抱きしめて、囁いて、それから私は
ブックマーク、評価、感想を頂き、とても嬉しく数日過ごしてました。ありがとうございました!
(こんなの絶対におかしい)
あたりは薄暗く蝋燭の火が揺れて、朧げに辺りを照らしている。
ざぁぁっと掛け流しになっているバスタブから芳しい入浴剤の香りが立ち込めていた。
ここは娼館で、恋人の真似事をするところだ。
客がお金で時間を買った事を忘れ、甘い夢に浸れるように、立ち昇る湯気からする薔薇の香りは冷静な判断を鈍らせる。
(間違っている、絶対。だめ)
バスタブと反対側の壁沿いに置かれた寝台で事は行われていた。
修道女であるマリーがこの国の王子であるリシャールに組み敷かれていたのだ。
リシャールは屈んでいるため、彼女の足の間に彼の綺麗な顔あった。彼は大腿部に手を添え、何度かその白い足に口付けた。
(調子に乗りすぎだよ、殿下)
マリーは娼館での潜入捜査でターゲットを待っていたら、なぜかリシャールが来た。そして何思ったか逆上めいていて、押し倒されてしまった。
仮にもマリーは彼の婚約者(リシャールが勝手に婚約手続きをした)だから。彼に黙って娼館の任務なんかしていたのも悪いのかもしれない。
だからと言って、人の許可なく、女性にのしかかってもいいわけじゃない。
今、犯罪すれすれな状況。
婚約者と言えど、無理矢理は良くない。
(こんな状況、だめよ。絶対だめ! だけどどうすればいいの?)
マリーの困惑した視線を感じたのか、リシャールは顔を上げ、彼女の髪を優しくすいて、撫でて、小柄な体をぎゅっと抱きしめた。
抱きしめられると温かい。
マリーは不覚にもリシャールのたくましい腕にどきどきした。
リシャールは彼女とは全く違う、細くはあるがやはり男性で、筋肉質ながっしりとした身体だ。
マリーは誰かが『氷華殿下は化け物で冷酷で凍りみたいに体に温度がない。人間じゃないから、血すら凍っている』と言っていたのを思い出した。
こんなに温かいのに。
(じゃなくて、ダメよ、マリー。ここははっきり言わなきゃ。どっかのちょろい女みたいじゃない)
マリーはただでさえ抜けている性格なのに、頭も小股も緩い女にはなりたくなかった。さすがにそこまで落ちぶれたくない。
官能小説なら大歓迎なタイプの女の子だが、現実そんなふうに生きていると痛い目をみる。
悪い自分勝手な男に好き勝手されてしまうなんてたまったものじゃない。
マリーはリシャールの事が嫌いではなく、むしろ好きだけど、こういうことは怒りや独占欲でするものではないのだ。
合意の元、愛を確かめ合う行為なのだ。
愛し合うとは、大切な人とより近づき、お互いをわかり合うために肌を重ねるものだ。
「やめて下さい、離して」
マリーは身をよじってみたり、手でリシャールの体を押すがびくともしなかった。
本当は「調子に乗るな! 私をなめるな、殿下っ。私は、ちょろくなんかないんだ!」と言ってその綺麗な顔面に一発くらわしてやりたい。
(でも王子様相手に、たかが修道女の私がそんな暴行はできないわ……!)
