端原年鑑の基礎的研究
本年代記は、端原壮真大王の中央支配体制下で、各地の反乱と中北情勢の混乱、そして大王の死とそれに続く横田宗真の強権的な筆廷政治への移行を描いている。
これは、旧体制の横暴に対する怒りから立ち上がった端原家頭領・端原壮真が、反乱と政変を経て、600年続いた我氏国政を打倒し、新王朝の「神王」として即位するまでを描く、激動の年代記である。
【序章:反乱への道】
2023年12月、端原の有力な武術指南役・上大年一成が、我氏勢力である監察使・姉賀久繁の刺客に殺害される事件が発生。久繁をはじめとする我氏勢力の専横に怒りを募らせていた端原壮真は、息子の豪政や武術指南役の上大年勝実ら勇士21名を招集し、決起を固める。
決起の機を窺っていた壮真は、公爵・赤丑照安を新王に擁立した霊殿廣実による「照安王の乱」と、それに続く東方監察府の武断派閥による「東方反乱」を好機と捉える。壮真は東方反乱の首魁・麻生廣頼の討伐を名目に挙兵し、まずは我氏側の腐敗した監察役・姉賀久繁を誅殺する。
【端武同盟と麻霧征伐】
我氏政権末期の内閣府乱入事件「元日事件」をきっかけに、武垣有彦率いる武垣氏は麻生派との同盟を破棄し、端原方との「端武同盟」を締結。端原軍は武垣軍と共に麻生派を追討する戦局となる。壮真は密偵を派遣して麻生派から穏健派幹部の奪取に成功。麻生廣頼が報復として港湾都市・広館を焼討し、民間人を虐殺したことで、王宮警察は端原に麻生追討命令を下す。
麻生廣頼は、端原との戦いに敗れて有力氏族の麻霧洋範の元へ亡命。麻霧洋範が廣頼の引き渡しに応じなかったため、壮真は麻霧征伐を決断する。麻霧領内に入った端原軍は、洋範らとの激戦「蒼佐合戦」「瀬原田の戦い」を経て麻霧氏を破り、洋範を捕殺。麻生廣頼も逃亡の末に捕らえられ処刑される。
【第一章:挙兵と中央遠征】
麻霧討伐を終えた端原軍に対し、中央の王宮警察は、壮真ら端原の幹部を反逆罪として逮捕状を発令。壮真はこれを無視し、武垣氏らが中央討伐軍に加わる中、中央への遠征を開始する。端原勢力は王宮警察の軍勢を各地で破り、勢力を拡大していく。
【第二章:盟約と平和】
中央政府の実権を握っていた新庄実伸に対し、端原壮真は「四月条約」を突きつけ、逆臣の逮捕と、自身が中央書記官に就任し帝王の養子となることを要求。これにより壮真は帝王家の身内となり、政権の筆頭の地位を獲得する。
しかし、壮真の独裁的な振る舞いは内部の対立を生む。新帝候補に選ばれなかった赤丑伸通が蜂起するが鎮圧。壮真は麻霧代臣・林原政文の失態を揉み消すための策謀で、中央の有力者であった管理局倫春を処刑し、反対勢力を粛清していく。
【第三章:我氏国の滅亡】
林原政文が、壮真に召喚され中央に参上した際に暗殺される事件が発生。これを機に、壮真は中央政府の実権者である新庄実伸の追放を画策。7月4日、壮真は軍を動員して宮城を包囲し、実伸を拘束。首相・初村廣兼に代王の退位と実伸の失脚を認めさせる**「殿上政変」**を断行し、600年続いた我氏政権は滅亡する。
【第四章:神王の即位と王政】
政変の成功後、7月7日に端原壮真は全霊神王として即位の大礼を催す。壮真は、旧体制下の政治犯や捕虜に恩赦を与える一方で、中央市街の防衛と地方の治安維持を強化する。我氏の残党が蜂起した「兵匪の乱」や「皇子神団の乱」が起こるが、端原軍により次々と鎮圧され、新王政の確立が進められる。
小説:神王の即位と我氏国の黄昏
序章:反乱への道
一:血の冬
2023年12月、端原は雪に包まれ、静かなる怒りが燻っていた。 17日、凍てつく路地裏で、端原家の武術指南役であり、人望厚い上大年一成が、無頼漢に惨殺された。犯人は姫岡国俊。彼が我氏傘下の有力者、麻霧洋範らの所従であり、さらには端原を牛耳る監察使・姉賀久繁の刺客であったと判明した時、人々の心は沸点に達した。
久繁の専横は目に余るものがあった。先祖代々の惣墓を暴いて屋敷地にしようとするなど、その振る舞いは端原の民の魂を蹂躙していた。一成を庇って暴行を受けた長池怜の血は、端原頭領・端原壮真の決意を固める最後の引き金となった。
「もう堪忍ならぬ」
壮真の胸中で、長年の鬱憤が炎となった。
