警告色
『ここから先は、従業員以外の方は立ち入り禁止です。』
A4用紙に赤い文字で印刷された警告の張り紙が、両開き扉の左右両方に1枚ずつ、両面テープで留めてある。
わたしは空のコンテナを乗せたカートを後ろに回し、片手で両扉の間をそっと押すと、できた隙間に体を押し込んでカートごと通過した。
店舗倉庫の中は朝と比べるとずいぶん蒸し暑くなっていた。納入業者の人たちは朝早くに仕事をすませてしまうので、昼の納品がくるまではシャッターもろくに開かず、空気のめぐりも悪い。
折りたたんだ状態の空コンテナを回収用のスペースに積み上げて、少し抵抗が軽くなったカートを転がしていく。
まだまだ商品の詰まっているコンテナが、4、5階建てのマンションのようにシャッター近くで積み上がっている。今ここに残っているのは、掃除用品とか雑貨とか、周りの環境、特に暑さに左右されないものばかりだ。
少し前は冷凍と冷蔵が必要な食品、次いで化粧品と医薬品が優先的に品出しをすべきだったけど、うちのドラッグストアは最近になって生鮮食品の導入に力を入れていて、今ではそいつらが最優先の位置に割り込んでいる。しかも納入する時間帯も不安定なので、スタッフのわたしたちは業者の人が来たら、なるべく早めに対応しなければいけない。
「咲田さーん、コンテナあとどのくらい残ってますぅ?」
カートをぶっつけられたドアが思いきり開かれる音と、不快感を隠さない軽い調子の声が店舗倉庫中に響く。
「うわっ、相変わらずあっついですね、ここ、何度なってんの、もう」
ドアが閉まりきらないうちから不満を言いだし、私は思わず隙間からお客さんに聞こえていないか確認してしまう。
「水瀬さん、あとここにあるもので全部です。4回ぐらいで、いけるんじゃないんですか」
「うええ、重そうなやつばっかり。ちょっと水分補給してからいきますね」
5歳年下のアルバイトである水瀬さんは、ここで1年半ほど一緒に仕事をしている間柄だ。でも相変わらずこの口調には慣れない。店長の話だと、さすがにお客さんの前では鳴りを潜めるようになったらしいけど、たまに水瀬さんが接客をしている所を見ると、なんとなく気になってしまう。
水瀬さんは空になったコンテナを重そうに積み上げ、終わったらカートをその場に放置して事務所に行ってしまった。
人の気配が消えた店舗倉庫で、わたしは短くため息をつく。
見た感じ、わたしの半分ぐらいしか出していないじゃない。わたしだったら確実に2回か3回で終わるのに。水分補給だって、さっきも行ってたはず。そんなに毎回毎回補給する必要なんて、あるの?
……ああ、最近はどうもこんな感じだ。頭の隅っこに追いやっていた不平不満が、ため息をつくと埃のように舞いあがって広がっていく。ストレスが溜まっていると言われればそうかもしれないけど、まあこの程度のこと、働いていたら避けられないだろう、気にすることは無いと自分に言い聞かせる。
わたしは昔から我慢強いし、どんな所でも今まで人並み以上にやれてきた。水瀬さんや山倉さんに比べれば、わたしのほうがこの職場では強い。だから、わたしが張り切ってやるべきなんだ。
中身が詰まったコンテナの群れにカートを移動させると、わたしは腰のあたりに気合いを入れながら、一番上のコンテナをゆっくりと持ち上げた。
「……というわけで、すまないけれど今週のシフト、咲田さんは山倉さんの代わりに3日分入ってもらえるだろうか」
わたしがシフト通りの業務時間を終えて帰宅しようとしていた直前に、店長に呼び止められて、シフトの変更を告げられた。
「えっ、3日間、ですか? 山倉さんは大丈夫なんですか」
「うーむ、鼻血はすぐに止まったらしいんだが、どうも以前から貧血気味だったようで、3日間ほど休ませてほしいと連絡があったんだ」
思わず、ふっ、と息が漏れた。
貧血? 貧血で三日間も?