だって、マリーは何度もやらかしている。
出会った当初、王子とは知らず魔法を使って犯行に及び謀反(危害を加えるつもりはなかった)。
好意を無下にし、間接的に彼を振って幼馴染と逃亡(不敬罪?)。婚約者になってから彼の元から理由も告げず逃走(脱獄)。
これに加え、今手を上げたら傷害罪までつくかもしれない。
修道女なのにそれは悲しい。
これらの罪はマリーが悪いような、リシャールが人聞きが悪いような気もするが、身分というものは恐ろしい。
たかが修道女のマリーに王子であるリシャールに逆らう術はないのだ。
しかもここは修道院の力が及ばない王都。マリーに圧倒的不利と言えた。
リシャールはにらんでくるマリーの顎をすくって、目を細めた。
口元が意地悪く弧を描いている。
「貴様が泣いて、『ごめんなさい。もう二度と愚行は致しません。勝手に消えません。娼館等、いかがわしい変なところには任務でも行きません。これからは指示に従って生きていきます。結婚誓約書にサインします』と謝って懇願するなら離してやってもいい」
なんだそれは。要求が多くないか、とマリーは呆気に取られた。
しかもリシャールはさりげなく結婚誓約書も要求してきている。
この状態で、組み敷いて強要するなんて鬼か。
やっぱり頭がおかしい。おかしい。おかしい。いかれている。
頭のねじがどっかに飛んでいる。全然紳士じゃない。
一緒に仲良く教会で親していた優しいあなたはどこに消えた、とマリーは疑問が絶えなかった。
「……結婚しなければいけませんか?」
「……何が言いたい」
「好きなだけじゃだめですか? 殿下の事は好きですが、好きだからこそ、遠くで思うだけじゃあだめでしょうか」
それがマリーの正直な気持ちだった。
王子と修道女。
そんな恋愛、純愛で終わらせるのがお互いの為。
「それも、愛ではないのですか?」
ひと時の恋に溺れて、事を進めたあとの後悔ほど取り返しがつかないものはない。
「それも相手を思う気持ちであり、愛というんだろう。それが、できたらそうしている」
マリーはそれがどういう意味だろうか、と不意に考えてみた。
それが出来ないほど愛している?
一方的に、自分の思いを通してまで?
マリーの知るリシャールはそんな人物ではない。
彼女を尊重して、応援してくれる。手助けしてくれる。
社交界デビュー前もそうだった。
マリーが上手く出来ない時は少しのヒントと、練習の手伝いと、時には褒めてくれる、リシャールは彼女にとって頼りになる人だった。
こんな自分勝手に強要する人ではない。
それとも恋と言うのはそういった性格や理性さえも捻じ曲げてしまうのだろうか。
リシャールは憐れむように、マリーを見つめた。
「あんなところでも、貴様が帰りたいなら意思を尊重すべきだろう」
あんなところとは修道院の事だろうか。マリーにはそこしか帰るところがない。
「それができないから、私は……頭がおかしいんだろうな」
そう。おかしい。
自分で気づいているではありませんか、とマリーは言いたかったが王子相手に言えなかった。
リシャールは伏目がちにつぶやいた。切れ長の瞳を縁取る長いまつげが綺麗だった。
(綺麗)
こんなにきれいな人はいないってくらい、彼は美しい。
こんな状況でも、何をしていても、綺麗だからマリーは困るのだ。
でも、お互いの事を思うなら、流されてはいけない。毅然とした態度で、主張しなければいけない。
あなたは間違っていると。
「あなたがしている事は、脅迫ですよ」
マリーがはっきりとした口調で言う。
それに少し驚いたのか、少しの間をおいて、リシャールがなんの表情もない顔で答えた。
「その通り。狂っているな」
なんと非を認めている。これはチャンスかもしれないとマリーは思った。
リシャールは少し正気に戻りかけている。
リシャールに対して不敬がなく、彼から気づかせる方法しか、マリーが無事で済む可能性はない。
リシャールは泣く子も黙る氷華殿下だ。
マリーは魔法や力ではかなわない。
催眠作用があるお香も、もう5分以上たっているが、リシャールには効いていない。
指輪とかピアスとか、魔法石をあしらった魔器をジャラジャラつけているからだろうか。術が無効になっていのだ。
でも、そんなことはどうでもいい。
この謎だらけの規格外の王子様に力でマリーは敵うわけはないのだ。
だったら、言い聞かすしかない。
マリーは優しく微笑みかけてリシャールの手を握る。
(あと一押し。目を覚ますんだ、殿下)
私は修道女。恋愛の対象ではない、とマリーは主張したかった。
「だから、ねぇ、殿下。こんな不毛な事はやめましょう?」
「いや、やめない」
「え、話ちゃんと聞いてました?」
「もちろん。狂っているという話だろう。だから、貴様が責任とれ」
「……は?」
「こんな私にして、さようなら、はないだろう。無責任はよくない」
リシャールの言っている意味が分からない。
別にマリーはたぶらかしたり、ひっかけたり、弄んだりしてはいない。
言われる筋合いもなかった。
むしろ、こっちが謝って欲しいくらいだ。難癖ばかり付けられている。
「正直、結婚に関しては誓約書もサインもなくても大丈夫だ。私が貴様の戸籍をかえるから、書類はいらないんだ。貴様の両親に挨拶もしたし。まぁ、形だけでもサインくらいほしい気持ちもあったが、貴様はなかなか強情だしな、諦める」
すこし悲しげで残念そうな顔だった。いや、そんなことはどうでもいい。
「何勝手に戸籍操作しようとしているんですか!」
マリーの個人情報保護はどうなっているんだろうか。
王子だったら国民に何しても許されるのか。
というか、両親って、マリーの父様たちに会いに行ったってことだろうか。だいたい、いつ行ったんだろうか。
マリーは思った。
(私だって久しく帰ってないのに、何で殿下がお父様たちに会ってるの?)