二:御殿結集
12月22日の夜、端原御殿に灯りが煌々と灯る。壮真は息子・端原豪政を筆頭に、領内の勇士21名を参集させた。
端原豪政、端原奈央弥、端原谷春…、武術に秀でた上大年勝実、そして復讐に燃える長池怜。そこに、かつて放蕩の身であった壮真の元執事、犬法良が帰還し、決起に参加を表明した。
「中央の犬どもに、我らの血と誇りを見せつけてやる」
下条寔の口から決起の陰謀が告げられると、集った面々は歓喜の声を上げた。
三:荒れる東方
壮真が虎視眈々と機を窺う中、東方で二つの反乱が勃発する。
まず、冷遇されていた政治家・霊殿廣実が公爵・赤丑照安を新王に担いで挙兵した「照安王の乱」。これは廣実が麻生廣頼らに敗れ、照安王が自害することで短期間で平定された。
しかし、その混乱に乗じて、東方監察府の武断派閥が「東方反乱」を起こす。首魁は麻生廣頼。彼らは奸臣と見なした監察府総督・奧知呂頼春らを殺害し、中央政府に宣戦布告した。
壮真は迷わなかった。 「今こそ旗を揚げる時だ」 壮真は麻生討伐を大義名分に、長年の宿敵であった端原監察役・姉賀久繁を即座に誅殺した。東方反乱鎮圧の名目で、端原軍は中央遠征への道を歩み始めた。
四:端武の契り
元日事件と呼ばれる中央での内閣府乱入事件後、有力氏族である武垣氏の首領・武垣有彦は、中央の敵であった麻生派と袂を分かち、端原軍と共闘の姿勢を示す。
1月7日、有彦は麻生の使者を殺害し、**端原との同盟(端武同盟)**を締結。ここに、端原軍は中央の賊軍と戦う強力な戦局を得た。
麻生廣頼が支配する東方監察府へ、端原谷春、端原豪政らが密偵として潜入。彼らは穏健派の協力を得て、穏健派幹部・寺地篤彦らの奪取に成功する。
28日、麻生廣頼は、端原与党が潜伏しているとの嫌疑で港湾都市・**広館**の焼討を命じた。多くの民間人が虐殺され、その惨状は王宮警察に訴えられた。中央は軍事力に乏しく、端原に麻生廣頼追討命令を下す。端原壮真にとって、これは中央遠征への公然たる大義名分となった。
第一章:麻霧征伐と中央遠征
五:嘲笑の謁見
麻生廣頼は瓜生合戦で敗走し、有力氏族・麻霧洋範を頼って亡命する。
端原軍は麻霧領内に入った。洋範は恭順の態度を示すが、家督を担う兄弟・麻霧洋範の謁見時の戦きぶりは、端原の兵たちの嘲笑の的となった。「此の如きが麻霧の長老か」
洋範は謹慎の身でありながら禁を破って謁見に臨んだが、交渉は麻霧槻盛と蒼佐繁行が行い、麻生追討に加わる意思を改めて示した。しかし、麻霧内部では離反の陰謀が進行していた。
六:罪無きを斬る
麻霧の恭順が面従腹背であると知った壮真は、麻霧攻めを決断する。息子の豪政は「麻霧の民に罪はありません」と諫言する。
しかし、壮真は冷然と応えた。 「罪が無いからこそ殺すのだ」
2月14日、麻霧征伐が始まった。 麻霧方は、勇猛な蒼佐繁為らが奮戦し、端原・武垣連合軍に損害を与えた(蒼佐合戦)。蒼佐繁為は「嗚呼、もう充分」との遺言を残し討死。しかし、大勢は覆らず、麻霧洋範は捕縛され処刑された。亡命中の麻生廣頼も、途中で討伐使に捕まり、その首級を晒された。
七:逮捕状と宣戦布告
中央の王宮警察は、端原の勢力拡大を恐れ、2月21日、王宮警察長官・堂坂則興の名で、端原壮真ら端原の主要幹部の逮捕状を発令する。容疑は公職権の乱用と中央への反逆企図。
しかし、端原、東方観察府、麻霧の各本部は、この通牒を一様に無視した。
中央は実力行使を決意し、武垣氏に討伐軍への参加を要請。武垣有彦は人質を取られていたため、渋々ながら端原討伐に加わることを伝達した。
しかし、中央が派遣した軍勢は、東方観察府の培良時久らの抵抗に遭い大敗。王宮警察長官の則興は、強大な武力を敵に回したことを深く後悔する。中央は全人民を軍事動員する**「人民惣奉公令」**を発布するが、これも端原方に打ち破られる。
第二章:盟約と平和
八:殿上の権謀
3月30日、端原軍は朝日公国との国境近くで中央・朝日連合軍と激突(王賀合戦)。下条達範の作戦で、霧を使い大軍勢に見せかけ、連合軍を動揺させて大勝する。
