、侍医をお呼びしましょうか」
「あ、いや、大丈夫……たぶん」
大丈夫じゃない。
しかし、血液恐怖症だからと言って吸血鬼の城で侍医を呼ばれても困る。
絶対に「じゃあ少し血を採って――」とか言われる未来が見える。いやだ。全力でいやだ。
「その……さっきから、血の匂いがするんだけど」
思い切って聞いてみると、侍女は一瞬だけ目を瞬かせ、それから納得したように頷いた。
「申し訳ございません。
本日は深紅の刻鐘の日にございますので、廊下で供血の準備が進められております。
レイアス様のお部屋の前にも、祝福のための聖血酒が……」
……聖血酒。
名前からして既にアウト。やめてほしい。
「窓、開けてくれない?」
思わず口をついて出た言葉に、侍女は少し驚いた顔をしたが、すぐに深く頭を下げた。
「かしこまりました」
分厚いカーテンがするりと開かれる。
窓が静かに押し開かれると、ひんやりとした空気が流れ込んできた。
夜の空気には、まだ血の匂いが少ない。代わりに、遠くの街のざわめきが微かに聞こえた。
深呼吸をひとつ。
少しずつ、呼吸が楽になっていく。
「ありがとうございます、レイアス様」
「……いや、俺が頼んだんだけど」
「いえ。そうして“窓を開ける”という選択をなさったことが、でございます」
何か含みのある言い方だった。
この侍女、ただのモブじゃないな、という感想が頭をかすめる。
だが、とりあえず今は、吐き気と眩暈が引いていくことに集中した。
「ところで……その、深紅の何とかって、さっき言ってたやつ」
「深紅の刻鐘でございますか?」
「それ。それって――何の鐘?」
侍女は一瞬、言葉を選ぶように目を伏せた。
そして、できるだけ柔らかく言い聞かせるような声で答える。
「王家のご子息が十六歳になられた時にだけ鳴る、特別な鐘にございます。
“王子誕生の刻”を、国中に告げるための」
王子は、生まれたときと、十六歳になったときに“誕生”する。
侍女の言葉には、そんな響きがあった。
「……二回も生まれなくていいだろ」
思わず本音が漏れたが、侍女はくすりとも笑わなかった。
ただ、ほんの少しだけ、瞳の色を沈ませる。
「十六歳を迎えられた王子は、
《血環の誓約》の資格を得られます」
聞き慣れない単語だったが――
何となく、嫌な予感だけはした。
「それ、もしかしなくても……」
「王位継承のための、大切な儀式にございます」
ああ、やっぱり。
嫌な予感というのは、たいてい当たる。
つまり、こういうことだ。
俺は、血が怖い。
他人の血を見るのも自分の血を見るのも、想像するだけで気分が悪くなる。
なのに、吸血鬼王国の第一王子で。
十六歳になったから、“血に関する何らかの儀式”をしなければならない、と。
「……詰んでるどころじゃないな」
「レイアス様?」
「いや、独り言」
頭をがしがしと掻きむしりたい衝動に駆られたが、
鏡に映ったら確実に“優雅さ”が死ぬのでやめた。
王子の見た目がやけに整っているのが、こんなところで邪魔をする。
思考を切り替えようとして、ふと、もうひとつの違和感に気づく。
――さっきから、俺、普通に喋ってるな。
血の匂いで発作が出かけているのに、
声が出ないわけじゃない。
昔の俺は、血を見た瞬間、声を出すどころか立っていられなくなっていた。
「……もしかして」
恐る恐る、自分の胸に手を当てる。
鼓動は早いが、完全にパニックになっているわけではない。
体のどこかで、“何か”が血への恐怖を押しとどめている感覚があった。
あの、血の庭――じゃなかった。あれはまだ知らない。
少なくとも今、ここで感じているのは、
前世と同じ“恐怖”に、何か別の力が絡みついているような違和感。
「…………」
考えがまとまりかけたところで、
低く、重い音が城の奥から響いてきた。
ゴォォォォォン――。
空気そのものが震えるような、深い鐘の音。
胸の奥まで、ずしんと響いてくる。
「深紅の刻鐘にございます」
侍女が静かに呟いた。
鐘の音は一度だけでは終わらない。
二度、三度と、間隔をあけて城中に鳴り渡る。
ゴォォォン。
ゴォォォン。
ゴォォォン。
その度に、胸の奥がざわめいた。
耳で聞いているのに、なぜか“既視感”のようなものが付きまとって離れない。
……この音を、俺は前にも聞いたことがある気がする。
ありえない。
ついさっきまで、俺は日本で生きていた。
病院と、職場と、アパートの往復の世界で。
だけど――
運命、という言葉は好きじゃないが、
もしそれに似た何かがあるのだとしたら。
この鐘の音は、
“血を怖れる俺が、血に塗れた世界の中心に立たされる”
その運命のスタートの合図なんだろう。
胸が、嫌な意味で冷たくなる。
「レイアス様。お支度はいかがなさいますか?」
侍女の問いかけに、
俺は天蓋の向こう側――まだ見えない城の内部を想像しながら、小さく息を吸った。
血が怖い。
本当に怖い。
だけど――ここで逃げたら、多分、もっと怖い未来が待っている。
「……顔を洗って、服を着る。
十六歳の王子の“生誕”とやらを、演じに行かないとな」
震えそうになる声を、
どうにか冗談めかして押し殺す。
俺は吸血鬼王国の第一王子、レイアス。
前世は血液恐怖症の人間、霧島慧。
血が大の苦手で、でも血の匂いから逃げられない。
深紅の刻鐘は、まだ鳴り続けていた。
その意味を、本当に理解するのは――
もっとずっと先の話になる。