マリーはこの謎な状況に混乱していた。
「ご、ご冗談を……」
「私は王族だしな。それくらいその気になればできる」
リシャールは悪気もない様に当然だと言わんばかりだ。やっぱりだめだ、この人。話が通じない。
マリーもマリーだが、彼も彼だった。
マリーを部屋に閉じ込めて、修道院に返さないところか無理矢理押し倒している。
王子でなければ、誘拐罪、ストーカー容疑、今なんて強……いやそれ以上言ってわいけない。
そんなことさせてはいけない。罪が増える。
リシャールは話が終わったと判断したのか、何もなかったようにぎゅっと抱きしめて、マリーの頭を愛し気に撫でている。
「な、なんで……」
マリーの何度目かの問いかけに、リシャールは意外そうな声で答えた。
「何故って?そんな事がわからないのか?」
だっておかしい。いろいろおかしい。
恋愛をした事が無いから分からないが、なぜ彼がいつ、どのような時からマリーに惹かれたとか全然真相が分からない。
どんどん進む結婚話も理解できない。
そもそも結婚は合意がないとできないのではないのか?
権力さえあれば、思い通りにできるのか?
疑問が疑問を呼ぶばかりだった。
「もし小動物……いやもっとわかりやすく言えば……犬とか猫がいたらどうする?」
おまけにいきなりリシャールが話の内容が見えない素っ頓狂なことをいいはじめた。珍しい。
やはり頭のどこかがおかしくなったのだ、とマリーは確信する。
リシャールはマリーを押し倒して、足にキスしまくって、ベタベタ触って、抱きしめて、それから猫がどうしたというのだ。
全然関係ないだろう。
「ね、猫、ですか」
これと猫がなにが関係あるというんだ。
「そう。じゃあ猫ということにしよう。ふわふわな毛並みで愛くるしいくりくりな瞳の猫。呼ばなくても私の姿が見えれば駆け寄ってくるくらいなついている。ちなみに野良猫同然だったが最近拾って買い始めたという設定だ」
妙に凝った設定である。リアルだ。
「野良でかわいそうだったから保護した猫ってことですかね。飼ったからには責任がありますし」
「だろう? 貴様なら、その哀れな野生生活の抜けないが一人でも生きていけない猫をどうする?」
どうする? なんて、組み敷いている人間が聞くことではない。
しかし、マリーもすこし抜けている。
状況を一瞬忘れ、不可解な質問について、わりと真剣に考えて答えた。
「そりゃ可愛がりますね。ふわふわなら撫でたいし、一緒に遊んであげたり、ちゃんとご飯あげたり」
「だろう。世話しないとな。毛並みが悪かったら櫛でといだり、ストレスが溜まらない様たまに外に出してやったり。では、飼っている猫が何かの拍子に逃げたらどうする?」
「そりゃ、捕獲しますよ、危ない目に合ってたら大変ですし、心配だし」
「そうだろう。家に帰ってこない内は、野放しにできるのは庭までだ」
「これが何の関係あるんです?」
マリーには全然話の意味がわからない。なんの話だろうか。
「例え話だ。危険な目に合わないよう目の届く場所にいてほしいし、ちゃんと世話……衣食住の面倒をみたい。生きている限りは守ってやらないと」
「……?」
「まだ、分からないか。分かりやすく、私の心情を伝えてやったのに」
「まさか、その動物の例えって……もしかして私でしょうか?」