敗戦の報は、連合軍の構える新居にも届いた。総司令官の深鉢準伸が第2軍徴兵を命じたその時、初村廣兼らが半期を翻し、準伸ら続戦派を拘束する(新居の変)。これは、副長官・幸端頼月と揉岡導火による裏工作であった。端原は朝日を解放し、中央の内部情報を手に入れた。
31日、端原は中央の新庄実伸政権に逆臣逮捕と引き渡しを要請。壮真は猶予延長と引き換えに、新庄氏との縁戚関係を要求し、これを実現させる。
九:四月条約
4月2日、端原壮真は一族郎党を引き連れ中央に参上し、新庄実伸に謁見。壮真は逆臣討伐の功績により書記官に任じられ、さらに帝王赤丑景厚の養子に迎え入れられた。壮真は遂に中央の筆頭の地位を手にした。
壮真は中央政権指導者・新庄実伸に対し、**「四月条約」**を通達する。 内容は、戦時下の地域知事の人質解放、首相の設置、書記官の任命権、そして逆臣の引き渡し、という壮真の覇権を確固たるものにするものであった。
壮真の権勢は極まり、4月27日には帝王の譲位を立案。新帝の推薦を巡って、反対派の管理局倫春、瀬沼真景らと対立する。同日、瀬沼真景が刺客に襲われ殺害される。
5月2日、永江敦久が新帝として即位。首相には葉村瓜氏が就任し、我氏一門以外の家系から首相が排出されるのは100年ぶりのことであった。
十:内乱と粛清の炎
5月26日、壮真は尾賀瀬諸澄を反逆者隠匿罪で討伐しようとするが、新庄実伸が強く反対。しかし、首相葉村瓜氏が既に勅命を布達した後であったため、壮真は命令撤回を撤回し、討伐を断行(尾賀瀬諸澄の乱)。
壮真は、赦免を装った祝宴の最中に長池怜に諸澄を銃殺させるという冷酷な策略を用い、乱は鎮圧される。
6月5日、麻霧で内乱が勃発。代臣知事林原政文は、反乱張本人笑井訂壱を中央に送還せず独断で残虐に処罰した。この失態が中央に伝わると、6月6日、政務代行中であった筆頭閣僚・管理局倫春が壮真の讒言により反逆容疑で逮捕・処刑される。
人々は、これは林原政文が自らの失態を揉み消すために仕組んだ壮真の策謀だと噂した。
第三章:我氏国の滅亡
十一:林原政文の死
6月16日、壮真は麻霧総代林原政文を中央に呼び出す。壮真は政文を歓待するが、宮殿前に着いた政文は、突如物陰から飛び出した四名の刺客により斬り伏せられた。政文は即死。暗殺に使用されたのは密輸品の銃刀であった。
犯人は長縄和斉らと断定され、壮真は護衛兵の怠慢に激怒。林原政文の死は、壮真の中央支配を揺るがす波紋となった。
十二:殿上政変
6月30日、新庄実伸が、壮真を弾劾する謀書を送ったとして壮真を告発。しかし、壮真の家臣らの捜査で謀書は存在しないことが発覚し、実伸の偽状とされた。実伸は籠居し、事態は紛糾する。
壮真は実力行使の準備を始める。 7月4日、壮真は臨時会議を開き、実伸を失脚させるための政変の策を練った。夜、閣議を催すため宮内府に実伸が参じた頃合いを見計らい、壮真の家臣が宮城を包囲。王宮警察の出動を別動隊が阻止する間に、本隊が閣府に闖入し、首相初村廣兼をして代王の退位と実伸の失脚を受諾させるというものであった。
午後11時過ぎ、宮城は端原軍に包囲された。遅れて宮前に到着した新庄実伸は引留められ、口論は乱闘へ発展し、実伸は拘束された。
午前0時08分、端原軍は閣府を占拠し、閣議員を拘束。首相初村廣兼に八ヶ条の誓約を承服させた。誓約には、端原壮真の帝王即位、新庄実伸の処刑、中央の警察・行政権の委譲などが含まれていた。
これにより、600年続いた我氏政権は滅亡し、後に**「殿上政変」**と呼ばれる事件がここに始まった。
第四章:神王の即位と王政
十三:全霊神王
7月7日、陰陽両閣の議員を再編し、壮真は全霊神王・端原壮真として即位の大礼を盛大に催した。全国から諸侯が集い、壮真は輿に乗り礼場に出御。端原豪政、下条達範ら家臣団が見守る中、壮真は新王政の頂点に立った。
壮真は旧体制の政治犯や捕虜に恩赦を与え、政府の秘書官代として雇用する寛大な措置を取った。
しかし、旧我氏の残党による反抗は続く。「兵匪の乱」「皇子神団の乱」が勃発し、麻生観察府長官培良俊昌が皇子神団により殺害される。
