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糸切り歯

作者: 吉川れーじ

『糸切り歯』  吉川 れーじ


 彼女が雨野あまのとヤッたらしい。直接聞いたわけじゃないからあくまで〝らしい〟。そんな事僕にはどうだっていいけど、どうだってよくない、知らない方が良かった事も世の中には沢山ある。着色料の原料が虫だとか、マーガリンはプラスチックだとか、まぁ知ったところでどうしようもないんだから、最初から知らなくたって良かった。そういう話は嫌でも耳に入ってくる。この白絲川しらいとがわの町はそんなに広くない。


 一、篠宮しのみや 華緒かお


 中学二年の夏に東京の調布から篠宮華緒は転校してきた。背は平均より少し高く、細く伸びた腕と足が、どこか〝東京〟を感じさせる。柔らかそうな髪は茶色がかった黒色で、肩より少し下まで伸びていて、全体的に軽く李流りりゅうがかかっている。目鼻立ちも美麗で、ありきたりな例えだが人形のようだった。同じ制服を着ているのに彼女の体の輪郭だけが少し光っていて、『これが正解だ。』と言わずとも知れる着こなしを見せる、見事な女の子だった。

 この小さな町では保育園や幼稚園から中学まで、ほとんどの子どもが一本道で進んでいく。知らない同級生などいるわけもなく、皆が皆それなりにつるんでいる。

「おい、お前ら聞けよ〜今日からうちのクラスに新しく入ってきた篠宮さんじゃ。篠宮さん。」

「はい…。東京から来ました、篠宮華緒です。わからない事だらけで迷惑をかけると思います…よろしくお願いします。」

「そげにかしこまらんでええんよ、みんなに迷惑かけりゃええ。」

「はい。よろしくお願いします。」

 クラス中が騒つく。そりゃそうだろう、とびっきりカワイイ女子が来たのだ。田舎町をたまたま通りかかった真っ赤なスポーツカーのエンジン音に、ついつい振り向いてしまい『カッチョいい…。』と言ってしまうのと同じだ。

「ほんなら今日は全員おるけ、ついでにお前らも自己紹介していこうか。」

 全員が一人ずつ自己紹介していく、こういう時僕はツイてない。僕の席は窓側の一番うしろ、このままいけば最後だ。何か締まる様な事を言わなければならない雰囲気だけがクラスに充満していくのがわかる…とても不愉快極まりない…

「次、京介きょうすけ。」

「京介最後じゃけ〜なんかおもろいこと言うで。」

 雨野はいつも余計だ。

「うるせぇんじゃ。」

「京介。ええからはよう自己紹介せぇ。」

 自分の番が終わって安心しきった全員と、先生とよく知らない女子の視線が、僕の心臓の音を煩くしている。

「あ、はい。えっと…菊川京介きくがわきょうすけです…。」

「は?それだけ?」ノータイムでボケれると思うなよ。クソ雨野が。

「ああ〜〜えっとぉ〜……。」

 脳がチカチカと光るのがわかる。閃きの電気信号をそのままに感じる。

「あとで吉備団子きびだんご食わせちゃるけぇ、ほしたら篠宮さん?も、僕の家来やでな。クラスのみんな僕の家来じゃけ、困ったら鬼でもなんでも任せてくれりゃぁええ。」

 うん。まった。よくやった中二の京介。

 一瞬の静寂も許さず、矢継やつぎ早にヤジが飛ぶ。

「誰が家来じゃ!」冗談じゃが。

「おもんな〜。」いや、冗談じゃが。

「しらけるわ〜。」いや、小洒落た冗談じゃが。

 我ながら桃太郎伝説を上手く使った歓迎小話かんげいこばなしが出来たと、今でも自負している。中学二年の少ない脳みそにしては、〝高度な冗談〟だったと後に華緒も言っていたので良しだ。

 その〝高度な冗談〟を聞かされた当の本人は、絵に描いたような苦笑いを見せた。親の仕事柄、転校に慣れている様子で、この半端な田舎の白絲川しらいとがわに来るまでに何度も転校を繰り返したお陰か、はたまたその美麗な顔立ちのお陰か、クラスに馴染むのもそう時間はかからなかった。それどころかひと月も経たないうちに彼女は学校の重力の中心になった。

 この平々凡々で陰鬱いんうつな町にやってきた〝特別な女の子〟は弾力のない日々を過ごす餓鬼達の、退屈しのぎには格好の的だった。それ故に皆が皆、篠宮華緒を欲しがり、彼女もまたそれに応えようとしている風に見えた。篠宮華緒は一見すると、とても優しい人に見える。けれども転勤族の性なのか、良くも悪くも深い人間関係を築くことは無かった。どれほど皆に好かれ楽しげに言葉を交そうと、華緒は深層心理のさらに奥深い部分を、いつまた引っ越すかもわからない生活の中で、それこそもう二度と会う事もないかもしれない〝他人〟に見せるはずもなかった。

 僕はそれが妙に憎かった。こんな町どうだっていいけど、どうだってよくない。少なからず僕が過ごしてきた十四年間は平々凡々でも、大きな事件や災害もなく生きてこられた。この白絲川の町を、この町に住む人を〝好き〟でも〝嫌い〟でもなく、ただなんでもない〝通過点〟としか見ていない華緒の八方美人な態度が、このクラスの全員がお嬢様の道楽に踊らされている様な気がして、僕は悔しかった。終点に到着するまでの退屈な電車旅のなかで、普通電車に乗った事を後悔するかのような振る舞いが。各駅に停車する度に窓の外を眺めるでもなく、ただ目を瞑って『あぁ、早く走り出さないかな…。』とため息交じりで吐露とろしてしまいそうな慎重な言葉遣いが。たまたま停車した〝白絲川駅〟で何かトラブルがあってなかなか電車が発車しない事に苛立っている様な勉強熱心な態度が、僕は憎かった。憎くて羨ましかった。いや、羨ましくて憎かったのかも。

 ちなみに〝白絲川駅〟などない。白絲川に電車は通っていない。ちょうど山の向こう側に線路は通っていて、白絲川の町だけが切り離されている。本当にこの町は不便に思える。話が脱線してしまった…電車だけに…。

 とにかく僕はアイデンティティという言葉を知らないままに、自分のアイデンティティを守るために立ち向かわなくてはならなかった。それ故に篠宮華緒との衝突、戦闘、抗争、闘争、ありとあらゆる対立を避けては通れない事を覚悟した。突如この白絲川に襲来した使徒、〝シノミヤ〟から町の人々を、家族を、友を、平和を守らなければならない!と、僕は本気で思っていた。そして〝使徒殲滅しとせんめつ星一号ほしいちごう白絲川しらいとがわ作戦さくせん〟の計画を雨野と企てる事となる。



 二、アニメじゃない


 雨野とは保育園から一緒で、家も近所だから仲良くなるほか無かった。ただ仲が良いというよりかはどこか心根の部分で、似ていると感じていた。雨野も僕もお互い以外の深い友達を作らなかった。作れないわけじゃない、実際クラスでハブられたりする事も無かったしむしろ中心にいたと思う。不良でも無ければガリ勉でもない、ただの馬鹿だった。作戦名を考えたのも雨野だ…致命的にダサい…雨野はいつも余計だ。

