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君ほど、憎いものはない

(殿下は……なんで私がローゼだとわかったの?)


 湯気が立ち上る娼館の一室。

 マリーは浴槽のふちに腰かけ、足を湯に浸していた。

 今日はもうターゲットらしき人物は現れまいと、高を括っていた頃。時刻は最終入室時間の1時間前。

 あと1時間で犯人がやってきて、接触する可能性は極めて低く、諦めかけたその時だった。


 リシャールは、マリーが人生で出会った中で一番美しい人物だ。

 目の前の彼は、黒髪ではあるが、整い過ぎて冷たく見える顔や、不機嫌そうな口元、陶器のような白い肌に、肩幅はあるのにすらりとした肢体の、麗しいところは変わらない。

 マリーのいつも心の中にいるリシャールだった。姿形を見なくても描けるほどだ。マリーが彼を見間違えることなんてない。

 

 リシャールは形のいい眉をひそめて、マリーを見下ろしていた。

 実に憎らしげに、恨めし気に、切なく。


「もう一度聞く。こんなところで今から何するつもりだ? ローゼ」


 低く甘い、腰に響く吐息のような声にマリーはどきどきした。

 眼差しは氷のような冷たい色なのに、響く声はどこまでも優しいから訳が分からなかった。


 リシャールは確かにマリーを見て、いつものようにローゼと呼んでいた。

 マリーが王都で任務に就いてから、名乗っているローゼという名前。

 もともと生を受けた名前は、マリーローゼリーという名前であったが、修道院や教会関係者は洗礼名であるマリーと呼ぶ。

 だから、ローゼと呼ぶのは令嬢としての偽名として、近頃社交界で出会った貴族とリシャールくらいだ。


 昔、伯爵令嬢だったころ、「ローゼ」というあだ名で呼ぶものもいたが、今はマリーと呼ばれるのが普通。


「どうして……」


 確かに、ジャンに魔法をかけてもらったはずなのだが。

 それはマリーがマリーだと気づかない洗脳系の魔法だ。

 しかも、王城に居るはずのリシャールがなぜこんな娼館に変装までしてお忍びで来るのか不明だった。

 王子である彼が娼館なんて用があるわけない。


 しかし、マリーはリシャールの部屋から逃げて、こんな如何わしいところに居るのはなんだか、……とても不味い気がした。

 仮にもマリーは彼の婚約者をしているのだ。

 仕事で娼館に来ているのだが、彼には事情を説明していないし、これは浮気になるのだろうか、と少し心配した。

 リシャールの表情があまりにも憂いを帯びていたから。


 リシャールはマリーに歩み寄り、屈んで視線を合わせてきた。

 冷たい人形みたいな顔に数秒見つめられると、マリーの背中を冷や汗が伝った。

 足湯して暖かいはずなのに。

 すると、リシャールは何を思ったのか、にこにことした笑みを浮かべた。すごく違和感があった。


(おかしいわ……これは何かが変だわ。表情が変)


 この場において普段笑わない人が笑うと言うのは不気味以外何物でもなかった。


「ローゼ」

「う……!」


 マリーがぎょっとしてのけぞると、リシャールが浴槽に落ちまいと腰を抱き寄せてきた。


(身体が密着してる! 顔が近い。にこにこした顔が怖い!)


 マリーの顔が引きつるがお構いなく、リシャールは彼女を横抱きにして、寝台まで運び、座らせた。


(抱っこされた、ベッド? ……え、何、この展開)