それでも、端原軍は次々と反乱を鎮圧し、新王政の権威を確立していく。8月、壮真は神征連合との間に**「蒼佐協定」**を結び、軍縮や保護国化などを要求。中央に覇権を握った壮真は、外交権をも手に入れ、盤石な独裁体制を築き上げた。
本年代記は、端原壮真大王の中央支配体制下で、各地の反乱と中北情勢の混乱、そして大王の死とそれに続く横田宗真の強権的な筆廷政治への移行を描いている。
1. 緒言:カリスマ的権威の形骸化と実権政治への移行
本年代記の記述は、端原壮真(以下、壮真)大王の統治末期における地方反乱の連鎖と、それらを背景とする中央内部の権力闘争、最終的に横田宗真(以下、宗真)筆廷による強権的な新体制構築に至る激動の時代相を提示している。壮真のカリスマ的権威が健在である一方、その実権的統治能力の限界が露呈し、結果として実務を担う有力臣下への権力分散と、壮真の死後の宗真による権力集中化がこの時代の最も顕著な特徴として看取される。
2. 地方動乱への対処と王権の相対化
2.1. 統治形態の分権化と「王領神法」の意義
「六神団の乱」を嚆矢とする諸反乱に対し、中央は軍事的鎮圧と並行し、『王領神法』の発布(9/8)を通じて統治形態の修正を余儀なくされた。この法令は、反乱の主因を中央集権化の弊害(「地域の実情に合った対応が困難」)に求め、代臣の権限拡大と税率緩和を定めることで、従来の中央集権体制の緩和、すなわち分権的統治を公的に追認した。これは、王権が全領域を直接統制する能力に限界を認め、地方統治の効率化を優先した現実的な選択であったと評価できる。
2.2. 粛清の論理と権威の装置化
奥知呂代臣上大年諌が勅命により斬殺された事件(3/6)は、この時期の権力構造の特質を鋭く示している。粛清の表向きの理由が「『公』呼びにしても指摘しなかった」という儀礼的な瑕疵とされた点は、政治的実権を掌握した者が、王の絶対的権威を装置として利用し、非情な粛清の大義名分を構築する論理を示している。諌が実際に専横を振るったか否かに関わらず、王の威光の形式的軽視が死罪の根拠とされたことは、王権の権威が実務統治の道具として相対化されていた事実を象徴する。
2.3. 皇子豪政の冷徹な帝王学
皇子端原豪政が反乱軍への対処法として示した言動(8/22)は、この時代の支配層に浸透していたリアリズムを体現する。すなわち、「勝敗が公儀を決定する」という論理に基づき、敵勢力の規模(五十名未満か否か)によって対応を変えること、また必要とあれば味方である軍主培良時久さえも切り捨てる姿勢は、非情な実利主義が帝王学として容認されていたことを示唆する。侍読の幸端頼月が豪政を「帝王の器」と評したことは、この価値観が中央重臣層の間で広く共有されていたことを裏付けている。
3. 横田宗真体制の構築と強権政治
3.1. 壮真の死を契機とする権力の集中
壮真大王の死(3/21)とそれに伴う王位継承問題(端原翔真 vs. 端原洞真)は、筆廷横田宗真による中央権力掌握の決定的な契機となった。宗真は、長縄晴政ら反対派を刺客によって暗殺し(3/30)、その実行犯を即座に処刑することで情報統制を図りつつ、反対勢力を排除する。また、壮真危篤時の大晦日の乱鎮圧(12/31)を通じて、軍事力を行使する武断派としての地位を確立し、新体制の基盤を固めた。
3.2. 経済・軍事における集中化政策
宗真が推し進めた政策は、壮真時代に是認された分権的統治を逆行させ、権力と富の再集中を目指すものであった。
財政統制: 日華の改革(12/28)による官僚の年俸や商業売上からの公税徴収の徹底、特定の廷臣家の財産所有制限、および仲価令(2/18)による商品取引価格の公定は、戦乱による経済混乱を統制し、中央財源を確保するための統制経済政策であった。特に宗真の出身氏族が優遇されたことは、政治的支配と経済的利益の結びつきを示している。
武力掌握: 供禁軍の定員化と小隊への分割、隊長への租税・公事の減免措置(3/28)は、王権直属の軍隊を宗真の管理下に置き、その忠誠心を経済的優遇によって担保する措置であった。これは、宗真体制の武力基盤を確立し、新体制を維持するための軍事・行政改革であった。
3.3. 粛清の連鎖と政治的対立の非合法化
