修道女と殿下
前回、ブックマークしていただいた方、ありがとうございました!
リシャールは定期的にマリーの首を噛む。
がぶっと、かじるように、歯並びのいい歯を立てるのだ。
(ん……痛い)
マリーは噛みつかれる瞬間に彼の息がかかると、身体がぞわりと不思議な気持ちになり、顔に熱が昇る。
やはり、簡単に慣れる事はない。
他の人がどうやって、甘い痕を残すのかは知らないが、甘噛みの延長に肌に吸い付き、彼女の白い肌に赤い花を残していくのだ。
リシャールは、いつもマリーなんて気にも留めないように、そっけなくひたすら公務をこなしているのだけれど。
彼は時期を正確に見定めて、そう、ちょうど前につけられた痕が治りかけている頃合いを見て、予告もなく、いきなり傍までやってきて、首元まであるドレスを肌だけさせて、キスを落とすのだ。
こうなったら、止まらない。
唇はまともに触れたことがないのに、おかしな話だ。
マリーも初めは抵抗したが、力でも魔法でも敵うわけでもなく、『貴様は信用に値しない。悪い虫がついてないか確認しているだけだ。ひどくされたくなかったら、動くな』と言いくるまれて、執務室に通うようになって、半ばこの行為が日常になっているのが怖い。
マリーにも非がある。仮にも婚約者である彼に対し、内緒で娼館に潜入捜査したこともあった。きわどいドレスを着て、客引きの真似事をしたこともあった。
自分は他の女性に比べて地味だし、色気もないし、と高を括っていたせいもあった。だって彼女の今までの人生は異性と関わる事があっても、それは友情や知り合い、仕事仲間程度で、恋とか愛とか無縁だったから。でも今は反省している。ものすごく。
(世の中にはいろんな趣味の人がいるんだなぁ。こんな私でも、求めて来る人がいる。初めはこんな綺麗な王子様に……まさか自分なんかが、気にいられているなんて思わなかったけど)
執務室のソファーの上でリシャールはマリーと向き合うような形で彼女を抱きかかえ、首元に顔をうずめていた。
付けた痕にちゅっ、とキスしてから、肩までドレスを下ろし、3つ目の痕をつけ始める。
今はただ、大変迂闊に行動していた過去の自分を諫めたい気持ちでいっぱいだった。
(昼間から、何やってんだろう)
そう。時刻はまだ14時。
窓辺から入って来た日差しが、リシャールの淡い金髪を輝かせている。
いつもは紅茶を嗜んで、くだらない事を話している時間だ。
生憎、今日は誰も執務室を訪ねてこない。こういう日は必ず、誰も来ないのだ。
「……私って、おいしいですか?」
飽きもせずに、耽るリシャールに聞いてみた。特に考えもなく、なんとなく。
リシャールはすこし経ったあと顔を上げて、そっけない声で答えた。
「とても」
短い会話。
馬鹿な会話だ。いつもに増してくだらない。
「そんなに?」
全然美味しいと言っているようには聞こえないけど?
リシャールの澄ました綺麗な顔は崩れていないし、とても落ち着いた表情なのだ。こんなことをしている顔じゃない。
まるで紅茶を啜っている時ぐらい、何ともない顔で身体にキスするところが彼らしい気もする。
「そうだな、どれくらいと言われれば……全身にかぶりつきたいくらい」
でもリシャールの何気なくいう言葉は、物騒だ。
それも彼らしい。いつも通り、言っていることと、やってることと、表情がどこか噛み合わない。
そのどこかに上手く本心を隠しているのだろう。
「痛いのは嫌です」
「手加減している」
「あ、そうですか。ありがとう、ございます……?」
また、沈黙してしまう。
まぁ、べらべら話す場面ではないので、当たり前なのだけど。
マリーはとても落ち着かない。そわそわする。
向き合う形で、座ったまま彼に抱き抱えられているので、必然的にリシャールの肩や首に手を回し、姿勢を支えるしかない。この密着感が慣れない。そして特に意味もなく、口は動く。
「……その、さっき、ちょっと走って、汗をかいたから……私って、やっぱり塩味でしょうか?」
「塩味……まぁ、確かにそう言われてみると」
やっぱり少ししょっぱいらしい。別に自分の塩気を確認したいわけではないけど。
「殿下。……もし、仮にですよ。私の汗で塩を作ったら食べます?」
「……馬鹿か、貴様」
リシャールが夢中にマリーの肌に口付けるから、『もしかして私って彼の好みの味かも?』と思って聞いてみたのが効果があったらしい。
その時だけやけにリシャール呆れた声で、しかも顔を気まずそうに上げたので、『勝った!』とマリーは思った。やっとその澄ました顔から表情を引き出せた、と。勝負していたわけでもないけど。
ちなみに、マリーは、リシャールに抱きしめられるのは嫌いじゃないし、彼と居るのも心地よい。
彼の顔は相変わらず整っていて冷たそうだけど、造形は先日会ったテオフィルにどことなく似ていた。
(性格は全然違ったけど)
テオフィルはなんだかんだで兄想いだった。
兄であるリシャールが今回の事件に関与が疑われており、とても心配していた。兄のために、修道院に依頼するくらいに。
実際、リシャールはひどい嫌われようだ。王族の悪は、すべて彼の仕業だと思い込んでいる民衆もいる。