 〝使徒殲滅しとせんめつ星一号ほしいちごう白絲川しらいとがわ作戦さくせん〟その内容は〝篠宮華緒の生態調査、並びに周囲に及ぼす影響とその対策の考察〟である。篠宮華緒について調べた上で、結果的によくあるヒーローの解説図みたいなものを雨野と僕は作るつもりだった。つまり雨野も僕も本当は単純に、特別な女の子に興味があったのだ。というのも華緒が転校してきた日から、僕はずっと興味がないフリをしていた。転校生をチヤホヤするヤツらも、他のクラスの野次馬も、心底気持ちが悪かった。僕が転校生ならそんなのすぐにやめてほしくて、誰でもいいからとりあえず一人ボコボコに殴ってしまいそうだな。とかなんとか色々理由をつけてはみたが、結局のところミーハーなヤツだとレッテルを貼られたくなかった。雨野にも、もちろん篠宮本人にも。

 女子は流行や新しいものに敏感だ、『東京では〇〇が流行ってる。』とか『昨日テレビで〇〇が出てた。』とかそんな話を延々としている。くだらない、いや流行や新しい物事はむしろくだる。問題はこの町とそういう〝きらびやかなモノ〟は無縁だと言うことに、まだ気付けない人々である。この町は遅れている、電車も避けて通るような運の無さからも、それはみて取れる。きっとみんな気付いてるのに気付かないフリをしている、だから必然的に外界に目がいくのは容易に理解できる。ただ、この町を変えるために最も必要で、大切な事は〝この町の中から発信する事〟である。発信できる事を見つける事である。この町の発展を望むなら、必要不可欠だ。僕はこの町なんてどうだっていい、でもどうだってよくない。だから今更〝篠宮華緒〟などという〝通り過ぎて行くもの〟に必要以上に食いつく理由もなければ、そのつもりもなかった。

 それを察してか雨野の口からも〝篠宮華緒〟の話題が出る事は無かった。暗黙の了解とでも言うのだろうか。学校中で〝篠宮華緒〟の話を、耳にタコができるくらい聞かされてウンザリしていたのもあるだろう。ただそれだけではない。心のどこかで、僕も雨野も篠宮華緒の恐るべき力に、薄々気付きつつあったのだと思う。本当は近付いてはいけない事を、その時から知りつつあったのだと思う。それから少し時間が経った中二の冬の頭、静かに寒空が降りてきて皆カーディガンを羽織るようになった。篠宮華緒の話題は絶えず耳に入ってはくるものの、ゆっくりではあるが周囲は平常に退屈な日常へと戻ってゆく。隣町の帰黒かえりくろにできたパンケーキ屋さんがどうとか、大通りのビデオ屋が潰れてコンビニが出来るらしいとか下らない話題も飛び交い出した頃、〝篠宮華緒〟について最初に口を開いたのは雨野の方だった。

「なぁ、京介さぁ。」

「なんよ。」

「篠宮っておかしいでな。」

「なんじゃそれ、なんでそう思うんなら?。」

「なんでって…。あいつ見とったら時々胸騒ぎゆうんか、なんか変な感じがする。」

「雨野…お前それいわゆる恋じゃろ…。」

「違うわ!あいつはなんか…危ない感じがするんじゃ。」

「なんやようわからんな。」少しわかる。

「だってあいつ、いつも笑っとるでな。」お。

「まぁ、いつも楽しげやな。」

「知らんとこに引っ越してきて、京介やったら楽しいけ?」いい質問だ。

「知らんけど、確かに少し変なヤツじゃなぁとは思うよ。」

 雨野は馬鹿だが勘がいい。僕が思っていた事をそのままに感じている。でも気持ち悪いので、話は合わせない。同い年の男同士が同じ気持ちなんてゲボ吐きそう。うぇ。

 僕はある提案をし、雨野をコントロールする。

「ほんならさ、篠宮ゲームやろうで。」

「どんなゲームよ。」

「篠宮を先に泣かせた方が勝ちじゃ。お前も泣き顔見てみたいじゃろ?。でも暴力はなしじゃ。女に手あげたら親父に殺される。」

「ほんならどうするんなら。」

「それを考えるのがゲームじゃろうが!。阿呆。」雨野の頭を軽く小突く。

「いて。ほうかほうか、わかった。んなまずは篠宮の事二人で調べようで。」

「ええな。なんかワクワクするわ。」

 こんなひょんなことから、雨野と僕の共同研究がはじまった。最初は篠宮華緒の身長体重、髪の色や瞳の色、住んでいる場所や登下校のルートといった生物的な情報をあの手この手で記録していった。華緒は花屋のノワールの隣のアパートに家族三人で住んでいて、僕と雨野の家から学校までのちょうど間くらいだった。ストーキングだけでは飽きたらず、作戦は第二段階へ入る。つぎに仕草や言葉、表情や趣味嗜好しゅみしこう人生遍歴じんせいへんれきなどの内面的な情報の調査に移った。そうなると遠巻きに見ているだけでは分からない事の方が多かったので、雨野と僕は対象と接触するようになった。研究という名目ではあれど、次第に篠宮華緒本人と言葉を交わしたり、自然と本人から聞き出すことができた情報も沢山あった。いつのまにか『おはよう。』と言われれば『おはよう。』と返してしまったり、(あれ?)学校から家の途中まで一緒に帰ったり、(あれれ?)中三に上がる頃には休みの日に、学校近くの公園で三人笑って話すくらいの仲にはなっていたと思う。(あれれれ?)いつしか雨野と僕は〝篠宮を先に泣かせた方が勝ち。〟などという下らないゲームの事も忘れていた。僕たちはただ青春に身を任せて、その風の赴くままにイノチを燃やしていた。

 中学三年の六月、梅雨ど真ん中の頃。唐突に〝使徒殲滅星一号白絲川作戦〟どころか雨野と僕の〝今まで通り〟の関係までも終焉を迎える。

 その日は午後から雨で、傘を忘れた僕は雨足が弱まるのを、ざあざあと音の響く下駄箱で雨野と二人で待っていた。ケータイをぼーっと見ていた僕に、雨野の張り詰めた心の弓から、もやもやした矢が、地面を低く這うように放たれた。

「…京介ごめん。俺、篠宮の事好きじゃ。」

 なぜ彼が謝ったのか、僕はわからない。

「はぁ?。なんよ急に。」

「…本気なんじゃ。」

 だからなんだと言うんだ。僕に許可を取る必要があるのか?。困惑して黙る僕に、雨野は恐る恐る二投目を放った。

「京介…お前篠宮の事、どう思っとるん?」

 頭がクラクラしてきた。

「…最初は変なやつじゃと思うとったよ。今でも変じゃけど。」

「そうじゃのうて…好きかどうかじゃ。」

「はぁ?。なんでそんな話になるんなら。第一にお前が華緒の事好きって話じゃろうが?。」

「篠宮は、お前の事が好きなんじゃって…。」

 雨野はいつも余計だ。

「じゃけぇ…もし京介が篠宮の事、なんとも思うてないんなら…俺に譲ってくれ…!。」

 それは僕の問題ではない。

「京介、頼む。篠宮は今日、お前に告白する言うとった。じゃけぇ…。」

「…あんなぁ!」情けない雨野に嫌気がさした。何本矢が放たれようと、痛くも痒くも無い、ただ黒いもやもやがどんどん大きくなる。それを止めるには、声をあらげてさえぎるしかなかった。