本年代記を通じて繰り返される粛清(神場達也暗殺、裁明の乱、山羊沼茜による雪丸悠惨殺、宗真による長縄晴政暗殺など)は、この時代の政治的対立が非合法な暴力によって解決されることを常態化させていたことを示している。特に山羊沼茜の復讐は、公的な権力闘争が私的な復讐の領域にまで浸潤し、社会全体の倫理的・道徳的頽廃が進んでいたことを示唆している。宗真体制は、このような暴力の応酬の上に、より洗練された情報隠蔽と公的権威の濫用を通じて成立した体制であったと言える。
4. 結論:権力移行期における構造的暴力
端原中央帝国の権力移行期は、カリスマ的権威(壮真)が組織的権力(宗真)へと変質する過程であり、この構造的変革は、地方反乱、中央による謀略的な鎮圧、そして非情な粛清という形で具現化した。壮真大王の権威は、壮絶な王位継承問題と宗真の強権政治によって上書きされ、帝国は横田宗真という新たな実権者による統制的な中央集権体制へと移行した。この時代の暴力と謀略の連鎖は、支配体制の移行期において、公的権威が私的利益のために、いかに道具化され、構造的な暴力へと転化していったかを、雄弁に物語っている。
端原中央帝国における権力移行期(第五章~第八章)の構造的分析と歴史的意義
1. 緒言:カリスマ的権威の形骸化と実権政治への移行
本年代記の記述は、端原壮真大王の統治末期における地方反乱の連鎖と、それらを背景とする中央内部の権力闘争、最終的に横田宗真筆廷による強権的な新体制構築に至る激動の時代相を提示している。壮真のカリスマ的権威が健在である一方、その実権的統治能力の限界が露呈し、結果として実務を担う有力臣下への権力分散と、壮真の死後の宗真による権力集中化がこの時代の最も顕著な特徴として看取される。
2. 地方動乱への対処と王権の相対化
2.1. 統治形態の分権化と「王領神法」の意義
「六神団の乱」を嚆矢とする諸反乱に対し、中央は軍事的鎮圧と並行し、『王領神法』の発布を通じて統治形態の修正を余儀なくされた。この法令は、反乱の主因を中央集権化の弊害に求め、代臣の権限拡大と税率緩和を定めることで、従来の中央集権体制の緩和、すなわち分権的統治を公的に追認した。これは、王権が全領域を直接統制する能力に限界を認め、地方統治の効率化を優先した現実的な選択であったと評価できる。
2.2. 粛清の論理と権威の装置化
奥知呂代臣上大年諌が勅命により斬殺された事件は、この時期の権力構造の特質を鋭く示している。粛清の表向きの理由が「『公』呼びにしても指摘しなかった」という儀礼的な瑕疵とされた点は、政治的実権を掌握した者が、王の絶対的権威を装置として利用し、非情な粛清の大義名分を構築する論理を示している。諌が実際に専横を振るったか否かに関わらず、王の威光の形式的軽視が死罪の根拠とされたことは、王権の権威が実務統治の道具として相対化されていた事実を象徴する。
2.3. 皇子豪政の冷徹な帝王学
皇子端原豪政が反乱軍への対処法として示した言動は、この時代の支配層に浸透していたリアリズムを体現する。すなわち、「勝敗が公儀を決定する」という論理に基づき、敵勢力の規模によって対応を変えること、また必要とあれば味方である軍主培良時久さえも切り捨てる姿勢は、非情な実利主義が帝王学として容認されていたことを示唆している。侍読の幸端頼月が豪政を「帝王の器」と評したことは、この価値観が中央重臣層の間で広く共有されていたことを裏付けている。
3. 横田宗真体制の構築と強権政治
3.1. 壮真の死を契機とする権力の集中
壮真大王の死とそれに伴う王位継承問題は、筆廷横田宗真による中央権力掌握の決定的な契機となった。宗真は、長縄晴政ら反対派を刺客によって暗殺し、その実行犯を即座に処刑することで情報統制を図りつつ、反対勢力を排除する。また、壮真危篤時の大晦日の乱鎮圧を通じて、軍事力を行使する武断派としての地位を確立し、新体制の基盤を固めた。
3.2. 経済・軍事における集中化政策
宗真が推し進めた政策は、壮真時代に是認された分権的統治を逆行させ、権力と富の再集中を目指すものであった。
