窓
大学進学を機に、私は大学の近くにあるアパートに引っ越した。
築三十年。五階建ての五階の部屋。エレベーターがないからか、家賃は安く、駅まで徒歩十分程度。
初めての一人暮らしにしては、上出来だと思っていた。
最初に違和感を覚えたのは、引っ越しから四日目の朝だった。
寝室の窓が、少しだけ開いていたのだ。
ここの窓には網戸がないから虫が入ってこないように寝る前にしっかり閉めて鍵もかけたつもりだった。
でも、窓はほんの少し開いていた。
「気のせいだったかな?」
自分にそう言い聞かせて、その日は学校へ向かった。
だが、翌朝もまた、窓は少しだけ開いていた。
しかも、前日よりも微妙な開き具合だった。
昨日の夜はしっかり窓を閉めて鍵もかけた記憶がある。
でも、ガラスがぴったりと合っていない。
建物が古いからかとも思ったが、寝る前にはぴったりと合っていたはずだ。
その日から私は、夜寝る前に窓を撮影して記録するようになった。
鍵の位置、ガラスの合わせ目、外の風景。
全部を写真に残す。
それでも、次の日の朝にはやはり、窓はわずかに開いている。
誰かが夜中に入ってきている?
でも、こんな小さな窓の隙間から入ることは不可能だろう。
五階の部屋に入ってくるとしたら玄関からぐらいしか考えられないが、玄関の鍵もチェーンも異常なし。
部屋の中に、何か変化があるわけでもない。
窓がほんの少し開いていること以外、何も変わらない部屋を私はただぼんやりと眺めた。
一週間が過ぎたころ。
部屋の空気が妙に重いことに気づいた。
窓を開けて換気をしても、どこか湿っていて、冷たい。
夜中、眠っていると物音で目が覚めた。
コン、と壁を叩くような音。
水道の蛇口が、一瞬だけきゅっと回る音。
玄関の方で、誰かが深呼吸しているような気配。
「誰?」
勇気を振り絞って声をかけても返事はなかった。
電気をつけたらいつも通りの自分の部屋に変化はなく、早く寝てしまおうとベッドに潜り込むとまたコン、と壁を叩くような音がする。
隣の部屋から叩いているのではなく、この部屋の中から壁を叩いているような音だった。
でも、この部屋には自分しかいない。
物音がするのは気のせいだと自分に言い聞かせながら朝になるのをじっと待つしかなかった。
ほとんど眠れないまま朝になった。
朝になると何事もなかったように部屋は静まり返り、閉めたはずの窓がほんの少しだけ開いていた。
友人に相談しようかと思ったが、バカにされそうでやめた。
代わりに、ネットで「部屋 幽霊 窓 少し開く」などと検索してみた。
すると、ある古い掲示板の書き込みがヒットした。
【実体験】窓が少しだけ開く部屋に住んだ人いませんか?
引っ越して数日後から、窓が1mmずつ開いていって……
3ヶ月後、目を覚ましたとき、誰かがベッドの下から覗いていました。
その人の顔は……自分とそっくりでした。
私は即座にブラウザを閉じた。
そんな馬鹿な、と震えながら笑ってみたが、笑いは喉の奥で止まった。
それから数日間、カーテンを閉めっぱなしにした。
もう窓を見たくなかった。
何かが外から見ているような気がしてならなかった。
夜、寝つけずにスマホを見ていると、ふと画面が一瞬だけ真っ暗になった。
映ったのは、自分の顔と、背後にあるもう一つの顔だった。
悲鳴をあげそうになるのを耐えて恐る恐る振り返ってみた。でも、誰もいない。
「誰……?」
静まり返った部屋の中から返事はなかった。
翌朝、ついに私は覚悟を決めて、窓を完全に開け放った。
カーテンもすべて取り払った。
部屋の空気が、明らかにざわつくのを感じた。
窓のサッシには指の跡があった。
指の跡は細く、長く、湿っていた。
管理会社に電話をした。
窓の不具合を訴え、見に来てもらえることになった。
私が窓が勝手に開くと訴えると業者の男性は首を傾げてこう言った。
「この部屋……もともと、窓は開かない設計なんですよ」
「え?」
「入居時の説明を忘れて開かないって相談は時々ありますけどね」
「どうゆうことですか?」
と私は思わず聞き返した。
「この建物、もともと自殺者が出てて。二度と同じことがないように、窓に外から固定ロックつけたんです。入居の前に確認しませんでした?」
ほら、と男性は窓を開けようとしたがガタガタ音がするだけで窓は一ミリも開かなかった。
その夜、私は部屋を出た。
荷物もほとんど置いたまま、逃げるように友人の家へ転がり込んだ。
しばらくして、管理会社の人から電話が来た。
「様子を見に行ったが、部屋には誰もいない。ただ、ベッドの下に何かを見た作業員が、体調を崩して入院した」
と、管理会社の人も困惑していた。
数年経った今も、あのアパートは事故物件には登録されていない。
しかし、夜になると、ときどき思い出す。
あの、窓のずれ。
あれは、今になって思うと、誰かが入ってくるためではなく、部屋の中から出てこようとしていたのかもしれない。