「貴様以外誰が居る」
「さすがに動物はちょっとひどくないですか」
「野生でしっかり生きている動物の方がすごいと思うぞ。貴様が今まで無事に生きてこれたのは余程運がよかったんだ」
何と失礼な、とマリーは思った。
しかし、修道院でも殆ど外に出してもらえず、閉塞的環境下、誰かに守られていたと言う事は否定できなかった。
「あんな小説読むぐらいだ。……こんな仕事までして。だから、こうやって、相手をしてやっている」
下世話。究極の下世話だ。
そんなこと、マリーはリシャールに心配されたくなかった。
(いやいや、別に体験したいわけじゃない!未知の世界で興味があるけど壁に聞き耳立てていたけどさ)
リシャールは続ける。何とも言えない困惑した顔で。
「ひどい内容の小説だった。読んでいられないような。挿絵ももはやあれは……あんなものを読むなんて、貴様が心配になるよ」
「小説はファンタジーなんです! ち、ちなみにど、ど、どれを見たんですか?」
官能小説の題名はたいてい過激だが、もしリシャールが発見したのが『巷で有名な凍えるほど冷酷な王子様は欲求不満のようで、乳首をつねってあげたら惚れられたのですが、面倒なので…以下省略』だったらどうしよう。
あれは悪意からか、リシャールがモデルなのだ。
サラの小説だったら彼女の命は危ない。
不敬罪どころか、断罪、いや死刑じゃないか。
「どれって。あんまり題名言いたくないやつだ」
サラ、アウト。さぁ、一緒に修道院に逃げましょう。
リシャールはため息をつく。深く、深く。
「貴様は本当いろんな意味で見るに堪えない」
「もう私の事は忘れて下さい!」
マリーはあんな小説読んでいたと思われるだけで死にたいほど恥ずかしかった。
しかもリシャールにばれるなんて。
なんでかこの王子様にはマリーの日常生活が筒抜けなのだろうか。
それにまさか動物に例えられるとは思わなかった。
それじゃあ女とか修道女以前に、人間として認められていないじゃないか。
四六時中監視されているのかもしれない。
マリーの人権を返して欲しい。
プライバシーも返却願いたい。
「忘れられるわけないだろう。今まで出会った中で一番愚かな貴様を」
ふふっ、と笑い、マリーに顔を寄せ、頬ずりまでしやがる。
(すりすりしたいくらいお気に入りじゃないか、私)
リシャールは抜けたタイプの人間が好きなのかもしれない。趣味が悪いことはわかった。
リシャールはこの場に及んで、キスはしないけど、頬ずりする時点で調子に乗っている。
からかっている。それだけは解った。
「やめて、離してください」
「嫌だ。無理」
「いやです、無理! これ以上辱めないで!」
暫くじたばた暴れていると、指輪をはめていたため、異変に気付いたジャンが慌てて入ってきた。
ばん!と豪快に部屋の扉が開く。
「マリー! 大丈夫か……ってリシャール君?」
女装姿のジャンと押し倒しマリーに頬ずりするリシャールの間に妙な沈黙があった。
「ひどい格好だな、ジャン」
「お前もいろいろ大変なことしはじめたな。……あ、悪かったね、お邪魔しました。ごゆっくりー」
ジャンは何かを察したのか、退散した。
(ジャン先輩!助けてよ!)
あれほどマリーを心配して、変態に会ったら助けてくれると言ったのに。
マリーは上司に見事に裏切られた。