財政統制: 日華の改革による官僚の年俸や商業売上からの公税徴収の徹底、特定の廷臣家の財産所有制限、および仲価令による商品取引価格の公定は、戦乱による経済混乱を統制し、中央財源を確保するための統制経済政策であった。特に宗真の出身氏族が優遇されたことは、政治的支配と経済的利益の結びつきを示している。
武力掌握: 供禁軍の定員化と小隊への分割、隊長への租税・公事の減免措置は、王権直属の軍隊を宗真の管理下に置き、その忠誠心を経済的優遇によって担保する措置であった。これは、宗真体制の武力基盤を確立し、新体制を維持するための軍事・行政改革であった。
3.3. 粛清の連鎖と政治的対立の非合法化
本年代記を通じて繰り返される粛清は、この時代の政治的対立が非合法な暴力によって解決されることを常態化させていたことを示している。特に山羊沼茜の復讐は、公的な権力闘争が私的な復讐の領域にまで浸潤し、社会全体の倫理的・道徳的頽廃が進んでいたことを示唆している。宗真体制は、このような暴力の応酬の上に、より洗練された情報隠蔽と公的権威の濫用を通じて成立した体制であったと言える。
4. 結論:権力移行期における構造的暴力
端原中央帝国の権力移行期は、カリスマ的権威(壮真)が組織的権力(宗真)へと変質する過程であり、この構造的変革は、地方反乱、中央による謀略的な鎮圧、そして非情な粛清という形で具現化した。壮真大王の権威は、壮絶な王位継承問題と宗真の強権政治によって上書きされ、帝国は横田宗真という新たな実権者による統制的な中央集権体制へと移行した。この時代の暴力と謀略の連鎖は、支配体制の移行期において、公的権威が私的利益のために、いかに道具化され、構造的な暴力へと転化していったかを、雄弁に物語っている。
序論:西海の役とは何か
提供された内容は、ある架空の政変や戦役、すなわち「西海の役」に関する、極めて詳細かつ時系列に沿った戦記である。この記録は、印刷台府を盟主とする勢力と、中央政府(閣府)を擁する勢力との間で勃発した一連の軍事・政治的衝突の推移を「である」調で克明に記述している。本稿は、この膨大な記録を整理・分析し、戦役の構造、主要な出来事、およびその結末について論じるものである。この戦役は、単なる武力衝突に留まらず、裏切り、粛清、派閥争い、そして最終的な政権交代を伴う、複雑な権力闘争の様相を呈している。
Ⅰ. 戦役の勃発と初期の動向(8月1日~8月10日)
1. 同盟の成立と最初の戦闘
西海の役は、印刷台府が陰朝政府に協力を要請したことから始まる(8/1)。この会談において、陰朝側の畠岸知康が利害を分析し共同を承諾、ここに端原豪政と緑川一を両盟主とする「緑豪同盟」が正式に結成された。
しかし、この重要な会合はすぐに襲撃に遭う。机田満胤と下仕倉通が会議所を襲撃し、激しい乱戦「会議所裏門の戦い」が発生した。ここでは満胤が道田百氏に討たれ、その死を悟った下仕倉通が自害するという劇的な結末を迎えた。同盟軍は、翌8/2には麻生閣で下条達範・木帋翔雅らと陰朝軍が連合し、長池暠らを破る勝利を収めている。この戦いでの長池怜の成長が特筆されている。
2. 中央政府の対応と内紛
中央閣府は、印刷台討伐に向けた軍中合議を重ねる(8/4)。この中で、徴発や交易品の差し押さえが議決され、端原能真が布告を担当した。王族の資産回収も行われた。
中央軍は、家内亮盛率いる王宮観察府軍による中央観察府(籠城中の犬当年・中央昌春)への襲撃を試みる(8/5)。この「中央合戦」では、中央軍側が旗枝智則、飛竜院章教を失い、不利と判断し撤退した。この中央観察府との断続的な衝突は、中央政府内部の混乱を示すものであった。
3. 麻霧代臣家の混乱と政変
中央の印刷台討伐に際し、地方の麻霧代臣家は討伐加勢派と印刷台府協力派に二分する(8/6)。協力要請を受けた上大年和鷹と杉波則英は八色兼臣を通じて父八色則臣に働きかけ、印刷台方への協力を主張する。
これに対し、討伐加勢を主張する安念常正らを八色兼臣らが襲撃する「高田の変」が勃発。八色則臣の黙認の下、茂文・浄実以外の討伐派の主要人物は誅され、協力派が勝利した。彼らは林原兼文を新代臣に擁立し、印刷台府の承認を得る(8/7)。この事件は、西海の役が地方の権力構造にも大きな影響を与えたことを示している。
