2話 記憶にない
気を失ったあと、流石に夢なのではと思うようになった。
アーサーがあんなにも……あんなにも、甘い男だなんて聞いてない! 正直、誰⁈ あんなアーサー、公式で一回も見たことないけど⁈
アーサー・フォーゲルという男は手段を選ばない男だ。それこそ人を殺したことはないが、追い詰めたことはある。さらには法律の隙間を掻い潜っては犯罪スレスレのことをやることも多い。そのせいで正義を絶対とするファンからは嫌われ、逆にそのようにギリギリを攻めるような場面や頭の回転が速い場面も多かったため一部のファンにはとても人気なキャラクターであった。
私の場合は彼の頭の回転が速いところも好きだが、何よりも自分の目標に向かって努力をしたところが好きだった。犯罪スレスレを攻めるということは法律もしっかり学んできたということだし、貧民時代の自分と同じような思いを他の民にしてほしくないからさり気なく民を助けるシーンもあったし、結構怖い見た目をしているのに猫が好きで、自分にも他人にも厳しくて、公爵まで上り詰めた経緯は少し汚いけどその努力は間違いなく彼が頑張った証拠だ。たまに見える優しさなどのギャップにやられるファンも多い。私もそのうちの一人だった。
だけど、あんなに愛しい目をしながら手の甲にキスをするような男だとは思わなかった……!
真希は再度、自分の頬をつねったが痛覚がある。いや、正直推しを前にして正気でいられるわけがないから夢のようにふわふわとしたような感覚がある。でも、間違いなく今の自分は“レイラ”だ。井ノ原真希、という人物はこの体の中にしか存在しないのが感覚でわかる。
“レイラ”の記憶が引き継がれているからなのか、アーサーが私に向けてくれた態度というのは素直に嬉しかった。今までの人生で、レイラと私もあのように扱われたことは一度もない。それと同時に、自分の推しということもあって混乱を抑えることはできない。
(これから、どうなるんだろう)
自分がいた世界とは違う。
何よりも不安なのは、井ノ原真希の体はどうなってしまったのだろう。
今までにみてきた転生ものを思い出すと死んだか、あるいは魂の入れ替わりか。
死んだのであれば色々な後悔が出てくるが、魂の入れ替わりだったとしても不安だし、何より罪悪感がある。もし“レイラ”が“井ノ原真希”として生きていかなければならない場合、彼女にどれだけの負担と絶望を味わせてしまうのか考えたくもない。
ようやく最悪な家から出て、公爵家に嫁ぐことになれたレイラには間違いなく幸せな未来があっただろう。アーサーの態度を見れば、それは一目瞭然だ。
なんだかそれらを考えると、わたしが一番の悪役になってしまうのではないだろうか。
アーサーにも申し訳ない気持ちになる。あんなにも幸せそうに、愛しい目で見つめてくれた。でもその目は“レイラ”に対してだ。“井ノ原真希”に対してではない。
「本当に、どうなるんだろう」
「あら、目が覚めましたか?」
思わず肩が跳ね上がった。なんの気配もなかったのに、部屋の隅にいたらしい。寝たきりで考え事をしていたから視界に入らなかっただけといえばそれだけだが、急に聞こえた声にびっくりするのは仕方のないことだろう。
「アーサー様は仕事に出かけてしまいました。レイラ様も一晩眠っていたので、アーサー様も心配しておりましたよ。この後朝食……というより、お昼にはなってしまいますが、お部屋で食べますか?」
「……そうします」
声をかけてきた人物は、レイラの専属侍女であるマリアだ。
アーサーの命令で専属侍女になったマリアはテキパキと仕事をこなし、最初に目を覚ました時に声をかけてきた人物も彼女だった。
あっという間に朝食の準備を終えたマリアはテーブルにセットし、椅子に座るようにと促した。
ベッドから降りて椅子に座れば、美味しそうな香りが鼻をくすぐる。フォークを手に取り、美味しそうなフレンチトーストを刺して口に運べば卵やバターの味が広がり、じんわりと甘い蜂蜜が舌を満足させる。
