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今度は逃げない、逃がさない

 その絵画は薄暗い色使いで、ややぼんやりとしたタッチで描かれており、どことなく静かな、神聖な、『暗い絵』だった。

 時刻は昼のか夜なのか、もしくは夜明け前なのかわからない。

 ただ、言えるのは、何層も絵の具を重ねたためか、灰色を被せたような色使いで、全てがぼかされていた。


 絵の内容は、日常生活の一部なのだろう。


 昔からどこにでもありそうな粗末な木製のベッド上で、愛する若い2人、つまり村人らしい男女の一瞬の時間が描かれていた。

 窓のない部屋で、薄暗いベッドの上で、裸体同士でお互いの体を抱きしめ合い、白いシーツが泳ぎ、今にも触れそうな唇を、まさにその場で覗き見ているかのような臨場感を醸し出していた。

 横顔しか書かれてない女の方は何故か泣いていた。

 見物客の誰かが「綺麗だ……」と嘆息していた。

 自分しか見れない女の顔に劣情を抱くのは普通だと最近読んだ物語に書いてあった。

 男を悦ばせるのは、今、その時、目の前の彼女の足から爪から秘部までの全ては自分の物という、ゆっくりと男の心を埋め尽くしていく薄暗い感情の影だ。

 もしかしたら、男なら誰しもがそんな薄暗い気持ちをもっていて、恋人の自分を乞うような、そんな顔がみてみたいのかもしれない。

 シーツを汚したシミと同じ色で涙は描かれており、涙も見る方を考えさせる。

 何故、彼女は泣いたのか。もしくは、啼いていたのか?

 悲しいのか、嬉しいのか。


 どのようにも見える、情事の絵だった。


 もしかしら、絵の女は粗末な格好をしているが、透けるような白い肌だから、身分を隠した令嬢なのかもしれない。

 いや、ほんとうに村娘で病弱なだけで、粗末な家に住み、恋人との逢瀬を重ねる事だけが生きがいなのかもしれない。


 絵画は人がいる分だけ解釈は違ってくる。

 ただ、言えることは、愛や恋は、嬉しいだけではない、そんな単純な感情でないと語っているようでもあった。

 色使いが悲しさを伴うのも、辛い恋が生えるのも、薄暗い雰囲気に惹かれてしまうのも、叶わない恋に惹かれてしまう気持ちがそうさせてしまうのだろうな、とマリーは客観的に、絵を眺めていた。


(私は、この絵のように、愛し合う事はない。けど……)


 リシャールの事は好きだ。

 彼がこの前の事件でいなくなって、はじめて実感した。

 身が張り裂けるような痛みは、さすがに鈍感なマリーでもこれが恋と言うものだと、確信せざる終えなかったのだ。


 マリーは自身の恋の行方ははじめから諦めている。

 だが、願わくば、未来の世の中は身分や貧富で諦める恋人たちがいなくなるように祈った。


 マリーが3月に修道院を後にしてから、時は早くも2か月近く過ぎ去り、5月の中旬。

 薔薇が見頃というのは言うまでもなく、毎年行われている絵画コンクールも間近となっていた。

 そして数日前から、王都の中心街にある国立美術のホールに最終選考に残った絵画たちが個展のように飾られていた。

 マリーは、久しぶりの休日に自身のコンクールに出展した絵を見に行ったのだ。


 マリーの絵画は、高い石壁に囲まれた教会と草原と丘と修道女たちが野良仕事をする絵だ。

 他の者たちは、宮廷貴族だったり、聖人をモチーフにしたものだったり、異国の景色だったり、まちまちであった。

 マリーは絵を見物しながら歩いていると、一際、人盛りができていた暗い部屋の情事の絵で立ち止まり、マリーはなんとなく切なくなったのだった。


 作者はきっと愛してる人がいるのだろう。


 偽名だったため、女か男かわからないが、その絵に愛する一瞬の時間を閉じ込めていた。

 絵の女が泣いているのが綺麗だった。絵の男もそう思っているのだろう。

 嬉しそうに僅かに口角を上げていた。生きているような絵だった。


(素敵な絵が並んでいるなぁ。さすが王都)


 マリーは、大理石の床をゆっくりと歩きながら、ふと思う。


(そろそろ、帰らなくちゃ)


 帰還命令は既に出ている。

 魔物件については、残るは数えるほどの魔物だけらしい。 

 しかし、その中に一筋縄でいかない人物がいるそうで、特に能力のないマリーはお払い箱のようだ。

 その人物は、大元の原因らしく、王城の地下にある古代の魔物が封印された本を盗み、魔物をニコルのような魔法の才がある者たちにばら撒いた犯人である。


(夏には修道院に帰る。絶対。……殿下の事もあるし。ここは、私がいつまでも居てはいけない場所だわ。この前は殿下から逃げちゃったけど、しっかりしなきゃ)