「…お前あん時、華緒の事おかしいって言いよったけど、今のお前のほうがおかしいでな。人間をゆずるとか、譲らんとか。華緒は誰のもんでもねかろうが。」

 雨野は黙ったまま目も合わせようとしない。

「情けないのぉ…雨野。お前だけは同じ人間じゃと思うとったんじゃけどなぁ…気分悪い。帰る。」

 一度振り返らないと決めたら、僕は二度と振り返らない。ある意味これは才能だと思う。蔑んだ相手に、後ろ髪を引かれて情がうつる人間は所謂いわゆる優しい人間だが、カッコ悪いし弱いヤツだ。雨の中、ぐんぐん走って家まで帰る。その道中でさっきの会話がぐるぐるぐるぐるとループする。その度に体が重くなっていくような気がした。後ろ髪を引かれているわけではない。多分学ランが雨で濡れて水を吸ったからだと思う、でもセンチメンタルな気持ちに細かい理由はいらない。今は浸りたい気分なのだ。LET IT BE(ほっといてくれ)だ。

 家に着くや否や、ばあちゃんの怒号が飛ぶ。

「京介!あんたまたそんなびしょで!誰が廊下拭くと思いよん!」

 ごめんばあちゃん…マジでごめん。

「ごめんって…風呂行く…。」

 僕はばあちゃんが好きだ。きっとばあちゃんも僕が好きだ。それは一緒に暮らしてきて感じる事であって、まだまだ知らない事だらけの華緒に当てはまるかどうかなんて、僕にはわからない。ましてや華緒みたいな特別な人間が、僕みたいなクソ人間を好きになって、それを雨野みたいなクソ・オブ・クソ人間に譲るとか譲らないとか、もっとわからない。はたして十四、十五そこらの餓鬼が出せる答えなんだろうか。

 僕は馬鹿だ。もっと早くに気付くべきだった。雨野の口ぶりからするに、きっと華緒は何度も雨野に僕の事を相談していたんだと思う。雨野はいつも余計だ…、だから僕の事を包み隠さず話していると思う。雨野しか知らない事も…多分きっと…。

 僕が一歳になる頃に母親は亡くなったらしい、今は親父とばあちゃんと暮らしている。だから僕には母親の記憶が全くない。親父から写真を見せられて、何が好きで、どんな考え方で、どういう人だったかを聞かされた所で『あぁ…親父は母親に心底惚れてたんだなぁ…。』程度にしか思えなかった。菊川千鶴きくがわちづる。それが母親の名前で写真を見る限りではそこそこ美人で、命日と僕の誕生日が同じ事くらいはちゃんと覚えている、けど遠く薄い記憶の母親を敬愛するなんて、なかなかに難儀なんぎだ。

 亡くなってから十年以上もたったのに、それでもまだどこかで親父もばあちゃんも〝千鶴さん〟を探している。小学生の頃、僕が絵だか作文だか何か下らない賞を取った時、仏壇に向かって『ちづ、見てやってくれ。』と親父は一度も目も通さずに置いた事を、僕は忘れない。誕生日のたびに『ちづ、見てるか?。』と親父は言い。『京介大きくなったでな。ほれ、何歳なったかちづるに言うといで。』とばあちゃんは言った。親父の人生の全ては〝ちづ〟であって、千鶴さんから生まれた僕はあくまで〝オマケ〟であると感じている。僕が感じている限り、それはホンモノの出来事だ。たしかに僕は愛されている、母親がいないというだけで、同級生やその親にも、担任の先生や近所のおじさん、おばさん。パン屋のお姉さん、駄菓子屋のおばあちゃん。みんなから優しくされて育てられた。でも、そんなものに触るような優しさなど僕は欲しくなかった。ただ一人の普通の母親の愛情、その一つだけが僕はほしかった。

 千鶴さんはわざわざ僕の一歳の誕生日に、わざわざ首を吊ってわざわざ死んだらしい。表向きには事故死になっている。遺書には『私はどうやっても、母親にはなれませんでした。ごめんね。』とだけ書いてあったらしい。実際に読んだわけじゃないから〝らしい〟。そんな話知りたくなかった、でも家族だから知らなくちゃいけない。そんな決まりなんてないのに、僕は生まれながらにして〝千鶴さんの分まで生きなければならない人生〟のレールの上を走らされている。それはどうしようもない変えられない事だ。だからなんとも思わないし思えない。足掻あがいても、もがいても、苦しんでも、のたうち回って駄々をこねても無駄な事を知っている。悲しみは人の為でなく、自分の為に使わねばならないと、僕は自分で決めている。だからよく知らない母親を悲しんだり、祈ったりなんてしない。考えるのを止める事が一番良い方法なのだ。なんの?。心の平穏を保つ為に決まってる。そんな僕の心根の暗い部分や、母親の死因まで知っているのは、クソ雨野だけだ。

 いつからだろう…華緒が僕を気にかける様になったのは…三人で話すようになったとき?。いや、もしかするともっとずっと前、そう…。あの日、雨野が初めて「篠宮って…。」と口を開いた時、もう既に華緒と雨野は知り合っていて、『京介くんと仲良くなりたいんだけど…。』とかなんとか言ってたのかもしれない。いや、自惚れすぎか。最初の自己紹介の後…本当に吉備団子を食べさせた事で、家来になってしまった…?。阿保か、わしわ。考えるだけ無駄だ、もう既に術中じゅっちゅうにハマっている。

 やられた。ずっと研究していたはずの研究対象も研究者で、その研究対象は僕だったのだ。これが篠宮華緒の恐ろしさなのかもしれない。華緒は自分が手に入れたいものを、必ず手に入れられるほどのスペックを持っている。だからといって、何故僕なのだろう…?。何故今日なのだろう…?。お風呂場に雨音が響いている。湯船に浸かろうが、身体中洗おうが、すっきりするはずもない。頭を開いて中をざぶざぶと、洗いたい気分だ…。

 まだ八時ごろだったと思う。風呂から上がり夕飯を済ませた僕は、電気もつけず、自室のベッドに横になって、センチメンタルな気持ちに、ブーストをかけていた。雨野の『今日、告白する言うとった。』がチラつく。鬱陶うっとうしい。そして電話が鳴る。画面に映る名前にため息をついてしまうが、僕はやっぱりどうしても出てしまう。

「はい。」

「もしもし、京介くん?」

「なん?」

「今日、なんで先に帰ったの?」

「べつに、いつも帰る約束なんかしとらんで。」

「う〜ん。まぁいいけど。今から会えないかな?」

 来た。面倒くさい。

「…雨やでたいぎなわ。風呂も入ってしもうたし。」

「そっか…じゃあこのまま聞いてほしい。」

「…なんよ。」

「さっき、雨野君に告白された。」

 え、なにその話。思ってたのと違うんですけど…。

「付き合ってほしいって。」

「…ほうか、で?」

「どうしたらいいと思う?」

「知らんが。好きにしたらええが。僕とお前は関係ないんじゃけぇ。」

「華緒はね…。京介くんが好き。」

「…。」

 来るとわかっていて構えていても、心は〝ジェンガの後半戦〟の様にぐらぐらと揺れる。なんだよ…雨野の話と僕の話を、セットにすんなよ。『京介君が断れば、雨野君の方に行くよ。』と言っているのと同じだ。銃を突きつけられてる気分だ。突きつけられた事なんてないけど、たぶんこんな感じだろう。雨野に対しての苛立ちが何故か華緒に向いている。さっきのもやもやのナイフはまだ手に持っていて、くうに振り回したところで、何か解消されるわけではない。みんな一度は思ったことがあるだろう、初めて刃物を手にした時、何でもいいから刺してみたくなるものだ。その切っ先が今、華緒に向いている。申し訳ないけれど僕はそれほど器がデカくない。今にもその刃が華緒の柔らかな肌にぷつりと穴を開け、そこからぬるりと冷たい銀色が入っていき、黒にも見てとれる暖かな赤色が、とぷとぷと流れ出てくるのが想像できる。