「応援も頼みたい所だったんだが、今週はすでに黒田君が来てくれる予定なんで、これ以上は厳しいんだそうだ。10連勤になってしまうが、やってくれるだろうか」
「わかりました、大丈夫です」
考える前に言葉が出た。
店舗から出る前に、少し涼しくなった店舗倉庫でスマートフォンのスケジュールアプリを開く。ここ最近のカレンダーにはあまり予定がなく、スカスカだ。休む予定だった日にも、大した予定は無い。ただ目覚ましの設定を変えるだけだった。
「聞きましたよ。山倉さん、3日も休むんですねぇ」
いつの間にか、私服姿になった水瀬さんがわたしの近くに立っていた。片手には、水滴の付いたスポーツドリンクを持っている。
「そうなんですよ。どうも、前から貧血で体調が悪かったらしいんですけど」
「鼻血出してた所、あたし見てましたよ。レジで突っ立ってうつむいてて、そのまま鼻血がポタポタ落ちてたんです。文句言ってたおっさんもビビってましたよぉ」
なんとなく楽しそうに話す水瀬さんに眉をしかめながら、わたしはレジでクレームを受ける山倉さんを想像した。
店長の話では、感謝デーのポイントカード倍率が反映されていないとかで、中年の男性とトラブルがあったとのこと。山倉さんは山倉さんなりに、必死に説明しようとしてたらしいんだけど、男性の怒鳴り声に気圧されて黙ってしまい、あげく鼻血をだして早退、そのまま病院に行ってしまったそうだ。
小刻みに震える山倉さん。左耳にこっそり着けているイヤリング。レジの台に点々と落ちていく、赤色。
「まったく、あんなふうに鼻血が出せると便利ですよねぇ。鼻血とはいえ流血沙汰になったら、店長も必死に対応せざるを得ないじゃないですか」
水瀬さんの言葉で、わたしの意識は想像から店舗倉庫に戻された。
「それで、咲田さんが代わりに出て10連勤になるわけでしょ。割に合わないと思いません?」
「そんなことありませんよ。わたしは正社員だし、できる限りフォローしてあげないと」
「いやー、さすが次期店長候補さんですねぇ。わたしは正社員、無理かなぁ。どうしよっかなー」
そんなことを喋りながら、水瀬さんは扉を押し開けて店内へ入っていく。
ため息は出なかった。
わたしもスケジュールの変更を終えて、ちょっと店内で買い物をしようと扉に近づいた時、横にあった温度計が目についた。
熱中症対策として、去年から店舗倉庫に設置されたアナログ式の温度計。半円の90度から少し左に傾いた位置で細長い針がピタリと止まっていた。円の外周には緑、黄、赤と色がついていて、その上に5刻みで数字が並べられている。
これなら誰でもわかりやすい。今は緑のゾーンに針がある。熱中症の危険は少ないということだ。黄は注意すべき温度、そして赤は危険な温度、警告を示す色だ。
ふと、山倉さんの顔が脳裏にちらつく。
鼻血。そういえば、わたしは鼻血なんか出したことなかったな。子どものころは多少あったかもしれないけど、記憶にある範囲ではないはず。いや、鼻血だけじゃない、怪我や病気で血を流したことなんて、今までにあったっけ?
まったく、あんなふうに鼻血が出せると便利ですよねぇ。
頭の中で水瀬さんの声がよぎる。
「わたしって、色が付いていない温度計なのかな」
妙にふんわりとした感想を、思わずつぶやいていた。
どこからが安全で、どこからが危険かわかりにくい温度計。わたしの針は、もしかしたら黄色のゾーンあたりでぶるぶると震えているのかもしれない。わたしが何らかの理由で赤色のゾーンに行ってしまったら、どうなってしまうのだろう。それこそ半円の右端、180度の位置まで、一気に振り切ってしまうんじゃないだろうか。
額から汗が流れ落ちて、わたしはようやく店舗倉庫に残る蒸し暑さの感覚がよみがえった。
馬鹿なこと考えてないで、さっさと買い物をすませよう。
涼しい店内に入り、まずは頭痛薬のコーナーまで足を運ぼうとした。
その時に山倉さんが鼻血を出したというレジを通ったのだけど、偶然、レジの人目につきにくい箇所に、血が付いているのを見つけてしまった。おそらく店長がふき取り忘れていたのだろう。
レジがちょうど空いていたので、わたしは自分のポケットティッシュで掃除することにした。
白地の台に、目立つ赤色。ティッシュに消毒用アルコールを吹きかけて、それをぬぐい取る。白い紙に包まれた赤色を、わたしは見もせずにゴミ箱へ入れた。
暑い。まるで店舗倉庫がサウナみたいだ。熱中症特別警戒アラートが出ているだけある。
いつも通りにこなしている品出しの業務が、今日ばかりは大仕事だ。いまだに高く積まれている中身の入ったコンテナと対峙して、思わず深いため息が出る。
……そういえば、今日は水瀬さんを店舗倉庫で見ていない。本当に品出ししてるの? 気のせいかな。でも応援に来ている黒田君のほうが、よっぽど働いているんじゃない? 店長は今日休みだし、今ごろ家の中でのんびり涼んでるんですかね。
頭の中に渦巻く嫌な考えと、こめかみのあたりに響く頭痛が交互に襲ってくる。今日は朝から頭痛薬を飲んだけどあまり効いていない。飲み物も水じゃなくて、ちゃんとした経口補水液か何かにしておくべきだった。
まあ、今さら後悔しても仕方がない。こんな暑さはそうそう続くものじゃないはず。今日と明日を乗り切れば連勤も終わる。がんばろう。