 リシャールはマリーに再会してから、3日経った。

 あの舞踏会から、妙に彼はマリーに接近してきている。

 危ない空気を感じたマリーは、逃げるように舞踏会が終わると同時に侯爵邸に帰宅した。

 その次の日も、昨日も、用もないのに散歩に誘ってきたり、食事に呼ばれたりした(断れず参加はするが、さりげなく理由をつけて早々と帰宅)。

 あのまま行けば、いつにない本気? の彼にお持ち帰りされそうな気がした。

 

 ちなみに、リシャールが帰ったきた次の日に、マリーはテオフィルに呼ばれて話を聞いたのだ。

 テオフィルはまずは、サラに関するお礼を言い、昇進試験は合格だと告げた。

 後のことは、試験に出来ない内容であるから、テオフィルがフレッドたちと片付けると言っていた。

 もう事態は簡単な魔物を封印する程度ではなく、試験の範疇を超えて、危険を伴う特殊任務になっていたのだ。


 テオフィルは『何故か、兄さんが続々と魔物回収していてね。あの調子じゃあ、修道院からは封印魔法が使える派遣の修道女とフレッドだけで事足りそうだよ。でもあの兄さんが今更やる気になるなんてね。世の中おかしなことが起きるものだね』と笑っていた。

 リシャールは血抜かれ事件で自分が犯人だと疑われることが目に見えていても、事件に対して興味を示さなかったのに、どういう風の吹き回しか、最近は行動は単独だが協力的らしい。とても不可解な話だ。

 

 ただ、事態はもうマリーの関わる案件ではないことは明確だった。  


 テオフィルは『もし、君に少しでもその気があるならいつまでも居てくれていいんだよ。まぁ、君が決めることだけど。……もし、帰れたらの話だけどね』と意味深な事を言って話は終わったのだ。


(あれは、どういう意味だろう)


 帰るも帰らないも、修道女であるマリーがいつまでも侯爵令嬢のフリなんか出来ないし、修道院に帰るのが真っ当な道筋というものだ。

 ただ、今すぐ修道院に帰らないのは、絵画のコンクールがまだ終わってないという事と、何も出来ないけれど出来る事なら今回の事件を最後まで見届けたいという気持ちが強いからだ。

 このまま、中途半端に、何もせずに、リシャールの力で昇進して、修道院に帰るなんて事はできない。

 ユートゥルナにも、コンクールが終わる頃まで滞在したいと手紙を書いたところ、それ以上の期限を延ばさない事を条件に承諾してもらったのだ。


(綺麗にお別れしなきゃ)


 はじめから決めていたことだった。

 それがせめてもの、マリーなりのリシャールに対する愛だった。


(大丈夫きっと、できる)


 失恋とも違う、恋の終わりだ。

 この前みたいに逃げない。いや、今までずっと逃げてきたのだ。

 出会いから今の今みで、ずっと。

 たまに少しだけ向き合っても、リシャールにはぐらかされて、あやふやのまま来たのだ。

 ちゃんと話し合えば、あのリシャールも追いかけては来ないだろう。


 身体の関係は最後まで結ばないつもりだ。ただ一度も。


 どんなに名残惜しくても淡い綺麗な恋で、関係で終わらせるのだ。

 数年後、いや数十年後に、優しい気持ちでアルバムを見るような思い出として終わりたい。

 それがマリーの願いだった。



********



 その日の夕暮れ時。

 日中、一昨日の雨が嘘のように、空は晴れていたので、太陽が沈みかけた頃には、紅い夕焼けと群青を織り交ぜたような美しい空模様だった。


 マリーは珍しく自らリシャールの執務室を訪ねた。

 西陽を背に佇むリシャールは誰よりも綺麗だった。男なのに、息を飲むくらい綺麗だったのだ。

 金髪は茜色に輝いていたし、瞳は深海のように落ち着いた色。

 表情は抜け落ちているくらい無表情なのに、造形が美しい。

 冷たい雰囲気と切なさを混ぜたような空気が漂っていた。


「殿下って、本当に綺麗ですよね」


 特に何をするでもなく、リシャールの顔を眺めながら、マリーは呟いた。

 突然の訪問については何も言わずに、リシャールは答えた。


「男が綺麗とか言われてもな、何の得もない」

「またそんな事を言って……ふふっ、女性にモテるじゃないですか。得ですよ」


 書面から視線を上げたリシャールはふん、と言わんばかりに不機嫌そうに言った。


「好かれるのは、悪趣味な貴様だけでいい」


 リシャールは徐に立ち上がり、ドアの前にいるマリーの所までやってきた。

 マリーに、実に不快そうに眉をひそめた冷たい表情が降り注ぐ。


「凝りもせず人の顔の事ばかり言うな」

「すいません、つい……」


 別に顔だけ好きと言うわけではないが、マリーは弁解しない。話がややこしくなって、顔以外にどこが好きだとか話し始めたら告白みたいになってしまう。


「……あの、殿下。この前のことといい、殿下は、何者なんでしょうか? ……最後に教えてくれませんか?」

「最後?」

「ええ。だって、もう任務は終わってますし。ローゼは終わりです」

「終わり、か……なるほど」

「心配しないでください。私は秘密を知っても誰にも言うつもりはないです。あ、でも、嫌ならいいです。誰にでも言いたく無い事はありますし」

「貴様の話は矛盾してる」

「そうですね、でも、そうなんです。……どうしても、最後に、少しでもあなたの事が知りたくて。それが、正直な気持ちです」

「……そのうち話す」


 マリーは、そのうち、と言われても、マリーには時間がないから、その時は無いかもと悟る。

 マリーは「ありがとうございます」と言い、リシャールの顔を眺めていると、「やっぱりいい顔だなぁ」と独り言のように呟いた。

 そして、マリーは「殿下は絵になります。みんな惚れ惚れさせる才能ありますよ、自信を持って下さい」とくすくす笑った。


「……」


(大丈夫。ちゃんと言える。しっかり向き合える)