4. 北門典政の誅殺と中央軍の裏切り工作
外交的・政治的な動きとして、万英の乱の嫌疑が晴れた北門典政が、端原豪政への謝意を示すべく御殿を訪れた際、豪政の命を受けた長坂綱氏らによって誅殺されるという陰惨な事件が発生している(8/8)。
中央軍は、姉賀久康を総長とし、端原豪政の捕縛を狙う二手に分かれた作戦を立てる(8/9)。しかし、麻生閣での同盟軍との戦い(8/10)は敗北に終わる。さらに、印刷台を包囲した別動隊の中では、犬当衡が犬当年と内通しており、姉賀久康を斬り捨て、味方を恫喝して同盟軍に寝返るという大裏切りが発生する。これにより、窮地に立たされた端原豪政は体勢を立て直し、戦役の主導権は印刷台府側に傾き始める。
Ⅱ. 戦線の拡大と中央内部の亀裂(8月11日~9月18日)
1. 陰朝への攻撃と閣府の混乱
中央政府は、音信不通となった先行部隊の討伐兼捜索部隊を派遣する(8/11)。この部隊は端原豪真ら同盟軍の巧妙な待ち伏せに遭い敗北する。
中央閣府は陰朝への出兵を決定するが、湾内八海ら内神代臣の軍は、緑豪同盟軍との戦闘で勝利を収めつつも(8/13)、陰朝民間人の犠牲を巡る軋轢から、蒼佐繁賢が下条範養らの議員職・出仕権を取り消すという、内部の亀裂を生じさせる(8/14)。
蒼佐繁賢は、この戦役において強権を振るい始める。王宮観察府による中央観察府への再度の攻撃(8/21)は、霊殿遥刻が討たれ、王宮府軍が退却するという結果に終わった。
2. 東方観察府の動向と裏切り
東方では、亜郎神団との和睦交渉「参経和議」が行われる(8/26-27)。最終的に和睦は成立するが、神団は捕虜解放と引き換えに、軍主の寵愛する子孫培良胤明を殺害し、中央に対する牽制の意図を示す。この報復を主張する軍主培良時久に対し、腹心らは西海の役への集中を説き、報復は回避される(8/29)。
その後、東方観察府は中央からの離反を決議する(9/15)。培良昌航ら反対派は激しく反発し、九・一六事件と呼ばれる内紛が発生、霊殿公斉は殉死、培良昌航は亡命先で裏切りに遭い殺害される。東方観察府はここに「東南独居」へと転向した。
3. 閣府における粛清と繁賢の専横
中央閣府では、端原洞真大王の意向か、老臣である揉岡導火ら陰閣議員が誅殺されるという粛清が起こる(8/22)。
戦況は同盟軍優位に進む(8/24-25の穂木柄の戦い、中央軍の室家淳星が戦死し大敗)。敗戦を受け、蒼佐繁賢は抗戦規定を通達するが、これに反対した幸端頼憲、葉村瓜具、部能実興の三名の閣議員を職から解き、追放するという越権行為に出る(9/10-11)。
これに対し、王族の端原谷春が蒼佐繁賢を問い質し、厳しく責め立てる(9/12)。さらに筆廷救世和直が端原洞真に引き合わせ、洞真は繁賢の越権行為を咎める(9/13)。しかし、繁賢は王宮観察府の軍兵を借り(9/17)、端原谷春の邸宅を囲み、口論の末、谷春らを「誤って」殺害する(9/18)。蒼佐繁賢による専横と粛清は、中央政府の政治的混乱を極限まで高めた。
Ⅲ. 最終決戦と政権交代(9月22日~10月9日)
1. 中央軍の総力戦と再度の敗北
西海の役に出征中の蒼佐繁龍ら中央軍は、援軍を寄越さない政府に苛立ち、姉賀久誉を総長とする総力戦の規定を定める(9/22)。停戦派の隊員数名が見せしめに処刑されたことは、軍の士気の低さと危機的状況を物語っている。
蒼佐繁賢は、越権行為と谷春殺害により、ついに飛竜院諸方らの指示で包囲され、逮捕・投獄される(9/23-24)。
一方、蒼佐繁龍らは朝日代臣下条範舜に協力を求めるが、交渉は決裂し、範舜を殺害、街中で殺戮を行う「大安朝日惨事」を引き起こし、戦犯認定される(9/25-26)。
白犬斉俊の機略により同盟軍が勝利した高津・神能戦争(9/8)に続き、麻生閣では犬当衡の内通による奇襲「麻生閣打ち払い」が発生し、春澤繁範、姉賀久氏ら要人が死亡、中央軍はさらなる大敗を喫し、蒼佐繁龍は希望者の中央帰還を認めるに至る(9/9)。
2. 中央軍指導者の終焉と戦役の終結
