薔薇の街⑤ 回想
マリーとエマが触れるだけの口付けを繰り返した日の次の日。
その日、マリーは何となく熱っぽくて、珍しく教会には行かなかず、屋敷に閉じこもっていた。
最近はミサがあろうがなかろうが、家庭教師による屋敷での勉学が終えた昼過ぎには教会に通うという生活を送っていたけれども、どうしても今日は教会に足が向かなかったのだ。
(おかしいわ)
何度、体温を測っても熱はない。
(全部、おかしい。熱もないのに、頬も熱いし。これは恋ではないのに。エマは、友達なのに……)
昨日、マリーは夜もろくに眠れなかった。
本を読んだり、絵を描いたりして、エマとキスしたことから気をそらそうとしても、やはり無理だった。
気づいた時には朝になり、一日が始まっていたのだ。
そして正午の現在。マリーはベットに座り、ぼーっとしていた。
何をするわけでもなく、家族には「具合が悪い」と伝えて、部屋に閉じこもっているくらいだった。
(どうしよう。エマが、頭から離れない)
気を抜けば、あのやや薄くて冷たい、けれど触れ方が妙にやさしさと愛を感じる、芸術品のような形の良いエマの唇を思い出してしまう。
唇を押し付けたときの感触や、緊張したような、「……はぁ」と小声で言う、ため息の様な深い息づかいばかり考えてしまう。
女同士のふざけが過ぎた「悪い遊び」に過ぎないのに、どうしても恋の様な熱が冷めない。
マリーは婚約者がいるけれども、彼と時折パーティーで手を繋ぎ、踊る事が有っても、何も感じたことはない。同年代の男子にも、かっこいいと思う人は何人かいたが、これほど強く、眠れなくなるほど心を囚われた人はいなかった。
しかし、恋愛小説では、女性は恋をすると「胸の奥が痛い」という表現が多用されているが、それともちょっと違う。
爽やかな青春のどきどき、よりも、もっと、呆然とする熱だ。
ただ、お臍の上あたりが鈍く痛い、不思議な感覚だった。ぎゅっと締まるのだ。とても。
それほど、マリーにとっては未知なる、甘美な時間だった。
ただのふざけにしては切なくて、火遊びにしてはいやらしくて、気持ちよくて、甘い。
本心ではまた唇を重ねたいと、もっと深く知りたいと思ってしまう、口付けだった。
もし、大人なら、この先はどうなっていたんだろう、とも思う。
(次に会った時、エマになんて言えばいい?)
あのキスはなんだったのだろうか? なんて真剣に聞いたら、「冗談だよ」って笑われるだろうか。
それとも、その続きを、エマは教えてくれるのだろうか。
マリーは解らなかった。
ただ、エマは別れ際、恐ろしいくらい整った顔で優しく微笑んで、「また、明日」と言って、帰って行った。
その時からずっと、マリーは悪い夢を見たような、いい夢をみたような気持で、やるせなかった。
エマに会いたいけど、会いたくない。
不思議な気分だった。
マリーは、窓から教会の方角――エマのいる場所を見つめて、目をそらした。
そして、再びベットに入り、無理矢理目を瞑った。
**********
「エマ。王都から帰還命令が来ましたよ」
パンとスープという、いかにも修道女のような質素で、簡易な昼食を取っているエマは顔を上げた。
神父服を着た白髪の目立つ、やせ細った貧相で地味な、これと言って顔に良くも悪くも特徴のない男である神父ポールは、エマに書状を見せて、嬉しそうに笑った。
「案外早かったな」
「ええ」
このポールという神父と各地の教会を巡回する生活をして早一年半。
エマは、この一年でローズライン王国の隅から隅、もしくは国境を越えて、教会を転々としていた。
そして今朝、思ったよりも早く、王都から帰還命令が来たのだ。
ローゼとエマがキスした日から数日後の金曜日だった。
エマは「ふうん」とした顔でまた質素な、というか自分で作った鶏肉のスープを食べていた。
さすがに野菜の屑のスープは味気ないから、鶏を市場で購入してさばいて、面倒なのでスープにして煮込んだのだ。
「あれ、嬉しくないのですか?」
「……いや、そんなことはないんだが」
あと一年は絶対この窮屈な生活をする羽目になるとたかをくくっていたので、意外だったのだ。
ポールは、訝し気にエマを見つつも、「スープ頂きますね」と言って、それを皿によそい、エマの向かいに腰かけて、演技のかかった声で言った。
スープの湯気が立ち昇る。
「この前まで『こんな生活嫌だ! 私を誰だと思っている!』『絶対許さない! 王都に帰還したらすぐに謀反だ、私はやるぞ、下剋上だ。今度こそ、血祭だ。ははは。あいつを全裸で剥製にして一番目立つところに飾ってやる』『あの脳味噌色ボケ爺、早よクタバレ! いい年して、初恋を引きづるな! 迷惑だ!』『ああ、弟が待っている! 早く帰りたいわ!』と、激しく暴れていたじゃないですか」
「ああ……あれか。よく一字一句違わず覚えていたな」
ポールはスープを上品にすくいながら、口に運んで、静かに鶏肉も咀嚼していた。
パンのちぎり方すら上手だった。
妙に、綺麗な食べ方の男だった。
ポールは地味な見かけとは裏腹に社交界も経験しているため、育ちの良さ、というべきだろうか。
最早、テーブルマナー講師になれそうだ。
顔以外の所作は、貴族そのもので花があり、全然、神父なんて似合わないが、神父と言われたら、そう思えるくらい彼は演じるのが上手で、目立たないよう配慮できる人物であった。
「話す内容はそればかりでしたから。あれ、もしかして、帰りたくないのですか?」
「どうせ……また、こき使われる」