 マリーはこの数ヶ月の愛しい日々に、リシャールに感謝して、彼の幸せを願って背中を押してあげれると思った。

 マリーは優しく、リシャールに微笑んだ。

 お別れは寂しいが、泣きたい気持ちで胸が一杯だが、きっとこれが正しいと言い聞かせて。

 修道女は恋をできない。恋する人ではない。

 一度、死んで、世間から離れた身。


「これから殿下は、きっと素敵な人に出逢えます。身分も釣り合って、能力ある魅力的な方が現れます。……私にはそう思うんです」

「……」

「そしたら、殿下は本当にその人が好きになって、恋に落ちます。そして」


 2人は国を守っていく、とマリーは言い終わる前に、「黙れ」と、冷たい声でリシャールは話の腰を折った。


「後悔なくたった一人を愛し切るのも大変なんだ。何度も簡単に恋なんか落ちるか。それなら、世の中悲恋は流行らない」

「……そうなのかもしれませんね」


 マリーは自信なく、頷いた。

 ただ、言えるのは、自分はふさわしくはないと言う事だ。


「貴様に分かるものか」


 リシャールはいつになく物憂げに目を細めた。

 リシャールはそのまま屈んで、マリーに口付けた。

 

「……え」


 マリーには低い温度のものが触れた時、それが何だか瞬時には理解できず、二度目の噛み付くような深い口づけまで意味がわからなかった。


「……はっ」


 息継ぎすらままならなくて、呼吸が乱れる。

 やっと唇が離れた時、リシャールはマリーを抱き締めたまま、マリーの髪を、背中を腰を撫で、低い声で言った。


「私が毎夜貴様に愛してるだとか、好きだとか愛の言葉を囁いたとしても、貴様にはそれが届くとも限らない。ほら、こんなに赤めて、期待させるような顔をしていても、貴様は違うなどと言うんだろう。絵の題材として好きとか言う。……それだから、難しいんだ」

「ちょっと殿下……こんな所でだめです。ちょっと冷静になってー」

「部屋なら良いのか? いつならいい? 夜になればいいか? ……そんな事ばかりいって、貴様は」


 マリーはいつものように振り払った。

 このままでは、物事がまた振り出しに戻ってしまう。

 今日こそは、しっかり話し合いたいのだ。

 恋人ごっこはもう終わったと。だから、さようなら、と。

 しかし、リシャールは離してくれなかった。


「貴様は、私のそばに居ればいい。修道院なんか戻ったところで何になる?」


 マリーは、リシャールの言葉がまるで『修道院は役立たずなマリーを必要としていない。だから、可哀想な貴様は私が生涯面倒見てやる』と言っているように聞こえた。

 マリーは、そう聞こえるぐらい、修道女としての自信がなかった。

 マリーは込み上げてくる思いを、どうにも止める事ができず、リシャールに強く言った。


「どうせ私は役立たずです! でも、そんな私にもできる事があるって、殿下が教えてくれたんじゃないですか!」


 初めて会った日、リシャールはマリーの絵を褒めてくれた。

 次に会った日、リシャールは、これからの未来に必要な人材だと言ってくれたのに。

 リシャールはどうしてマリーの能力を信じてくれなくなったのだろうか。

 マリーの事を、ただ1人認めてくれたのに。

 マリーは色んな意味で今すぐ泣きたい気分だった。


「あのな、話を聞け。あそこはーー」

「いい思い出で終わらせて下さい。それに私にだってわかります。地味で取り柄のない、魔力の少ない修道女に、私にできる事は限られてくるって。でも、それでもいいと思って生きてきたんです。今からその生活に戻るのだから、今の私の事は、お願いだから、忘れて下さい……!」

「……」



 リシャールはその言葉がかんに触れたのか、マリーの手を抑え、壁に彼女を貼り付けるように追い詰めた。

 いつになく、リシャールの動作は荒々しく、切迫感すらあり、なんだかんだ言って優しいリシャールの、いつもの感じではなく、マリーは驚きのあまり、目を見開く。


「それ以上言うと、優しくできない」


 絞り出すような声を聞いた後、3度目の口付けは食べられてしまうような深くて甘い、味わうようなものだった。

 長い、じっとりとした口付けの後、リシャールは言った。


「一度だけ、この手を離してやろう。だが、次に捕まったら、貴様の負けだ」


 そう言って、リシャールはマリーの手を離し、マリーは扉からいつものように逃げていった。

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