食後の紅茶まで飲んだところで、マリアが話しかけてきた。
「レイラ様、何かご不便などはありませんか?」
「いえ、特には……」
「それは何よりです。今晩、アーサー様は帰宅できるようなのでお迎えしましょう。前回はレイラ様が倒れてしまったので仕方なくネグリジェ姿ではありましたが、今回はちゃんとドレスも用意しましたので!」
「……わかりました。ありがとうございます」
にこやかに笑いながら話すマリアは、どこか楽しそうにしていた。ここにいる使用人たちは“レイラ”が来たことを歓迎している、ように見える。
こういうのって大体、余所者が来たことで虐められたりするものを想像してしまいがちだけど、今のところそういう様子は見られない。レイラが来たばかりの時も甲斐甲斐しく世話をし、被害による傷を見ても引くことはせず、丁寧に手当てもしてくれた。
レイラの記憶もあるからか、心からの信用はまだできない。けど、昨日のアーサーを思い出すと顔が熱くなってしまう。
(まだどうなるかわからないというのに……)
昨日、自分はもう前の自分に戻れないことは感覚的に理解をした。井ノ原真希という人物だった自分に戻ることはできない。
仕事はどうなるのか、家に置いてあるあれやこれはどうなるか、連載していた漫画や小説の最終回はどうなるのか、といったくだらないことに対して不安と後悔が出てくるけど、こればかりはどうしようもない。
それよりも、やはり気になるのは自分の体がどうなったのか。何事もないことを願うばかりだ。
(この世界で生きることを、覚悟しないと)
そこで思わずため息を溢してしまった。
ここの世界での現在軸が原作と比べてどのくらいの差があるのかわからないし、そもそも“レイラ”の立ち位置もわからない。いや、アーサーの嫁になるのはわかるけど原作にどれだけの影響があるのやら……。最終回に後ろ姿しか出なかったことを思い出すと、そこまで影響はなさそうだけどアーサーに与える影響が、原作に響いてしまいそうで怖い。
私が“レイラ”として生きていかなければならないのはわかっている。なのに、いまだに現実を受け止められない。
本来なら混乱して狂ってしまってもおかしくないのに情緒を保てているのは不思議だった。いくら自分がオタクで、推しに好きと言われてみたいと願ったとしてもそれが現実になったところで理解に苦しむのは当然だ。なのに不思議と、すんなりと受け止めている自分もいる。状況的に混乱が収まることはないけど、今後のことを受け入れる気は自分にあるみたいで、なんだか気持ち悪い。
マリアは一礼したあと、部屋を出て行った。好きに過ごしていてください、と言われたけど何をすれば良いのだろう。
原作ファンとはいえ、この世界の細かいところは私にもわからない。多分、舞台は西洋だとは思うけど……この作品は、現代とは全く違う。いわゆる近代で、連絡手段は手紙や言伝。交通手段も主に馬車で、機関車が普及している地域もあるけど駅までは結局馬車に乗らなければならない。それに、着るものもドレスやスーツなどといったもので、楽に着用できるパジャマやスウェットなど存在しない。
改めて、現代とは全く違う世界であることに落胆する。
そして何より、今後のアーサーとの関係はどうやっていけば良いのかわからない。彼がなぜ“レイラ”に対してあのような目で見つめていたのかもまだわからないし、“レイラ”の記憶にもアーサーとの記憶は全くない。それこそ、自分の家が商談をする時にアーサーの名前があったくらいで、二人で会話した記憶など存在していなかった。
「……寝よう」
さっき起きたばかりだけど、記憶が混濁しているのか疲れがどっと押し寄せてきた。何もできることはないし、このまま寝てしまっても怒られないはずだ。
ベッドに横たわり、目をゆっくりと閉じる。
夢は見なかったが、これからの不安があるが故に深い眠りにつくことはなかった。