第4節 第1話 取引
長らく世話になった魔素技術研究所。
リヒテルは少しだけセンチメンタルな気分になっていた。
ここで暮らした約2年はなかなか濃い思い出だったからだ。
「では平さん。俺はこれから北に向かいます。」
「気を付けるんだ。センサーが反応したらその注射を躊躇わずに使いなさい。それが君と仲間たちを守る切り札になるはずだから。」
その注射とはリヒテルの機械魔化を抑制する薬剤の入ったピストル型の注射器である。
完全に無効化することは現在の技術では不可能であった。
ぎりぎり封印することで進行を止めることには成功した。
それでも完全とは言えなかった。
もし何かのはずみで進行すれば取り換え時のつかないこととなってしまう。
そこで開発されたのが抗機械魔化リキッドである。
これを用いることで進行をかなり緩やかにすることができることが実験で明らかとなっている。
この薬剤を注射された機械魔はその活動を著しく低下させ、ある一定量の摂取で完全に沈黙。
そしてそのまま生命活動の終焉を迎えた。
ただしランクの低い機械魔でしか実験ができておらず、高ランクに効果があるかはまだまだ研究が必要な代物である。
あくまでも保険であり、気休めともいえるものだった。
リヒテルは仲良くなった研究所員と別れの挨拶を交わすと、一路港へと向かうのだった。
「研究対象は巣箱を旅立った。これより監視作業へと移る。平所長お疲れさまでした。」
「何がお疲れさまだ。私は私の仕事をしたまでだ。彼を傷つけるのならば、私も君たちの敵になることをゆめゆめ忘れなるな。」
リヒテルの去ったあと、藪の中から男性の声が聞こえてきた。
だが姿は確認することが出来ないことから、高度の隠密能力を備えたものであることが伺えた。
「何が〝中立国〟なものか……。リヒテル君気を付けるんだよ……」
平は誰もいない空に言葉を乗せる。
ただ木々のざわめきだけが平の言葉を飲み込んでいった。
「さて、これからどうしたものかな。一応」
【ジャポニシア】の海洋玄関口【ネクストビーチェ】に向かったリヒテル。
研究施設からはそれほど離れてはいなかったようで、歩いて向かうことができた。
そして【ネクストビーチェ】の港町は活気にあふれていた。
いくつもの国の商船が見受けられ、船から荷が下ろされるとすぐさまセリが開始される。
ものの数分で売りさばく商人もいれば、なかなか売りさばけずに苦戦している者もいた。
それを狙ってかかなりの格安でその売れ残った商品を買い漁る承認もいた。
悲喜こもごも。
まさに商人の町といっても過言ではない光景であった。
そこのすぐそばには食べ物屋の屋台もならび、うまくいった商人、いかなかった商人、それぞれの人生を現すようにそこでは物語が展開されていた。
リヒテルは急いでみんなのもとに行きたいという気持ちもあるものの、この街を見て回りたいという欲求に駆られていた。
「それにしてもすごいな……こんな街並みは見たことがないな。」
リヒテルは目にするものすべてに魅了されていた。
行き交う人々のファッションはもとより、建物の外観や販売されている品々。
自分が今まで見てきた世界が突如として小さいものに感じられた。
「あのすいません。これってもしかして……〝刀〟ですか?」
リヒテルは一つの店の前で動きを止めた。
奥からは金属を打つ音が聞こえる。
しわがれた男の声と思われる怒号も聞こえる。
いかにも職人がいると言わんばかりに。
リヒテルが手にしたものは華美にならない程度に装飾された武器と思われるものだった。
その独特な反り返った形状から、リヒテルは〝刀〟と判断した。
「ん?お客さんこの国の人間じゃないね?そいつは模造刀って言って飾りだったり、お土産品だったりする奴だ。」
「それにしてはそれなりに重量感はありますよね?」
リヒテルはダンベルでも持ち上げるかのように上下に持ち上げてみる。
手に来るずっしりとした感じは武器であることを感じさせた。