「そんなに驚くことないだろう。私はお化けか?」

「だって、私、魔法で……」

「ああ。でもわかる。術は完璧だ。大丈夫だ」

「ではどうして」

「どうしてだろうな? ああ、でも貴様がどんな姿になろうと見つける自信はある」


 リシャールはなぜマリーだと認識できたか教えてくれないようだ。

 術をかけたジャンは神官だし、術の落ち度はないはず。


 それにリシャールはさっきからずっと、不気味ににこにこ笑っている。

 いや、見た感じはこれまでにない爽やかな笑顔なんだけど、なんとういか、マリーの頭の中で「これは危険だ!早く逃げろ、全力で!」と本能がそう言っているのだ。


 とって食われるわけじゃないけど、めちゃくちゃにされそうな、怖さがあった。

 だって、リシャールは怒りを通り越して笑っているのだ。


「殿下、その髪。それになんでここへ……」

「さすがに一国の王子がこんなところ普通に来れないだろう」


 リシャールは社交の場にめったに出ない為、一部の貴族を除いては顔がばれていないので、染めるくらいで十分変装になりうるのはわかる。


「私がここに居て悪いか?」


 リシャールは近くの棚から何枚かリネンを取り出した。

 マリーが腰かける寝台の横に座り、そっと大切な物に触れるような感じでマリーの足首を持ち上げ、自身の膝の上に乗せた。

 マリーの足についた水滴を丁寧に拭き始めた。


「殿下……?」


 短い丈の薄い生地のワンピースからは膝も太ももの半分くらい丸見えでマリーは羞恥心で戸惑った。


 リシャールはお構いなく、指の間から膝の裏、足の内側までなぞるように優しく水滴をタオルにからめとっていった。

 マリーは王子である彼にこんな事をしてもらうだけでも、悪いことをしている気がした。

 拭くために足を支えているもう片方の手が熱く、彼の体温を感じ、変な気分になる。


「貴様こそなんでこんなところにいる?」

「……これは仕事で」

「仕事か。そうか、それは仕方ないな」


 怖いくらいすんなりした答え。

 仕草は優しいし、乱暴な雰囲気もない。

 笑った時は身の危険を感じたけど、思い過ごしだったのかもしれない。


「殿下はなぜここに? 古代の魔術で反応が無ければここには来れないはずなのですが」

「壊れているのかな。私に反応したらしいぞ」


 そんな馬鹿な。

 あれは最高級品の魔法石で作ったものだ。

 間違えるはずがない。

 リシャールが犯人で古代魔術を使えるか、受付の人を脅したか、不法侵入したかどれかだろう。


(どの方法にしろ、なんでこんなところまで殿下は来たのだろう……? 私に呆れて見放したんじゃなかったの? それに今日はジャン先輩も付き添ってくれているし、わざわざくる意味ないよね。本当に娼婦になったわけじゃないんだから。こんな娼館通いなんて見られたらまた新聞に悪く盛って書かれるのに)


 リシャールは何でも私生活をスクープする新聞社がうるさいから、普段滅多に外出しないくせに、今日は娼館にのこのことやって来た。珍行動だ。


「おや、疑っているな? 大丈夫、金なら払った。正当な取引で来たし、やましいことはない。誰も脅したり、殺したりしてないから安心しろ」

「そうですか、平和的に来たんですね、安心しました。そんなくだらない事で手を血で染めなくて良かったです」

「ここは金がすべての世界らしいからな。娼婦というものを知識だけでは知っていたが……実際に来ると、気の毒だな。事情があるとはいえ、こんな世界に生きるのは大変だ、苦労があるだろう」

「……そうですね。私もそう思います。ここは悲しいところです。お金で手に入れる関係なんて……。そんな繋がりなんてなんの意味があるのでしょう?」

「……」


 マリーは経験がないから、身体を繋げる良さとはわからない。

 でも、気持ちが伴わ無い行為ほど虚しいことはないと想像できた。


「しかし、殿下、お金を払ったということは、えっと、そういうことをしに来たのですよね……誰かお眼鏡にかなう女性でもいらしたとか?」


 はじめはマリーを迎えに来たのかと思ったが、お金を払ってきたというのだから、女を買いに来たのかもしれない。

 本格的にマリーに対してはふっきれたのだろうか。


「ああ、いた。お金を払うのは彼女を買うようで空しい気分になったが、こうでもしなきゃ、一生身体さえも手に入れられないんだ」

「なんか訳ありみたいですね。あ、娼婦と王子……これは、身分差ですね、この展開は」

「そうそう。身分差。王子というのが悪いらしい」

「だから、身体だけでもって……悲恋ですね。でも、ここはそういうところなので、お金を払ったら結ばれるんですよね。意思とは関係なく……」

「本当はゆっくり時間をかけてわかり会いたかったが、運命とは無情な物だ」

「ええ。……その子もそういう運命なのかもしれませんね」

「そうかもしれないな」


 すれ違いながらも再会を果たし、思わぬ状況で身体だけ結ばれる。

 恋愛小説みたいな展開につい聞き入り、会話に熱が入ってしまった。

 リシャールはモテるから、以前からそういう相手が居たのかもしれない。


(身分差でも愛する二人は止められないの! ここは私が協力しなきゃ。殿下にはお世話になったし)