「まぁ、暫くは、大丈夫でしょう。長旅の後なんですから、久しぶりにゆっくりしたらどうです?」
「……」
「まぁ、いずれは帰る予定でしたからね。あなたのスープも気軽に飲めなくなるって、なんだか悲しいですね。貴重な体験でした」
エマは、1年半前まで包丁すら握った事が無かったのに、今や、簡単な料理も出来る様になった。
食事は自分で用意するか、ポールに頼むか、買うしか方法はないのだ。
ここでは、待っていても、誰も用意してくれないし、ポールに毎回頼むのも悪いし、外食はお金がかかるし、面倒な時もある。それなら、自分で簡単な料理をした方が早い時もあるのだ。
ポールは意味深に笑い、さっさと食べ終わったエマは食器を洗って、部屋を後にした。
エマは、自室としてあてがわれたベットしかない部屋のタンスにある、部屋着を探す。
(今週中に帰還か……)
エマはとても複雑な気持ちだった。
確かに、最近まで、いやこの町に来るまでずっと王都に帰りたくて仕方がなかった。
しかし、今はちょっと、まだ帰りたくない気持ちが勝っていた。
(まだ、帰りたくない。いずれは帰るが……)
あれからエマはマリーに避けられていた。
キスをしてしまったからだ、とエマは解っていたが、エマは後悔していなかった。
(明日、ローゼに会いに行こう。そうしたら、言おう)
彼女は驚くかもしれないが、正直に言って、嫌われてもいいと思っていた。
嫌われてもいいと思えるぐらい、キスがしたかった。
あの時はどうしても、自分に嘘はつけなかったのだ、と。
(だが……もう会いに来てくれない、という危険性はあるかもしれないな)
あの日から、彼女は会いに来ない。
(嫌われたのだろうか? いや、ローゼだしな。でも……)
訂正しよう。先ほどのは強がりというモノだ。
本心としては嫌われたくない。むしろ、好かれたいし、もっと仲良くなりたい。
世界中のすべても人に後ろ指をさされて、嫌われてもいいが、彼女だけは、違った。
興味のない他人に対しては、今まで抱いたことのない好意だ。
出来る事なら、ずっと居られるように手配したいくらいだった。
こんな自分に、後にも先にも、彼女のような人物は現れないだろうから。
エマはフードを脱ぎ、修道服を投げ捨てた。
少女らしからぬ、レースも何もない簡素な長衣とズボンを履き、引き出しから鋏を取り出し、洗面台に向かう。
洗面台の鏡をのぞき込むと、いっそうみじめになった。
鏡の中の頬を赤らめた長い金髪の少女が映っていたからだ。
エマは少女――自身を笑った。ひどい顔だ、と。
「ああ、また笑われる」
幼馴染にばれたら腹を抱えて笑うだろう。
一生ネタにされるだろう。
エマは躊躇なく、髪を鋏でざっくり肩まで切った。
もう長い髪も、深いフードも、修道服もいらない。この町を出れば、すべてを捨てられる。
エマは風呂場で水を浴びて、火照った身体をおさめた。最近はいつもそうだった。
(熱い)
これが厄介で、困っている。
夜な夜な、思い出すのだ。
ああ、今日も彼女は可愛かった。優しかったな、と。
そして、毎日発見があった。
こんなところにほくろがあるのか、とか、食べている時の口の動きだったり、綺麗な歯並びを観察したり、うなじをみて見惚たりしているのだ。
時にはわざとあの愛くるしい表情に心を奪われて顔を近づけてみたり、頼りなくて守りたくなる小さな肩に触れたり、している。
本人は全く気付いていないだろうけれど。
(いや、気づいていたら、もう会ってくれないな、絶対。キスよりダメなやつだな)
恐ろしいくらい彼女を観察している自分に引いているのは言うまでもない。
この前、水辺で、彼女が足を滑らせて、ずぶ濡れになった時は、本当に危なかった。
最悪だったのは、彼女はその状態でにこにこ笑い、エマを連れて屋敷に行き、その場で着替え始めたのだ。
エマは、目をそらす事も出来ないうちに、彼女は下着も全部、躊躇なく、脱ぎ始めて。
その姿は未完成の芸術のようであったが、ふくらみもあったし、絶対子供ではなくて。
(生きていて、あれほど……つらいことはなかったな)
好きな人が、服を脱いで、裸になって、そしてまた丁寧に下着やら服をにこにこ笑いながら、着るのだ。
それを、ただ、目をそらすのも友達としておかしいし、だからと言って、この14歳という時期に、黙って見ているのも、悲しいくらいつらくて。
「まぁいい。もう、こんな日々ともお別れだ。今はただ――」
どうしようもないくらい、今日も彼女に会いたい。話したい。声が聞きたい。
明日、教会に来てくれなかったら、屋敷を訪ねよう。
それでも頑なに、会ってくれなかったら、手紙を書こう。
嫌がられても、そうそうに諦められない。
「……困ったな。我ながら、呆れるな」
頼むから、明日、いつものように名前を読んで、笑い掛けて欲しい。
彼女は魔法使いみたいに、くだらない会話をするだけで、エマの、この胸の傷を癒すのだ。
もし、彼女が不意打ちの、キスが嫌だったのなら、叱ってほしい。もうしないから。
彼女なら、高いプライドを粉々にされて、「馬鹿」と言われてもいい。
だから。
「……重症だな」
エマは水滴をタオルで拭いながら、思った。
やはり、水を浴びても、夏のせいか、彼女のせいか、不明だが、火照る身体は治まらなかった。
思い悩む中、その日の夜に事件は起きた。
新月の夜、闇夜を照らすように、炎が立ち昇っていた。
教会に住むエマは窓から炎が立ち昇る方角を見て、愕然とした。
次で回想ラストです。
ありがとうございました。