 僕は悲しくなる。雨野という一人の男の言葉に、これほどまでに心を乱されている事に。華緒という一人の女に、弱い相手にしか怒りの矛先を向けられない〝情けない自分〟を思い知らされた事に。己の心の弱さを隠す為に、必死にこれまでやってきた努力が全てしたと、僕は悟った。自分のアイデンティティを守る為に始まった〝使徒殲滅しとせんめつ星一号ほしいちごう白絲川しらいとがわ作戦さくせん〟の結果は〝自己のアイデンティティ崩壊〟いや、正確に言うと〝雨野と篠宮によるアイデンティティ破壊〟によって失敗に終わった。

 雨野に対して情けないと言い放った僕自身も、多分同じかそれ以上に情けない。あの時の言葉は、きっと自分自身にもブーメランしていたと思う。それでもあの情けない雨野がチラチラと頭によぎる度に、『アレよりはマシだ。』と僕の自尊心がなげく。アレと華緒が付き合う…?いやいや、ないだろうそれは。ありえないし、ありえてはいけない。良くも悪くも華緒は〝特別な女の子〟だ、僕が彼女に対して感じている薄い嫌悪感や悪魔的な印象は、あくまでも想像の中の世界での話だ。僕の脳内のくだらない、アニメチックな世界の中での華緒は、エヴァで言うところの〝使徒〟であり、GANTZで言うなれば〝シノミヤ星人〟であり、うしおととらで言うところの〝白面ハクメンモノ〟であり、ガンダムで言うところの〝ジオン〟…は少し違うな。とにかく敵でありながらもどこかかれてしまう、悪役ならではの良さがあるのである。そういう意味では篠宮華緒の事を、僕は『好き。』と胸を張って言えるだろう。『愛している。』、『君がいないと夜も眠れない。』、『君がいない世界など、意味がない。』とも言える。だがそれは、僕が生きているこのなんの変哲も無い、つまらない不便で陰鬱で平々凡々な白絲川で、唯一の〝混沌の根源〟だからだ。退屈な日々から脱却するための〝救いの道具〟だからだ。僕は彼女を手放したくなかった。クソ雨野と華緒のつまらない日常アニメを、この先傍観(ぼうかん)している自分を考えると、とてもじゃないが耐えきれない。一話で切るどころか、オープニングさえ観てられないだろう。『ちょう目が肥えたアニメオタクの僕に、よくもこんな低クオリティクソアニメを見せて、貴重な時間を、一秒でも無駄にしてくれたな。』とクレームの電話でもしてやれる。それなのに、何故だか〝負け〟の様に感じている自分がいる。僕はただただ悔しかった。友達と特別な人を天秤てんびんにかけて、どちらかしか手に取れない状況に、自分の意思でなく文字通り〝立たされている〟事が。その二人が僕を除け者にしてひっつくなど許せない、それにきっと後悔すると思う。

 ––––だから僕は…。

「僕も華緒が好きじゃ…。」

 ––––嘘をついた…。

『好き』もよくわからないのに、華緒と雨野がひっつくのが気に入らないという理由だけで、この先、嘘をつき続けなければならなくなってしまった。僕は馬鹿だ。こんな弱々しい僕を知られてしまったら、きっと華緒にも『嘘だと言ってよ、京介!』と言われてしまうだろう。『ポケットの中の戦争』のアルの言う通り、僕は怖くなったから嘘をついたんだ…なにが?。孤独だろうきっと。


 三、「菊川京介!。イノチ削ります!。」


 白絲川の町には文字通り〝白絲川〟が存在する。冬には、糸で編んだ人形を川に流す〝糸切いときまつり〟があって町の人々はとても大切にしている。町の大人たちは人形をもう一人の悪い自分に見立てて流す事で悪縁を断ち切り、次の糸切り祭までの一年間の無病息災を願うのだそうだ。若人わこうど達の間ではそれぞれの人形同士を一本の糸で繋いで流すのが流行っていた。恋人同士はもちろんだが、片想いの相手に見立てた人形を勝手に作ってぐるぐると雁字搦がんじがらめにする狂信的な人もいた。親父はその祭事に使われる特別な糸を紡ぐ仕事もしている。白絲川の住人は、皆糸で操られているんだろうきっと。

 そんな〝糸切り祭〟の当日。朝かけた目覚ましのスヌーズに苛立ちながら、至福の二度寝から目を覚ます。寝惚け眼のまま、洗面台の鏡の前で「めんどくせぇ〜…。」と独り言を零し、顔を洗って歯を磨く。学校へ行く支度をしながら、学校をサボる事を決めた。いざ学校をサボるとなると何故だかやる気が満ち満ちてきて、自分はなんでもできる超人のような気がしてくる。高校二年になっても相変わらず僕は馬鹿だ。だらだらとTwitterを見ていると、突然携帯が鳴る。びっくりして思わず出てしまう。

「はい。」

「京ちゃん?なんしよるん?」

 華緒からだ。

「今さっき起きた、なんもしよらんで。お前こそなんよ。」

「もうお昼前やん、いつまでたってもお寝坊さんやなぁ。」

 すっかり白絲川の言葉に染まっている。それは僕のせいでもある。

「いちいち電話してきてから、ばあちゃんみたいなこと言うな。ゆうかお前学校じゃないんけ?。」

「…う〜ん。今日は休んどう。」

「なんでや?。」

「ちょっとね。」

「ほうか…糸切りは?いかんのけ?。」

「京ちゃんと行きたかったんよ、華緒は。」

「悪い…糸切りん川流かわながしの間は、親父の手芸屋大忙しじゃけぇ手伝わなおえんのよ。」

「知っとうよ。毎年えらいね。ほやけん一人で行こうかなぁ思いよる。」

「ほうか、帰黒かえりくろからもようけ人が来るけ、気をつけりよ。」

「…ありがとう。なんよ今日の京ちゃん優しいやん。」

「うるせぇわ、お前も川に流されりゃえんじゃ。」

 ––––いつからか、気付けば

「なんじゃ〜。いつもの京ちゃんじゃが。つまらんね〜。まぁほんならおじさんによろしくね。」

「おう、ほんならまたの。」

 ––––華緒と僕が重なっている。

「あ!。京ちゃん。」

「なん。」

「京ちゃんの分の人形さん、華緒が流してもいい?。」

 ––––こんがらがってほつれた心が。

「あぁ、ええよ。お前まさかじゃけど、糸繋いだりしとらんじゃろうな…?。」

 ––––するりと解けていくのを感じる。

「〜♪。ほんならね〜。」プツ。

 もともと同じ人間だったのが二人に分かれて、遠くの違う世界で生きて死んで、生まれ変わってまた生きて死んで、何度も何度もそれを繰り返していくうちに、同じ人間だった事を忘れたまま、また僕らは出会って一つに戻ろうとしている。そんな気がする。僕と華緒の人形は糸で繋がっている、そう確信したのは、華緒の鼻歌まじりで話す薄紅色うすべにいろの声色から読み取ったわけではなく、僕がそうであってほしいと願うようになったからだ。僕は華緒に必要とされる事で、また自分のアイデンティティを取り戻したのである。華緒が奪ったはずの僕のアイデンティティを、ちゃんと華緒自身が元の位置に返してくれた。心は〝貸し借り〟できるのだ、僕は愛されることで、ちゃんと人を愛することができるのかもしれない。