戦況は完全に膠着し、中央政府は飛竜院諸方の進言により、王宮観察府の中央府攻撃を停止し、戦闘員を西海の役に徴発することを決定、休戦が成立する(9/28-29)。
そして、西海の役の最重要人物の一人である蒼佐繁龍は、丸養治則の内通により姉賀久誉らの奇襲計画が事前に漏れていたため、端原豪政暗殺に失敗し、ついに逮捕される(10/1)。
丸養治則は処刑されるが、これは道田百氏らの進言によるものであった(10/2)。翌日、逆臣蒼佐繁龍も処刑され、その首は市場に晒されるという見せしめとなった(10/3-4)。
3. 政権交代:神嵐聖王の即位
印刷台府の勝利は決定的となった(10/5)。中央閣府は、飛竜院教兼を使節として和平案を携えて派遣するが、道田百氏に撃殺され、交渉は決裂する(10/6)。
最終的に、木帋雅恒の進言により、大王端原洞真は退位し、閣府を去る。丑詰羽織がこの旨を麻生山嶺で告げると、印刷台員は歓喜する(10/7)。
端原豪政は中央に移動し、端原谷春の死を知り慟哭する。10月9日、端原豪政は三代神王「神嵐聖王」として即位し、ここに西海の役は終結し、政権が交代する。
Ⅳ. 新体制と残存勢力(10月10日~11月7日)
1. 神嵐聖王による新政
神王端原豪政は、蒼佐繁賢政権下で失脚した人物たちの復権を果たし、飛竜院諸方を人事官とする官吏改革を断行する(10/10-11)。
新体制の重要な動きとして、端原豪政は中央観察府に西海の役における戦犯の逮捕を命じる。家内亮盛ら王宮観察府の要人が連行され、印刷台討伐準備軍の逮捕も行われた(10/12-14)。
素原幸国の乱(10/19-21)が勃発し、鎮圧される。乱後、神王は下条範養に命じて英明軍を編成させ、元戦犯の旗枝友臣を参謀に任じた(10/22)。また、二軍六察体制が成立し、培良昌之が飛渡・素原代臣に任じられる(10/23)。
2. 旧王の逃亡と神征連合の動向
隠居していた旧王端原洞真は、杉波智尋の暗殺をかわし、一部の供禁兵の協力を得て幽閉所を脱出、神征連合方面に逃亡する(10/26)。
神征連合では、端原洞真の受け入れを巡る議論が起こる。共和派は受け入れに反対し、最終的に総裁郷口真浩らの閣議でも受け入れないことが決定される(10/28-30)。
共和派は元君公暗殺を計画し、実行するが、宝岡瓜基の誤射により暗殺が成功し、元君公が斬伏せられ、宝岡氏の謀反として処理されるという事件が発生する(10/31)。
3. 中央恭順と新たな火種
皇子神団が端原豪政に恭順を申し入れ、租税賦課を条件に赦免され、営業局役員に配属される(11/1-4)。神団は内部の反対派を誅殺し、完全に中央に帰順する(11/6)。
しかし、中央では、救世和直の賄賂問題で麻生府長官が解任され、和直自身も筆廷を罷免される(11/5)。
そして戦役終結後、最大の事件が起こる。服役中の蒼佐繁賢が警備監察事務局員を籠絡し、局長を殺害させ(時原事件)、多くの囚人と共に脱獄し、運送者を襲撃したのである(下崎事件)(11/7)。これは、西海の役後の新体制に、新たな混乱の種が蒔かれたことを示している。
結論:権力の流動と「役」の終焉
西海の役は、端原豪政を擁する印刷台府とその同盟勢力が、旧大王端原洞真を中心とする中央政府を軍事・政治の両面から打倒し、最終的に政権を奪取した一大権力闘争であった。戦役は、同盟の成立、地方の政変(高田の変)、中央軍指導者の裏切り(犬当衡)、中央閣府内での粛清と専横(蒼佐繁賢)、そして東方観察府の離反(九・一六事件)など、予測不能な展開を見せた。
特に、蒼佐繁賢による強引な権力掌握と、それに伴う端原谷春の誅殺、そして中央軍指導者蒼佐繁龍の敗北と処刑が、政権交代を決定づけた。端原豪政は神嵐聖王として即位し、失脚者の復権と官吏改革を断行したが、旧王端原洞真の逃亡や、宿敵蒼佐繁賢の脱獄といった新たな火種も残されている。西海の役は一応の終結を見たが、その後の政治情勢は依然として不安定であり、権力の流動は続くと予測される。
本年代記は、端原壮真大王の中央支配体制下で、各地の反乱と中北情勢の混乱、そして大王の死とそれに続く横田宗真の強権的な筆廷政治への移行を描いている。




