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彼女を撫でるように

 後悔は過去を思い返すからするのだ、とリシャールは思う。


 その時は最善だと思い行動しているはずなのに、時間が経ってから「ああすればよかった」「そうすれば上手くいっていたのに」と過去と掘り起こし、グチグチいう。

 胸を炙られるような痛みを伴うような行為を自らすすんで行うそれは、自分を苦しめることしかしない、と。


(だからと言って簡単に過去と切り離して今を生きるわけにもいかないが……)


 5月の半ばだと言うのに、雪がちらつく真夜中。

 寒さからか上手く寝付けず、リシャールは昔の夢ばかり見てしまい、嫌な気分だった。

 雪国であるローズライン王国では珍しいことではないが、昼間は日差しが暖かくすっかり春の気候だったので油断していた。

 最近は雪より雨ばかりだったから。

 窓の外はうっすら雪が積もっていた。

 いつも寝つきの悪い夜に見るのは、幼いころの辛いあの日々だ。


 いつも息子を乳母に預けっきりで、年齢はとうに三十を超えているはずなのに、あどけなさが残る淡い金髪のか細い女――病弱な母が、寝台の上でリシャールに透き通るほど綺麗な声で言うのだ。


「ピアノが上手になったわね。……いい声ね。私はあなたの天使の様な綺麗な歌が一番大好きよ」


「またジャン君と喧嘩したの? 意地なんて張らないで、ちゃんと仲直りしなさい。……王族のプライド? そんなチンケなものは無価値で一円にもならないから、すぐ捨てなさい」


「絵の展覧会があるの。母さんはいけないから、リシャール行ってきなさい。テオとジャン君の分の券ももらったの。絵はいいわよ。見ているだけで、物語のように人を癒してくれるわ。あなたのピアノもそう。芸術は人生を豊かにしてくれる」

 

 母は病に侵され、いつも咳をしており、閉じ込められる様に離宮に一人暮らしていた。

 部屋はいつもアルコールの匂いが充満し、家具はリシャールが座る椅子一脚、壁際に置かれたピアノ、誰かが母の為に描いた絵が数枚飾られているだけの部屋だった。

 今思えば、王妃なのに極力部屋にものを置かないのは、咳による消毒の手間を減らすためだったのだろう。

 彼女なりの気遣いだったのかもしれない。

 食事はいつも半分も食べないうちにむせるため、少し顔を出した帰りに残飯を下膳するのがリシャールの仕事だった。

 だから彼は子供の頃、彼女の事を母親のくせに口だけだして何もしてくれない、たまに体調のいい日はピアノを教えてくれるだけの人だと思っていた。


 歌が上手いと父が語っていたが、病気のため歌う事もなく、リシャールは彼女の歌をほとんど聞いた事がなかった。

 折れそうなくらい細い身体、料理なんかしたことがないような綺麗な指、日の光なんて浴びた事が無いような白い肌、儚く笑う少女の様な母より、ジャンの母の方がよっぽどリシャールにとって身近な存在だった。


 今思えば、病弱な体の母にとって、音楽だの、絵だの、文学だのそんなものが彼女の支えだったのだろう。


 母の思いも虚しく、悲しい事にリシャールはそのどれにも価値を見出す事は出来ず、教養だけ身に着けた。


 だって、ピアノを弾いても心は癒されないし、歌っても聞いて欲しいと思える人はいない。

 皆が絶賛する愛の絵を見ても、自分を愛してくれた人が居なければ感情移入もできないし、嘘くさい愛の物語もそう。

 リシャールにとって、愛の土台がない自分には親子の愛も恋人の愛も、どれも共感できないものだった。


 では、いつもリシャールの心を占めている感情は何だろうか。


 それは言うまでもなく、後悔だった。


 今更過ぎる、昔の後悔。

 思い出して自分の首を絞めるだけの後悔。

 リシャールは、まだ話せた頃の母に対して後悔はない。

 あまり接点のない人だったけど、自分なりに彼女に合せ、彼女が望むように芸術を嗜んだ。


 リシャールの人生における一番初めの後悔は母がもう口を利けなくなったあの日からだ。


 今でもはっきりと思い出せるのは、母の蒼白な顔、シーツに染みついた吐血、骨の浮き出る胸元。

 そして、愛する人を失いそうになり気が触れた父の狂気的な甘い微笑みだ。

 あの時、リシャールの父は恐ろしい事を命令した。


「リシャール、君ならできる。お母さまを永遠に僕たちのもとに居てくれるように、魔法をかけてごらん」


 リシャールは、あの時はなぜか母が良く弾いてくれたセレナーデの旋律が幻聴のように聞こえた。


「大丈夫。君は天才だ。僕は残念ながら君ほど力がない。頼む。家族だろう?」


(家族だからなんだ? お前たちは血筋だけで、私の好みもなにも知らないだろう)


(今日、私が何をしていたかとか、何が嫌いで好きとか興味がないだろう?)