「あぁ、中身はちゃんと作ってあるからな。ただまだ刃を出してい無からな。ただの思い棒きれだ。」
リヒテルはするりとさやから刀を抜いてみる。
が、途中で抜くことができなくなって止まってしまった。
刃の部分が鞘に引っ掛かりこれ以上は鞘を手放さなければ抜けないのだ。
「はっはっは。いや悪いね、そいつは見た目重視にわざと長く作ってるから普通に抜いたんじゃ抜けねぇんだわ。どれ、貸してみ。」
リヒテルは刀を元に戻すと、そっとその店番の男性に渡す。
店番の男性は刀を受け取ると、腰に巻いた帯に止めなおす。
少し腰を下ろしてふぅ~と息を吐く男性。
その瞬間だった。
リヒテルはあたりの空気が変わったことを感じた。
凛と澄んだ気配があたりに充満する。
そしてそれは一瞬だった。
リヒテルが目を一瞬つむった瞬間に、すでに刀は抜かれており、その独特の形状の刃が姿を現していた。
リヒテルは何かマジックでも見せられているんではないかと思ってしまった。
男性は刀を何度か振るい、きれいな所作で鞘へと戻して見せた。
一連の流れを見たリヒテルはその美しさに魅了されていた。
無駄な動きがなく、全く澱むことはなかった。
だがそれにもかかわらず、見る者を納得させるだけの力強さも兼ね備えていた。
「すごい……。綺麗だ……。」
「って感じだ……って、おい、大丈夫か?」
見とれていて反応の遅れたリヒテルを見て、焦った男性がリヒテルに声をかける。
リヒテルも自分が気を取られ過ぎていたことを理配したのか、男性に何度も頭を下げた。
「それにしてもすごい……正直もっと気の利いた言葉があればいいんだけど、無駄な誉め言葉なんてそれこそ無駄だって思えてしまって。」
「そこまで言われるとなんだか照れるな。」
男性は腰に差した刀を元の位置に戻すと、商売人の顔に戻っていた。
先ほどの武人としての顔とは似ても似つかない。
「で、刀は気にってもらえたかな?今ならお安く50万円だ。」
「50万円?」
リヒテルは事の時初めて知ることとなった。
【エウロピニア帝国】の常識が全てではないことを。
リヒテルが知る通貨単位は〝イーロ〟と言う通貨で、主に【エウロピニア帝国】での流通だった。
さらに【エウロピニア帝国】では下等教育については義務として行われているが、それは【エウロピニア帝国】で使う常識を教える場所にしか過ぎなかった。
貴族や上級市民になれば上等教育や国立学園などに通い世界の常識を得ることができるであろうが、リヒテルはごく普通の一般庶民である。
そのような教育は受けてきていなかったのだ。
「50万円ならまだ安い方だぞ?模造刀って言ったって、刃を出していないだけだからな。そんじょそこらの土産物品とは大違いだ。」
声を大にして強調した男性だったが、周りの店からは「うちの店に喧嘩売る気か?!」などの声が上がっていた。
「すまない、【エウロピニア帝国】の通貨しか今手持ちになかったもので……高いのか安いのかの判断ができなかったんだ。」
「なんでいなんでい、それならそうと言ってくれよ。両替はうちじゃやってないから、3軒先の両替商にでもやってもらいな。」
リヒテルはその男性に礼を告げると、両替商のもとに急ぐことにした。
リヒテルの背後からはその男性の声が聞こえてくる。
本当に根っからの商売人なんだなと思い、少しだけ笑みがこぼれたのだった。
言われた通り3軒先の店につくと、店番の女性が何かを操作しているのが見えた。
ひっきりなしに人が訪れては何かを凝視し、一喜一憂しているのが見て取れた。
「すいません。両替をお願いしたいんですが。」
「はい、ではこちらの表を見てから決めてくださいね。」
渡された表には1円当たりの各種通貨の金額が記載されていた。
そしてリヒテルが目にしたのは【エウロピニア帝国】の通貨イーロの金額だった。
〝1円=2000イーロ〟
それを目にした瞬間、リヒテルはめまいを覚えたのだった。