 夕方から親父の店で手伝う約束になっている、祭り当日は祭りまでの準備に比べればそんなに忙しくはないのだが、観光客用に糸人形を販売していて、外国人も多いので若人の手を借りたいのも頷ける。僕も全く分からないが、手伝いに来てくれる近所のおじさんやおばさんに比べれば、偏見や拒否反応は少ない。言葉の壁はややこしいのだ。気付いたら夕から晩にかかっていて、糸切りの川流しの時間をとっくに過ぎていた。一瞬だけ『華緒のやつ、ちゃんと人形さん流せとうかいな…』とか考えたりしたが齷齪あくせくと働くうちに、ふと気付けば人の波が川から流れてきて、今年もまた糸切り祭が終わったんだなぁと少し寂しくなった。その夜、華緒から連絡が来ることは無かった。

 祭りの次の日は午前中の授業は休みになる、それどころか子どもは外出も出来る限り控えるようにと、変わった習わしが今でも顕著けんちょに守られている。なんでも人形さんは明るいところで見られるのが恥ずかしいらしい。そんなわけあるか。多分子供たちが流れ損ねた人形を取ろうと、川に落ちて流されるのを危惧しているのだと思うが、少し大袈裟だろう。昨日の疲れはあれど、華緒に祭りの話を聞きたかったので、学校に向かった。が、教室に華緒の姿はなかった。少しだけ、ほんの少しだけ胸騒ぎがした。

 同じクラスの靖彦やすひこがニタニタ笑いながら近づいてくる、どうせくだらない噂でも仕入れたんだろう。

「なぁ京介。お前知ってるん?。」ほらきた

「何をぉ?。」

 どうせ誰々と誰々が付き合ったとかなんとかそんな話だろう?。

「篠宮が雨野とヤッたって話。」

「はぁ?。冗談にならんで、それ以上やめとけよ。」

「え、お前ら別れたんと違うんけ?。昨日の糸切りの夜、おいのツレが見たんじゃ。二人がチューしとうとこ。(笑)」

「おいヒコ、笑えんっちゃ。なんぼお前でもくらわすで?。」

「いや、ほんまなんじゃて。阿紫花あしはな(ばし)の下で仲良さげにしとった。そのあとラブホに入っていくんも見とったげや。それにしても浮気やこ、酷やでな…ヤリマンじゃったとはのぉ…。まぁあの女、顔だけは美人やけ、男やこ選び放題じゃし。どうせ今までも色んな男とヤッとるでな。」

「おのれ…!!!!!。」

 思い切り靖彦の鼻めがけて、固めた拳が飛ぶ。ニタニタと笑っていた口がひしゃげて、唇を噛んだのか少し血が滲んでいる。涙目になりながら床に寝そべったまま靖彦は強く続けた。

「…痛ッッ…。ほんまのことじゃろうが…!。お前もとうとう本性表したのぉ…!。やっぱりお前は鬼の子じゃあ!。」

「ヒコ!。ほんに(本当に)殺すどおのれ…!。」

「お前の家族もお前を好いとうヤツらも、みんな狂うとるわ!。お前の母親が、わざわざお前の誕生日に首吊って死んだんもとっくにみんな知っとるわいや!。気色の悪い家じゃ!。」

「…!」机も椅子も外野の制止もなにもかも邪魔だ…こいつだけは殺す…。

(京介やめろ!)(落ち着け!)(靖彦も!)

 クラスの男子が抑えつける

「離せや!。」

 女子は引いてるのがわかる。

「なんじゃお前ら!。」

 こんな時でも案外冷静なんだなぁ。でもこいつだけは…こいつだけは絶対殺す。

「おい、京介。情けないのぉ…!。」

 聞いたことがある。あぁそうか、遠い昔に自分が吐き捨てた言葉だ。やっぱりブーメランしてきた。しかも大ダメージだ。靖彦のターンはまだ終わらない。

「なんであげな美人がお前みたいな鬼と一緒におるかわかるか?。可哀想じゃけぇじゃ。あわれじゃけぇじゃ。でもおいは違うど!。母親にも篠宮にも捨てられて。ざまぁみぃや!。ええ気味じゃわぁ。(笑)」

「…やかましいわ!。家のことも華緒のこともよう知らんくせに…ごちゃごちゃごちゃごちゃ抜かすなや!。」

 自分で言っていながら、その言葉に芯がない事が分かって、格好が悪い。虚勢をはる気力はあれど心がなんとか叫んでいるだけで、靖彦が言うことの方が何倍も正しく完成されて見える。

 僕が靖彦に殴りかかろうとしたその時。

「なにしとんじゃおのれらッ!。」

 担任の森が割って入る。倒れた机や椅子、教室中に散乱した筆記用具。怯える女子や、緊迫した男子の顔。床に寝そべり睨めあげる靖彦と、それをバツの悪い顔で、上から見下ろす僕。誰がどう見ても、僕が靖彦を殴った事は一瞬でわかる。でもそれを見ていた周りも僕自身も、割って入った担任でさえもが、ちゃんと分かっていた。靖彦の勝利に揺るぎなかった。

 職員室の隣の応接間おうせつまに呼び出された僕に担任は言った。

「はぁ…京介…靖彦が何を言うたかは知らんけど、あんまり気にせんでよか。お前の気持ちはわかる。今日はもう帰ってええから。な。」

 担任は僕を叱らなかった。たぶん叱れなかった。殴ったことについても何も触れなかった。やっぱり僕は普通に叱られたり、怒られたりする権利を持ってないんだなと自覚した。この町にまともな大人なんていない。いるのは僕に対して過敏に過剰に反応する人間か、僕の存在を完璧に認識してない人間だけだ。僕の何が分かる?。僕はお前の事なんて何もわからないのに。

 僕は自室のベッドに横になり、Tom Scottの『Say You Love Me』を聴きながら今日起きた事と、母親の事と、華緒の事と、雨野の事と、自分の事を延々と繰り返し考えていた。考えざるを得なかった。ほんとは考えたくなんてないんだけど、考えずにはいられなかった。僕は気付かされてしまった、この町を陰鬱で退屈にしてしまったのは、他でもない千鶴さんと千鶴さんの残した僕だ。それまで平々凡々に思えた白絲川の町が突如、狂気に満ち溢れた害悪な町に見えた。そもそも陰鬱の表面下にどろどろと渦巻く、どす黒い混沌があったのだ。この町は最初から〝おかしかった〟のだ。篠宮華緒がいなくとも〝混沌の根源〟も〝救いの道具〟も最初から僕の手の中にあったのだ。