(なぜそんなに偉そうに命令しているんだ、この男は)


 リシャールは心底家族と言う言葉が嫌いだった。

 彼の気も知らないで父はまたとてつもない発言をした。


「彼女もきっと話せる様になったら君に感謝するはずだ。ありがとうって。まだ死にたくなかったの、あなたたちと居たかったから生き返れてうれしいって」


 まるで独り言のような、言い聞かせるような王である父の口ぶり。

 一方的に母を愛した哀れな男。

 平民だった母に惚れ、地獄の果てまで追い回す勢いで追いかけ、皆の反対を押し切り正妃にし、母にいつも苦労させた男。

 母は生きていたいと本当にそう思うだろうか。

 こんな離宮に一人で暮らし、自由の利かない身体で歌も歌えず、王妃の役目も果たせず、国王に見初められ恋人と別れさせられ、愛しい人も抱けない人生が続く事を望んでいる?


 やっと死が彼女を楽にしてあげられるのに。


「さぁ、リシャール。魔法でお母様を生き返らせるんだよ、やってごらん」


 虫の息の母を、彼女の息子であるリシャールに絶対零度の硝子付けにさせて『死の一歩手前にとどまらせること』が幸せのはずもない。

 リシャールは首を横に振って、小さな声で訴えた。


「私は……したくない」


 リシャールは例え王の命令でも、そんな残酷な事をしたくなかった。


「そうか、残念だ。じゃあ、テオにさせよう。だが、テオは身体がもつかな?……君の劣化版だしな」


 それは、残酷な低い声だった。父は言うまでもなく、本当に自分の事にか考えていない男だった。


 氷魔法はただでさえ体に負担がかかるし、身体不調の副作用も出やすい。

 幼くまだ魔法に不慣れなテオフィルは術を使い命を落とすだろう、とリシャールは理解していた。

 幼いテオフィルは、きっと王に逆らえないだろうし、この行為の残酷さも分からない。


「……分かりました。私がします」


 リシャールが王である父に逆らえるはずなどなかった。

 リシャールはこのようにして父に加担したのだ。

 母に残酷な仕打ちをした。


 リシャールのした事は母を氷魔法で凍らせ、死ぬ間際に冷凍保存のように水晶漬けにしたのだ。

 それは彼女の意思なんて関係なく、無理矢理、永遠に生にしがみつかせる行為だ。

 水晶づけなんて一見は綺麗そうに見えるが、母は苦しいだろう。瞬きひとつできないのだから。

 これが一番初めのリシャールの後悔だ。


 その日から父は虫の息で死んだように水晶の中に保存される母を、気持ち悪いくらい怪しい熱のこもった顔で眺めていた。

 今思えば、あの嫉妬深い男は動けなくなった妻がやっと自分の物になったと思い、満足していたフシもあった。


(あんなふうに、なりたくない)


