第1話: 召喚の夜、異世界の厨房へ
東京の夜は、ネオンの輝きと喧騒で溢れていた。佐藤遼、28歳。一流レストランの若きシェフとして、連日厨房に立ち続ける日々。ステンレスの調理台に映る彼の顔は、疲労で青ざめていたが、瞳だけは炎のように燃えていた。料理は彼の全てだった。客の笑顔、完璧な一皿へのこだわり、それが彼を突き動かしていた。
だが、その夜、運命は急転する。ラストオーダーを終え、厨房の片付け中に突然のめまい。視界が白く霞み、意識が遠のく。「過労か…?」と思った瞬間、身体が浮くような感覚に襲われた。次の瞬間、彼は光の奔流に飲み込まれた。
目を開けると、そこは闇だった。冷たく湿った石の床、鼻をつくカビと硫黄の匂い。遼の周囲を、青白い炎が揺れる燭台が取り囲んでいる。頭上には、黒曜石を彫ったような荘厳な天井。明らかに現代日本ではない。「ここ…どこだ?」と呟く声が、広い空間に反響した。
「ようこそ、異邦人よ」低く、威圧的な声が響く。声の主は、黒いローブに身を包んだ長身の男だった。顔はフードに隠れ、目だけが赤く光る。遼の背筋に冷たいものが走る。「俺は…死んだのか?」
「死んではおらぬ。貴様は我らが主、魔王アズラエルの命により、この世界に召喚された」男はローブを翻し、名乗る。「我は魔王軍幹部、暗黒魔術師ヴォルド。貴様に課せられた使命は一つ。魔王の誕生日を祝う『魔王の宴』にふさわしい料理を作ることだ」
「料理?」遼は呆然と聞き返す。頭が混乱していた。異世界、魔王、宴? まるで小説のような話だ。だが、ヴォルドの冷ややかな視線に、冗談ではないと悟る。すると、突然、頭の中に声が響いた。
《料理神の加護が発動しました。貴方はあらゆる食材を分析し、完璧な調理法を導き出せます》
「な…何だ、これ?」遼は頭を抱える。声はさらに続ける。《食材の特性、味、栄養、呪いの有無を瞬時に解析。調理器具の最適化、調味料の配合を自動提案。貴方の料理は、人の心を動かし、時に奇跡を起こすでしょう》
ヴォルドが不機嫌そうに舌打ちする。「その『加護』、我が魔術で与えたものだ。感謝せよ。さあ、厨房へ案内する。準備期間は1ヶ月。失敗すれば…」彼は意味深に笑い、首を切る仕草を見せた。「魔王の怒りは、死よりも恐ろしいぞ」
連れられた厨房は、遼の想像を遥かに超えていた。広大な石造りの空間に、魔法で浮かぶ光球が暖かな光を投げかける。巨大なオーブンからは赤い炎が揺らめき、棚には見たこともない食材が並ぶ。赤く脈打つトマトのような果実、青い炎をまとった鶏の卵、まるで宝石のような紫のキノコ。遼の心が、恐怖を忘れて高鳴った。「これは…すげえ!」
試しに、青い炎の卵を手に取る。瞬間、頭に情報が流れ込む。《炎鶏の卵。高温で焼くと甘味が増し、低温ではスパイシーな風味。呪い無し。最適調理法:スクランブルエッグ、塩0.2g、バジル風味》遼は笑みを浮かべた。「よし、やってみるか」
彼は手早く卵を割り、魔法オーブンの火加減を調整。現代の技術ではありえない、完璧な温度制御が直感で分かった。バジルに似た異世界のハーブを加え、フライパンで滑らかにかき混ぜる。厨房に、甘くスパイシーな香りが広がった。
「何だ、この匂いは!」厨房の隅にいた魔王軍の兵士たちが、鼻をくんくんと動かして集まってきた。獣のような耳を持つ者、鱗に覆われた者、皆が目を輝かせる。遼は出来立てのスクランブルエッグを皿に盛り、差し出した。「食べてみろよ。どうだ?」
兵士の一人が恐る恐る口に運ぶ。次の瞬間、彼の目が見開いた。「う、うまい…! こんな美味いもん、初めてだ!」他の兵士たちも我先にと群がり、皿は瞬く間に空になった。遼は苦笑しつつ、胸の奥で達成感が広がる。「やっぱり、料理は人を笑顔にするな」
だが、喜びも束の間。ヴォルドが冷たく割り込む。「ふん、雑兵を喜ばせた程度で満足か? 魔王アズラエルの舌は、そう簡単には満足せんぞ」彼は一通の手紙を投げつける。「これを読め。魔王の好みが記されている」
遼が手紙を開くと、そこには簡潔な記述。「魔王アズラエル、極端な甘党。甘いデザートを好むが、その事実を知る者は限られる。公表すれば死」。遼は唾を飲み込んだ。甘党の魔王? 冷徹で残虐と噂される存在が? だが、この情報は料理の方向性を決める鍵だ。頭の中で、チーズケーキやティラミスのレシピが浮かぶが、異世界の食材でどう再現するか…。
「1ヶ月で魔王を満足させる料理を作れ。失敗すれば、貴様の命はない」ヴォルドの言葉が、厨房の暖かな空気を切り裂く。遼は拳を握りしめた。恐怖と興奮が交錯する。現代での過労死寸前の生活を思えば、この異世界は新たな挑戦の場かもしれない。だが、失敗は死を意味する。絶対に負けられない。
その夜、遼は厨房の片隅で一人、食材を眺めながら考える。魔王の宴とは何か? なぜ自分なのか? 遠く、城の最上階から響く不気味な咆哮が、夜の静寂を破った。遼の心に、決意と不安が渦巻く。「魔王アズラエル…どんな奴なんだ?」
次回予告: 遼は魔王城周辺の危険な森へ、伝説の食材「黄金の果実」を求めて出発する。だが、そこにはモンスターと謎の女剣士が待ち受ける。果たして、遼は食材を手に入れ、魔王の宴への第一歩を踏み出せるのか?