 僕はひとしきり泣いたあと、部屋の前に置いてあった冷めたご飯を食べた。美味しかった。

 それからお風呂に入って、出て。いつも通りに過ごした。そうすれば、今日起こった特別変なことが、全部全部無かったことになるかもしれないと思ったから…。夜の九時を過ぎた頃、一階から親父が僕を呼びつけた。

「京介〜。こっちけぇ〜。」

 僕は黙って階段を降りていく。ギシリと木の音がする。

「なん?。」

「今日、喧嘩したっちゃろ?。怪我は?。病院行ったんか?。」

「殴られとらんわ…。一方的に殴ったんわ僕じゃ…。」

「ほうか…。京介もちづに似てきたのぉ。」

「………。」

「ちづも喧嘩っ早くてのぉ…父さんじゃあ止められなんだわ。」

「………もういい?。」

「え?。」

「…もういっていい?。」

 居心地が悪くて、立ち上がろうとする

「ちょっと待ちんしゃい。」

「なん?。まだ〝千鶴さん〟の話あるん?。」

「お前、自分の母親じゃろうが。〝千鶴さん〟て…。母さんとか、もっと呼び方あるげや。」

「…やかましいのぉ。もう寝るわ…。」

「いつもそうじゃのお…お前は。いつまで逃げるんなら。」

「…。」

「昔からそうじゃ。都合悪うなったらすぐ逃げる。ええ男が台無しじゃ。ちづも悲しむど。」

「ちづちづちづちづ、うるさいのぉ!。その千鶴が逃げたんじゃろうが!。なんもかんも捨てて。死んだんじゃろうが!。」

「お前を産んだんも、名前をつけたんも千鶴じゃで?。死んでしもうたけど、京介を一番愛しとったんは千鶴じゃ。」

「ほんなら面倒見るんが親の役目じゃろうが!。産んでしまいか?。ちがおうが。親父やばあちゃんに迷惑かけてまでガキ産んで、わざわざ死ぬ理由なんかどこにも無いげや……どこにも無いげや…。」

 今日は駄目だ…。最悪とは今日の事だ…。もうこれ以上心を壊されるのは耐えられない。だから靴も履かず、上着も着ず、家を飛び出した。

「京介!。」

 ただただ走った。走りながらこれが親父の言う〝逃げ〟だとするならば、僕にはもう〝死〟以外に道は無い。自分を保つために、心を守るためにとった行動の全てが、僕にとっては〝逃げ〟では無く〝戦い〟であったのに。僕の目は黒く深い緑に燃え、前傾姿勢の攻撃的なファイティングポーズをとっている。なのに、僕の立つリングではいつも、開始のゴングは鳴らない。それどころか対戦相手すらいなかったのである。僕はこの痛く苦しいほどの熱量を他の誰でもない自分に向けるしか無かった。もうこの町に居場所はない、もしかしたらどこにも居場所はないのかもしれない。この世界に居てはいけない。ここに居たら死んでしまう。だから死ぬにはちょうど良い日だ。

 心臓がバクバクして、脇腹も痛いし、喉がヒューヒューと鳴る。『もうこれ以上は走れないかも。』と刹那せつなに思う一秒間。突然目の前がきよまばゆい閃光で覆われた、その青白い閃光の一秒の空間の中で僕の身体がドンっと何かにぶつかる感覚と、少し柔らかくて暖かい布が擦れるちりちりとした肌の感覚と、顔に沢山の細い線が当たり、甘くて爽やかなシャンプーとリンスの様な匂いがして、爪の跡がつきそうなほど力強く、でもどこか優しげな手のひらが僕の背中にまわる。

「大丈夫?。」

 あぁ…華緒だ…やっぱり華緒が来てくれた…。雨野とヤッたとか、ヤッてないとか、僕には本当にどうだっていい、どうだってよくないけど、本当にどうだってよかった。嘘でも本当でも僕は華緒を愛する以外に、自分の存在意義を見出せない。僕の生まれや育ちに〝良い〟も〝悪い〟も言わなかった華緒が唯一の救いだった。他人の幸せの価値観なんて興味ないし比べる気もさらさらない、だけど華緒が生きる世界でなら、僕も生きていていいんだと初めて思えた。だから今こうして僕の元に帰ってきてくれるなら、僕はそれだけで十二分じゅうにぶんに幸せだ…。もし…華緒が生きていてほしいと願ってくれれば、僕は死んでも生きていられる。こんな命、ここで消えた方がいいのに…。ほんと馬鹿な僕でごめん…。にしてもやっぱ痛ぇよな…。全力疾走でぶつかれば…。受け止めてくれた華緒も痛かったじゃろうな…。そりゃ…。

「大丈夫ッ⁉︎。」

 ––––あれ…?。だれお前…。

「誰かッ!はやくッ!救急車ッ!。」

 ––––ただぶつかってコケただけじゃろ…?。あれ…?。大袈裟じゃろ…ちょっと痛ぇけど…。

 刹那の一秒間の中での出来事が、全くの〝ニセモノ〟だと気付くのにほんの少しだけ、時間がかかった。ガヤガヤと騒々しい周囲の中心に自分がいるのに気付いた瞬間に、〝ホンモノ〟を思い出した。クラクションの音と共に右から来た車のライトが近づいて来て、気付いた時にはちょうど目と鼻の先にあって、目を瞑って手でかばったけどもう遅かった。身体の右側に大きな衝撃があってから頭にフロントガラスのチリチリとした感覚とたぶんブレーキの音?が左耳で聴こえてた。地面がかたむいてきてコンクリートの黒い凹凸でこぼこに、体の左側の肉という肉と、薄い皮とが滑りながら、バウンドする。二、三回(くう)を回転しながらったあと、身体はやっと止まった。命は平等に重んじられるべきだと思うし、そう考えるのが普通だと思う。でも僕は僕の命を皆と平等だとは思えなかった。だからこうなった時『良かった。』と思ってしまった。それと同時に〝死ねなかった事〟に死ぬほど後悔した。だって痛いだけじゃん…。



 四、閃光の果てに。


 病院のベッドはギシギシとうるさくて居心地悪い。窓辺に名前も知らない花がおいてある。二、三日ほど意識がなかったらしいが、結局のところ生きている。入院なんて初めてでテンションが上がってたのも束の間で、寝たきりの生活に慣れる頃には退屈でしょうがなかった。病院の独特な匂いは好きだけど体に染み付くはやだなぁとか考えたり、とにかく時間が経つのが遅くて、ここだけ磁場が狂ってるんじゃね?とかわけのわかんない事を思ったりする。仕事とわかっていても看護師さんの優しさは有難い。あれから親父やばあちゃんは勿論、親戚やその他諸々のよく知らない大人が見舞いに来たりしたが、華緒が来ることは無かった。あの閃光の一秒間の中で救ってくれた華緒はもうどこにもいない。もしこの町のどこかで〝篠宮華緒〟にあったとて、それは僕が求めるあの清く尊い〝篠宮華緒〟ではないのだと悟った。もう必要ない…かも。僕にとっても華緒にとっても。断言は出来ないけど、多分今は必要ないんだと思う。それよりも壊れてしまったものの中で、元通りになる物とならない物があって、僕はそれをしっかり知っておきたかった。庇った右腕はなんちゃら骨折ってお医者さんが言っていた。まぁよくわかんないけど、時間はかかるがこれは元通りになる。足は擦り傷というか、削り傷はあれど歩ける事は歩ける。これも元通りになる。右耳はもう聞こえないらしい。これは元通りにはならない。クラスの奴らは最初からどうでもいい。靖彦は…今となってはどうでもいい…あいつに時間を割く方が勿体ない。