(ほんとうに……綺麗)
マリーは顔をうずめる彼の淡い髪に触れ、指で梳いた。さらさらで金の糸の様な綺麗な髪だった。
怖い人だと知りながらも、時々愛おしくてたまらず触れてしまう自分が居た。
「何か、考え事か?」
やけに部屋に響く、掠れた低い声だった。
この情事ですら、キスすらしない人のささやかな独占的行為中に、余計な事を言いまくった挙句、またしても要らぬことを考えていると思っているのか、不服そうに眉根を寄せてマリーをのぞき込んできた。
「いえ、ただ。先日、仕事で殿下の弟の、テオ様に会ったのですが」
「テオ、様?」
「テオ様は確かに殿下と似ていたんですが、兄弟なのにやっぱり違うなって思って」
人の経歴を年表にする趣味は似ているかもしれないが、本質がまるで違う。優しそうで、思いのままに行動するテオフィル。身勝手そうでどこか優しいリシャール。どっちがいいとかではないけど。そんな気がする。
「やっぱり、私が描きたいのは殿下だけですね。あ、美人は別腹ですよ」
マリーはそもそもあまり男性が好きではなく、風景として人々を描く事があっても、単体に男性を描く事はあまりなかった。
しかし、女性は違う。柔和な微笑みも、身体の優美な曲線も、ふとしたしぐさも美しい。神聖だ。
女神のモデルになる女性は美しいし、みんな違った良さがあるので、描きたい気持ちは常にある。でも、男性でありながらも、こんなにも描きたくて、いつまでも見つめていたいのはリシャールだけだった。
「殿下? 固まってどうしたんです?」
リシャールに半ば襲われながらも、不思議な事をいうと自分でも思う。リシャールは少し首をかしげていた。
「貴様、テオは名前で呼ぶくせに、私を描きたいとは……意味が全く分からない」
「だって……殿下は殿下でしょう?」
「テオだって、テオフィル殿下で、あいつの嫁のサラ姫もサラ妃殿下じゃないか。みんな殿下に変わりない」
「そうですね。言われてみれば。私としてはこだわりがないと言いますか、特に意味はないですけど」
リシャールだって『貴様』と呼ぶのが常だ。たまに『ローゼ』というこのマリーの偽名を呼ぶくらい。
リシャールとっては、マリーは修道女でない『ローゼ』。
マリーとってリシャールは、いつも『殿下』である、王子様だ。
リシャールは、マリーの偽名である『ローゼ』という人物を愛しているのだから、彼にとってマリーは最後まで『ローゼ』だ。
いつか必ずくる別れの時まで。魔法が解けるまで、それでいい。
甘い時間もやがて、綺麗で鮮やかな思い出になるのだから、今はただ、身を任せて、水面を漂う魚のように静かな時を過ごしていたい。
マリーはそう思う様になっていた。
相手の呼び方とか二人の将来とか、細かいことは、現実を共に過ごす相手と話せばいい。
「呼び方ってそんなに大事でしょうか?」
「……」
「殿下は出会ったころから殿下で、私はローゼという令嬢だから、このような場合は今まで通り――」
「もう、いい。黙れ」
そう言ってまた首元に歯を立てた。
その日はいつもより、その時間が長かった気がするのは気のせいだろうか。
********
闇夜に鼻歌を歌う人がいた。鼻歌なのに、ひどく甘い声だ。
彼はらしくなく、鼻歌混じりに上機嫌で、誰もいない街外れを歩いた。
先ほど飲んだワインで酔ってしまったのかもしれない。
その原因はそのワインが彼の好きな女が生まれた年に作られたものだったからだ。
だから、彼はつい嬉しくなって、彼女に口付けるような気分になって、飲みすぎた。
連れの男は、いささか怪訝そうに彼を見ていた。
今日の会食はもうお開きで、彼は今回もまた素晴らしい仕事をした。今日はだいたいの面子との交流がもてたし、次の仕事も、いつものように成功させるつもりだった。
今年も素晴らしい作品が揃った、と仲間と話していたから、彼の仕事は非常に順調だった。
「なんでそんなに嬉しそうなんだ。気味悪い」
そう言いつつも友人は彼を馬車に乗せて、『また明日』とだけ言って去っていった。
彼は馬車に揺られながら、思う。
(誰もいない部屋で、君の大好きな絵画を沢山飾って飽きるまで語りたい。もちろん、会えない間に積み重ねた、僕のささやかな功績も添えながらね。そして、君の深い色をした瞳を見つめたい。綺麗な爪の形の、長い指に、僕のペンダコが出来た指を絡めて、細い腰に手を回して……)
彼はただ朝まで彼女の細い体を抱きしめて、夜が明けるまで愛を伝えたい気持ちだった。
そんなことを考えているうちに、馬車は彼の家に着いたようだった。
馴染みの使用人が玄関で彼を出迎えて愛想らしく微笑んでいた。
「とてもいい事があったようですね」
「うん。とても、いい気分だ」
クスクス笑う彼は一瞬、自分でも笑えるぐらい、これ程ないくらい妖しく、笑った。
彼は使用人に、つい、『遠い昔に諦めていた彼女に、また会えるかもしれないから』と言いそうになりつつも、胸の内に言葉をとどめて、自室に入った。
しかし、やはり我慢できなくなり、熱に浮かれる様に舞い上がり、一人で朝までスッテップを踏んだ。
「ふん、ふーんふー、ふふっ♪」
狂気的に。
ありがとうございました。