わたしは重いコンテナをカートに乗せて、涼しい店内へのドアを押し開ける。ちらりと見えた温度計の針は、すでに赤色のゾーンに入っていた。
いつも通りの作業だ。いつも通りの作業を淡々とこなすだけ。そんなことを頭で繰り返していた時点から、わたしの無意識は危険信号を発していたのかもしれない。体に異変を感じたのは、三段目のコンテナに詰め込まれていたお菓子類を陳列しようとした時だった。
なんだかお菓子の袋に重さを感じる。筒状のケースに入ったポテトチップスを最上段に置くだけで、やけにしんどい。上を見ていた顔を元の位置に戻すと、少しふらついた。いつの間にか、まぶたに汗がたまっている。
まずい。これは熱中症の初期症状なんじゃ。
最初はそう思った。でも、もうそろそろ片付きそうなお菓子のコンテナを一目見ると、鞭のような言葉が頭に飛び込んでくる。
大丈夫、大丈夫。これとあと一つのコンテナで終わる。水分補給は店舗倉庫に戻ってからでいい。事務所に行く前にちゃんとしたスポーツドリンクを自販機で買っておこう。
コンテナの底に残っていたお菓子の袋を掴み取り、顔を上げた。その時、奥の突き当りにある生鮮食品のコーナーに、水瀬さんがいるのに偶然気がついた。
水瀬さんは制服の下に隠れているズボンのポケットから、ペットボトルを取り出した。そしてそのままキャップを開けて、堂々と口へ運んでいる。
一気に頭のてっぺんを、熱い血が駆け巡った。
はあ? 水分補給は、事務所の中でやるようにって決まりだったよね? なに、店内に持ち出してんのよ。いくら熱中症特別警戒アラートが出てるからって、いい加減にしてよ、もう。
わたしは深く息を吸って、これまでで一番大きな溜め息を――。
――。
――出ない。
なぜか、溜め息が出てこない。
吸い込んだ空気が、ずっと胸の中で止まっている。
苦しい。声も出せない。
わたしは胸を抱え、その場に座り込むことしかできなかった。
周りがやけに静かだ。反対に、頭と胸は太鼓のようなリズムが激しさを増していくばかり。全身が破裂しそうな恐怖感に襲われる。
やばい。本当にやばいことになった。誰か。
とっさに水瀬さんがいる方を向いたけれど、もうその姿は見えなくなっていた。
誰か、誰か気付いて。どうして誰も気付いてくれないの。今のわたしはこんなに辛いのに。血が出ないとわからないのか。赤い血を流さなければ、誰もわたしに気付いてくれないのか。
なんとかしようと思って、わたしはポケットの中を探り始めた。しかし、中にはペンとハサミしか入っていない。それでも、なんとかしなければ。
ふと、自分の手首に青い血管が浮き出ているのに気がついた。心臓と同じように、この血管も大きく脈をうっていて、今にも破裂しそうに見える。
血、血を、出さなきゃ。
わたしはハサミを取り出し、手首の血管にむかって刃を――。
「咲田さん、大丈夫ですか!」
男の人の声が聞こえた。
そのすぐ後に、わたしは両肩を掴まれて、ハサミを床に落とした。
「咲田さん、黒田です、わかりますか? 気分が悪いんですか?」
顔を上げると、青い制服を着た黒田君が目の前に座っていて、わたしの目をじっと見つめていた。
反射的に、大丈夫、と言おうとした。
でも、今のわたしには声が出せなかった。
「顔が真っ赤だ。熱中症かもしれない。救急車呼びましょう! 水瀬さん、山下さん、救急車をお願いします。何しているんですか、早く!」
黒田君が指示をした後、二人分の慌ただしい足音が遠ざかっていく。
「僕、飲み物とってきます。咲田さんは横になってて下さい! あとこれを、冷たく感じるやつなんで、少しは暑さが和らぐかも」
わたしはやや大きめの、タオルのような白いハンカチを黒田君から受け取った。手にした瞬間、ひやりとした感覚が手から伝わってくる。
走ってどこかへいく黒田君をぼんやりと見送った後、さっきまでの苦しみが、ほとんど無くなっている事に気がついた。顔中に吹き出ていた汗が、あごの先から滴ってきたので、わたしは白いハンカチを広げて顔に当てた。
冷たい感触が、顔全体を覆いつくす。気持ちが良かった。しかしおかしなことに、わたしの胸の底では、先ほどまで感じていた苦しみとは、まったく別の感じがする苦しみが、喉からあふれそうなぐらいに湧き上がってきている。
気がつくと、わたしは溜まっていたものを白いハンカチに向かって吐き出していた。息、声、そして涙。反響して自分の耳に届く声が、まるで別人みたいだった。顔に押し当てたハンカチが、あっという間に湿っていく。
「咲田さん」
嗚咽の合間に、黒田君の静かな声が聞こえた。
「これ、経口補水液です」
白いハンカチからわずかに目を出してみると、透明な液体の入ったペットボトルが置かれていた。
「咲田さん、もうすぐ救急車が来ますからね。もし今日で回復しても、明日は休みましょう。シフト表ちらっと見ましたけど、咲田さん連勤してるじゃないですか。明日休んだって誰も文句言う人、いませんよ」
胸の苦しみが、今度は熱い何かに変わったようだった。
顔を覆っていた白いハンカチを、少しだけ離して、じっと見つめてみる。
白いハンカチには、何の色もついていなかった。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。