 親父との縁は切っても切れるものじゃない。家族というのはそういうもので、例えこの町を出て絶縁しようが、どこまでいっても僕の命の片割れは親父であり、もう片割れは千鶴さんである。これは壊れてもそのままであり続けるしかない、元通りになるとかならないとかそんな次元の話ではない。そういう意味では、華緒の事も僕は一生想い続けなければならないのかもしれない。想い続けてしまうかもしれない。探し続けてしまうのかもしれない。あの清く正しくもどこか重くにごった、透明な箱の中に白と赤と黒が混じったゆらゆらとした明かりがともるような、あの愛しい華緒を死ぬまで求め続けてしまうかもしれない。雨野とヤッた事と、僕を遠ざけている事との関係性を知りたいと思ってしまった。問題はヤッたか、ヤッてないかではない。火のないところに煙は立たず、と言うようにきっと靖彦の話はほぼほぼ合っているんだと思う。ただその一方の話を鵜呑みにして、もう一方の話を聞かないまま『はいそうですか。』って納得できるほど、僕は賢しくもないし了見の狭い人間だと知っている。それを確かめる方法は、たった一つしかない事も知っている。電話する?。え〜めんどくせぇ〜。

 どんな小さな出来事も僕の脳では処理するのがすごく難しい。馬鹿だから〝考える〟時間が人よりもきっと長いし多いんだと思う。まぁそれは冗談半分で、一人っ子だからひとり遊びを強いられていた事と、自問自答する事が多かったせいか、イマジナリーフレンド的に自分の中のもう一人の自分と会話をするのが自然になっていた。だから他人からすれば些細な事でも、僕にとって〝考える〟という行為そのものにとてもストレスを感じるのだ。でも思考を止める事は出来ないし、そんなスイッチがあるなら誰も苦しみはしない。幼い頃に感じた疎外感そがいかんや自分以外の他人に対する不信感もその全ては僕自身が作り出した〝もう一人の僕の見る世界〟の一部だ。それは外的要因がいてきよういんから精神を守る為に自己の防衛本能が正常に働いた結果、異常が常態化してしまったとも言える。とか難しい事をごちゃごちゃと考えていても誤魔化せなかった。華緒に電話をかけるかどうか、ただそれだけのことで僕は一日の半分以上を無駄にした。夕陽がだんだんと落ちてきて、窓辺の少し元気のない花が橙色だいだいいろに染まりだす。とりあえず看護師さんに電話をかけたい事を伝えて許可を得る。なんだか病院が余所余所しいというかそわそわしている様に感じる。言いたい事や言わなければならない事をあらかじめ順序立てておく、何をどう返してくるかも推測して、その答えまで準備する。それから更に三十分も無駄にした。馬鹿でい。でも、ここが正念場だ。本当に命を削ると言うのはこう言う事だ。気張れよ、京介…!。

 prrrrrr...!!

「もしもし。」

「…もしもし。」

「華緒…?。」

「…京ちゃん、ごめん…。」

「待って。なんで謝るん?。」

「…もう華緒に会わん方がいい。」

「なんで?雨野の事?。」

「…。」

「なんでなんも言わん…。」

「…ごめんね。」

「いつもそうじゃ…大事なことはなんも言わんと、自分はなんも関係ないって顔しよる。僕の事も雨野の事も本当はどうだっていい癖に、無理矢理好きになろうとする必要なんてないのに。」

「…うん。」

「最初からずっとこの町の事なんて、何一つ必要としてなかったんも知っとったで。なのにわざわざ僕の言葉まで真似して…性根しょうねの悪いヤツじゃ…ほんと阿保くさい…。」

「…ほうやね。」

「ほうやねって…なんよそれ。」

「じゃあなんて言えばいい…?。なんて言ってほしい?。」

「なんよそれ。」

「京ちゃんのほしい言葉を、華緒は全部言えるよ?。」

「やめぇや。」

「最初からずっと華緒は、ちゃんと自分の言葉で話しとったんやけど、京ちゃんが気に入らんのならゴミと一緒やよ…なんて言ってほしんか教えて…華緒は京ちゃんのもんやけん…。」

「僕のもんって…雨野とヤッておいて…よく言えらぁね。」

「…ヤッてないよ。」

「もういいっちゃ。」

「…雨野君がそう言ったん?。」

「…。」

「誰が言ったん?。」

「誰でもいいやろ。」

「ほっか…。」

「なんや、はっきり言えや。」

「…ううん。華緒は京ちゃんの信じるもんを信じるよ。やけん京ちゃんの言う通りにするよ。」

「なんやそれ今更いいヤツぶんなや。自分の言いたい事も言えんような腑抜ふぬけじゃと思わなんだ。お前やこもうどうでもええ。いらんわ。」

「…ほっか。」

「二度とツラ見せんなや。この町の言葉も使うなや。気色の悪い。」

「京介の求める人に、華緒はなりたかった…でもなれなかった…ごめんなさい…さようなら。」

 これが最後の会話だった、と思う。心が揺れる波があまりにも大きすぎて、自分で何を言ったか、どんな口調だったか、細かく覚えていられるほど冷静でいられなかった。その他大勢を犠牲にしても守りたかったものを、一番大切だと思い込んでいたものを、自分の手で壊してしまうしか自己を正当化する方法がもう残されてなかった。電話を切った時少しだけ心は軽かった。全てのもやもやをぶつけられたからだろうか、でもぶつける相手を僕は間違えてしまっているし、それも分かっている。でも華緒は自ら身をていしてサンドバックとなり僕の心を守ってくれた。そういう意味では僕はやっぱり心のどこかで華緒を憎むことは出来ないし、その権利もない。なんなら僕の方が部が悪い。あとでもう一度電話しようと思いながら病室に戻る。時間にするとほんの十分じゅっぷん程度の会話だったと思う。内容を思い出しながら、なにも解決していないにしても、華緒が僕の事をまだ想ってくれている事を知れて少し嬉しくもあった。ただ…少しだけ…ほんの少しだけ嫌な予感がする。こういう時の勘は当たる。

 病室に戻り少し眠ろうかなとぼーっと携帯を眺めていたら、華緒からLINEが届いた、とてつもない長文だったからあとで読もうと思っていたその時、突然部屋の明かりが落ちた。え、停電…?。いや病院ではありえない。なんだろうと身構えていた。すると毎年好きでもないのに聞かされる、あの聴き覚えのある音楽と共に、看護師さん達がバカバカしく歌いながら、のそのそと病室に入ってきた。

「ハ〜ピバ〜スデ〜トゥ〜ユ〜…♪」

「あぁ…今日…僕の誕生日だったんですか…。」

 僕は忘れていた、今日が何日かなんて考えてもなかったし、自分の誕生日なんかどうでもいいし…。恥ずかしいというか、なんかもうやめてほしい…。ふと窓辺に目をやると花は枯れかかっていた。それを見た瞬間、今までの嫌な記憶とこれから起こりうる事のありとあらゆる可能性が鮮明なビジョンとして僕の脳内を駆け巡った。嫌な予感はこれだった。華緒の最後の言葉だけが繰り返し繰り返し頭に響いている。あの忌々《いまいま》しい千鶴さんとしくも同じ様な台詞だ。それがしかも僕の誕生日…。