 ここは身を引いたマリーは応援するしかないと心に決める。


「ちなみにどこの部屋なのですか、彼女? 案内しましょうか?」

「ここだ」

「え」

「相場の10倍額でこの部屋は3日くらい抑えた」

「は?」


 リシャールは、足を拭き終え、何を思ったのか、むにっとマリーの両頬を長い指でつまむ。


「うん……?」

「貴様を買ったんだ。ここがどこだかわかるだろう」

「娼館ですが……」

「どんなところかちゃんと勉強したのだろう?」

「まぁ……本では」


 リシャールは顔を近づけてきた。

 長いまつげと、深い色の瞳がマリーの目の前にある。

 距離が近すぎて、鼻がいたずらにくっついて、じゃれあうように触れ合った。つんつんと。

 今からキスでもしようかという距離だ。


 リシャールは逃げようと立ち上がるマリーの腕を引き、膝の上に後ろから抱える様に座らせた。

 マリーの肩に顎を乗せ、身体をより密着させてきた。

ぎゅっと抱きしめる力は痛くないのに、びくともしない。


「じゃあ、わかるな。昨日読破したのだから、その手の本はな?」

「……なんで知っているんですか」

「そのスカスカな頭にもまだ内容が残っているうちにしようか」

「何言って……」

「貴様を抱いても合意の上の行為だ。ただ、貴様が困る点というのが1点だけある」


 腰から回された手で腹を撫でられた。

 優しく優しく何度も愛しげに摩られて。

 実に楽しそうに、ふふ、と笑って。


「既成事実後に懐妊したとして、貴様はもう修道院には帰れないな。子供は王族だ」

「え……」

「貴様が悪い。こんな愚行をせず、私の部屋に帰ってきたら許してやったのに。ああ、もう無理だな、悪いな」


 思わず振り向いた目は、目の奥が暗く、怒りのような悲しみのようなものと底知れない執着のようなどろっとしたものが感じ取られた。


「ご、ごめんなさい……!」


 恐ろしい目だった。

 ジャンも今回の娼館の任務は心配していたし、今回こそ本気でリシャールを怒らせたかもしれない。


 彼はまだマリーの事が好きだ。

 飽きられてなんかない。


 好きな子がこんなはしたない格好で娼館に居たら嫌に決まっている。

 誰にだって嫌な状況なのに、監禁まがいのような行動をする彼にそれをしてしまった。

 普通に恋人なら許してくれないかもしれないが、逆上するかもしれないが、彼ほどひどくないだろう。

 仕事仲間の男性と話すだけで怒るような人。

 いきなり同居を勝手に決めたり、婚約の手続きをする人だ。

 普通ではない。


 今、何を考えているか知るのが怖い。

 声音と表情と目の奥と、いつも通りの会話が不自然で怖い。

 何故、今まで気づかなかったのか。

 普通の恋人は、非難する事はあれど、無理に笑ってこんな追い詰めるような底知れぬ恐ろしい雰囲気なんてない。

 よりによってリシャールにばれるなんて。


「その頭ではなーにもわからないだろう。私がどんな気持ちでここに来たのか。貴様を買ったのか」

「ごめんなさい、殿下、でも私も仕事でなきゃこんなとこ」

「足まで出して、これは私に対するいやがらせか? ああ、やけに薄い服だな」


 表情にどんどん怒りが現れて来た。

 リシャールは片手で太ももに触れ、先ほど面白半分で塗って遊んでいた潤滑剤を指ですくう。


「潤滑剤で遊んでいたのか? やる気あるな」


 ばん、と簡単にマリーは寝台に寝かされ、視界が反転した。

 リシャールは足首を持ち上げて、一思いにマリーの指を噛んだ。


「い、痛い……!」

「悪いな、つい。でも私はもっと痛い」


 噛んだ足の指を丁寧に舐めてくる。

 マリーは痛いのにゾクゾクと身体が震えてしまった。

 舌はとても熱くて柔らかくて、足湯より火照りそうになる。

 抵抗すると、足首を掴まれて、もっと執拗に指間や足底をいやらしく舐められる。

 王子が修道女の足を舐めるなんて、あっていい話なのか。


「純粋そうな顔して、そう言う事に結構興味があったから、引き受けたんだろう? 私にモデルになってくれ、絵を描かせろとか言うくらい積極的だもんな。どうせ、男の体でも見たくなったのだろう。だったら、私の体でいいだろう?」

「あ、ち、違います! 殿下は本当に美しい顔で描きたかったんです。これは好奇心で任務に参加したのもありますが、他の男性とそういう行為する予定ではなく」

「じゃあなんだ?」

「もし、犯人らしき人物が現れたら、すぐお香で眠らせる予定でしたし」

「ああ、あれか」

「そう、あれです、あれ……え?」


 お香の火が消えていた。

 ということは。


「私じゃなかったら、貴様は終わっていた。確実に事に及ばれていただろう」


 リシャールの言う通りだった。

 いつ、火が消えたのかすら気づかない間抜けっぷり。

 マリーは、自分でも呆れた。


「私って、ああ、もう、ダメだわ。嫌……」


 自身の無能さにマリーは頭を抱えて、ひれ伏した。


(もし、犯人だったら、あああ)


 こんな任務ひとつまともにできない自分に失望していると、リシャールが肩に手をポンと置いて言った。


「そんなに落ち込むな。済んだことは仕方ない。誰だって失敗はある」


 取ってつけたような励ましだった。

 マリーにはリシャールが同情ではなく、呆れているようにも見えた。


「殿下、心がこもってません」

「どうやって心を込めて励ませと言うんだ。無理がある、貴様の失態だ」

「ですよね」

「ああ、でも、一回終わっていたと思えば、これからの行為に前向きになれるだろう」


 一瞬にして気を取り直したリシャールがまたマリーをベットに縫い付けた。



 リシャールのいう前向きとは、これから行われるであろう行為に対してのことだろうか。

 マリーはぼんやりと思った。


(ほら、また執拗に、足を舐めに来た)


 ぺろぺろ、美味しそうに、まるで食べられているみたいだ。

 太ももなんてちゅーって強く吸い付いてきて、痣が出来そう。

 今日はいくつ痕を作るのだろう。


(でも、前向きって、どういうこと?)


 一回死んだと思えば、もう怖い物はないと言うやつかな、と考えたところで、マリーは気づいた。


(いや、それとこれとは話が違う……!)

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