『ここでなにしてる。』わかってる。

『早く華緒に会いに行けよ。』わかってるって。

『ここにいてはいけない。』わかったから黙れ。

『走れ、京介。』黙れ。

 気付けばまた走っている。心が爆発して身体が勝手に吹っ飛ぶ。なんて病名か分かんないけど、僕は病気だ。だから病院にいたのに、その病院から抜け出そうと院内を走っている。本気で病気だと思う。とにかく医者や看護師をくぐって一刻も早く病院から出なければ…。四階の病室から三階…二階…と降りるほどに見舞いに来た人や、患者や医者や看護師の声が増えて騒がしくなる。それに呼応して僕の足も何故だか重く遅くなる。一階に着くと病院の入り口が、がやがやとしている。人を掻き分けて入り口を出てすぐ左に目をやると、誰かが担架たんかに乗せられる瞬間だった。医者や看護師の目がギラギラとして、その目の前の命に関わる事の重みが関係のない僕にまで伝わってくる。緊迫した場に硬直していると野次馬の話が聞こえてくる。

(女の子が落ちたらしいで。)

 ––––え。

(自殺やないかって。)

 ––––まさか…………ウソ。


 それが華緒の命が消える瞬間だった。僕は担架の上に横たわった血を吐いた人形が、華緒だと思いたくなかった、でもその美しさは華緒以外には考えられなかった。

「華緒!。」

(君!離れて。)

「華緒!。」

(何あの子。知り合い?。)

「ごめん。ほんにごめん…。」ぽろぽろと涙が落ちる。

(ほら、菊川さんとこの…また事件…?。)

「僕が間違っとった…。じゃけぇ行かんでくれ…頼む…華緒…。」

(落ちた子は、有名なべっぴんの子やね。)

 頼むから静かにしてくれ…ちゃんと聞こえないだろ。

(厄介事の多い家やわ…あの子が落としたんと違う…?。)

「お願いじゃ…置いていくな…華緒…!。」

(ちょっと、言い過ぎよ。でも気味悪いわ。)

「消えるな…!。」

 そう願えば願うほどに、それが叶わない確率が高くなっていく。僕が本当に欲しいものはいつだって手に入らなかった。でもそれは僕が見落として、それさえ気付かずに駄々をこねていただけだった。病院の奥の方に消えていく華緒をただ見ているしかなかった。僕が素直になれず、華緒に『いらない。』と言ったからだ…。それがこんな風に回り回って自分に返ってくると、何度も同じ様なあやまちを繰り返したのに、何故気付けなかったんだろう。〝悔やんでも仕方ない〟と割り切れるほど僕は大人じゃない。華緒はもう元通りにはならない。これはもう変えられない。



 五、愛になるよ。


 まだ僕は病院にいる。怪我はほぼ治っているがあの日からずっと病院にいる。いたいからここにいる。ずっと華緒の事を考えて食事も睡眠も必要ないくらいに考え尽くして、それでもまだあの日のLINEを読めずにいた。華緒が落ちる前に何を感じていたのか、何を考えていたのかを全部自分で想像して考えて、心が揺れないようにしてから読むと決めていた。

 ………よし。下の方に埋もれてしまっていた華緒からのメッセージを開く。わかっていても、心はどうしても揺れてしまう。華緒からのメッセージの内容は単純なものだった、どんなに僕を想っていたか、どんなに幸福だったか、そしてどんなに絶望だったか。それを4スクロール分くらいに長々と書いてあった。狂気に近いものを感じるほど僕は愛されていた。僕は華緒の事を何も理解していなかったと理解した、本当に知らない事だらけだった。雨野とキスしたのは本当だった。中学の頃から雨野にしつこく求愛されていて、本当にウンザリしていてあの祭りの夜も雨野は言い寄ってきたそうだ、だから華緒はキレて『キスしてやるから、もう二度と華緒にも京介にも関わるな。』と強く言い約束させたらしい。その時の動画も撮ってあった。雨野が情けない声で『もう二度と二人に関わりません。だからキスさせてください。』と

 土下座している動画も一緒に送ってくれていた。情けねぇこいつ(笑)。本当に華緒はカッコいいし、頭も良い。こう言う他人に対する冷たさも僕は好きだ。その後は普通に友達と一緒に祭りを楽しんで、ちゃんと僕の人形さんも流してくれたそうだ…。靖彦の話は半分が雨野のでっち上げで、多分動画を学校中に回されると思ったのか焦って嘘をついたんだろう。馬鹿だなあいつ。まぁかくいう自分もまんまとそれに惑わされたわけだが…。メッセージの最後は『愛してる。』で終わっていた。さよならとか、ごめんねとかじゃなかった。僕は心底安心した。だってもしそうだったら成仏できないじゃん。それにずっと華緒が僕の心にいてくれると確信したから。あの窓辺に置いてあった花は〝ブーゲンビリア〟と言うらしい。あれは僕の意識が戻る前に華緒が置いていったそうだ。それを確かめるすべはもうない。けれど僕はそれを信じたい。あの日信じられなかったから、華緒が落ちた。だから今は信じていたい。そんなに長くはなかったけど入院生活はそろそろ終わる。退院したら親父の手芸屋を継ぐために色々と勉強しなくちゃならなくて、入院してるうちから、糸や布の色んな本を読んだりしている。もうすぐ冬も終わり、春の風が吹いてくる。

 ハサミが無くとも糸は切れる、人間はそういう風に出来ている、それなのにそれさえ忘れてしまってハサミを探し続けている。ほつれた糸も人の縁もそれは同じだ。切って仕舞えば楽になれるのに、その細い糸を紡いで紡いで、都合が悪くなると切ろうとする。馬鹿な生き物だ。ただその命のえんの糸で編んだ布はきっとどんな雨風も凌げる事だろう。華緒と僕の糸はまだ繋がっている。どんなに切っても切れないほど、重く苦しい鎖となって僕を縛り付けるだろう。僕はこの先ずっと華緒と繋がったまま生きていかなくてはならない。でもそれは悲しい事ではない、華緒が死んでしまった事はとても悲しい。けれど華緒は僕の為だけに死んでくれた、この意味を他人が真に理解できるのだろうか?。どれほど愛に溢れているか他人に伝わるのだろうか?。理解してもらう必要も、真に伝える必要もない、だってこの町で起こった全てが、この結末が僕と華緒の人生だから。今なら母さんも理解できる。母さんは親父を心から愛していた。だから僕が産まれた時恐かったのだ。同じくらい愛おしいものが二つも出来てしまった。そんなの心が引き裂かれてしまう。だから母さんはどちらも選べなかった。いや、選ばなかったのだ、自分の愛するものを守る為に。自らの身を呈して守ったのだ。歪んでいると決めつけて、切り捨てるのはとても簡単だ、でもこれはこれを読むあなたの人生ではない。これが僕にとっての愛だ。もう一度言う、これは僕の人生だ。華緒の人生だ。これほどまでに僕を愛してくれる人はこの先どこにも現れない。愛すると言うのは命をかける事だ。それを僕は知っている、だから僕は生きたい。二人が命をかけて、愛し、守った僕を、僕は死ぬ気で生きて守りたい。そうしていればきっとまた巡り会わせてくれる。糸はずっと繋がっているから。手繰たぐり寄せればそこにきっと…。


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