 いつか大人になって恋をすることがあっても、いくら好きな人が出来ても、自分の欲でしばりつけるような愛し方はしたくない。

 権力を使い、追い回すことなんてしたくない。

 狂うほどの恋なんてしたくない。

 人を愛する恐怖すら感じたのだ。


 それから数年後、父は古代文献を漁り、母を健康な人と同じように生き返らせる禁術を見つけた。

 そして、リシャールにこう命じた。


「手始めに死人でも生き返らせて来い。君ならできる。……君は人間の領域をとうに超えている」


 今回もリシャールは、逆らえば弟に何をしでかすか分からない父に反論できず、数名の近衛兵を連れて王命を実行するしかなかった。


 父の命令で、リシャールが初めて墓荒らしをしたのは王都にある戦死者の墓だった。

 その中でも名前が彫られている英雄の棺を掘り起こした。 

 英雄は100年前の戦争で戦犯として火あぶりにされたらしいが、市民のたちが亡骸を集め丁重に埋葬したらしい。 

 亡骸はほぼ灰というか、形をとどめることなく無残な物だった。

 埋めてしまったら、すぐに土に帰りそうなくらいに。

 リシャールは聖水で清めた短剣で指を傷つけ、その血を亡骸に垂らした。

 呪文を唱えると、辺りには霜が立ち込め、いつの間にかその中から全裸の青年が座り込んでいた。

 銀髪で赤瞳の青年は鋭い眼光を辺りに向けた。

 棺の中に座る青年を取り囲むように、王家の紋章が入った鎧を纏う数名の騎士とリシャールはいた。


 青年はリシャールたちをあざ笑うかのように

「人を生き返らせてもいいと思っているの? 騎士さんたち王家の紋章つけているってことは、王様の仕業? 世も末だねぇ」


 青年はイライラしたように長い銀髪を掻いた。

 本当に生き返ったと護衛の兵士たちが動揺する中、リシャールは憤慨そうに答える。


「私だってこんな事したくなかった」

「あれ、もしかしておれを甦らせたのって、女の子みたいな顔した僕?」

「僕じゃない。私はローズライン王国第一王子リシャール・スウルス・メイルアンテリュールだ」

「あら、ま。……いかれた犯罪者かと思えば、かわいい王子様だったなんて奇想天外。人は見かけによらないなぁ、勉強になったよ」


 青年は全裸で前を隠すことなく颯爽と立ち上がり、リシャールをのぞき込む。


「前ぐらい隠せ、無礼者」

「だって服がないんだもん。もしかして、かわいい王子様、俺のが立派で悔しくなっちゃった? あは。君まだ使い物にならないくらい子どもだもんね。大丈夫、大人になれは君のそれもちゃんと立派にーー」

「誰か何でもいいから布を持ってこい! こいつに服を着せろ!」


 正直、生き返らせてみたものの、すごく軽薄な死人で驚いた。

 人生で出会った事が無いようなタイプ。超下品。

 下半身を自慢するような大人になりたくない。


 リシャールは、彼に簡単な羽織を渡し、王命である事、死んでから100年経ったことを伝えた。


「俺、別にもう一度人生やり直したいとか願望あんまりなかったから、ありがとうは言わないよ?」

「感謝してくれなくて結構。貴様も迷惑だっただろう」

「ん? 迷惑ってこともないし? まぁ、また女の子と遊べるのは嬉しいな。ゾンビぽくないし、下半身も正常そうだ。やっぱり、ありがとうと言うべきかなぁ?」

「貴様、下品な極みだな」


 せっかく生き返ったのにほかの感想はないのか?


「じゃあおれは王子様の血で生き返る契約したってわけだから、君が今度の上司?」

「いや、術がどれほど完成したか確認したかっただけで、たまたま貴様の残した記録が書庫から出てきて興味を持っただけだ。あれは冤罪だろう。歴史の事実を話してくれたらあとは自由に生きていい」

「まじで?」


 青年は目を見開いた。

 正直、実験台は誰でもよかったのだ。

 ただ、たまたま王家による政治的な犠牲者を見つけ、歴史の為の死でもリシャールにとっては納得いかないもので、真相解明のために彼を選んだに過ぎない。


「なぜそんなに驚く?」

「あははは。おれ、実は、あんたは知っているかもしれないけど結構戦争に関してはプロだから殺し合いとかさせるために生き返らせたと思ったんだよ」


 青年は笑っているようだったが、かすかに瞳に涙がにじんでいた。


「いいね、君。うん、気に入った。どうせ生きていたら腹も減るし仕事も必要だ。君が雇ってよ、王子様」


 リシャールにほぼ裸の男がしがみついた。猫みたいに、すりすり擦り寄る。


「やめろ、気色悪い。不快だ、変な物が当たる!」

「顔も綺麗だし、将来は美人さんだよ、君。いや、殿下。ご主人様がいい? おれのことは下僕って呼んでよ」

「殿下の方がましだ。早く私から離れろ!」


 青年――アルフレッドを甦らせたのは2番目の後悔だった。

 その日から執事だと言ってリシャールの周りをうろちょろし始めたのだ。

 数年前にフレッドが「ちょっと修道院に行ってくる」と言って修道士になったのは驚きだったが、彼の人生だから勝手にすればいいとしか思わない。


 今思えば、純情だったジャンが女好きになったのはフレッドの影響だ。

 リシャールたちが少年だったころからフレッドは年を取らず、今と何も変わらない大人の姿だ。

 ジャンと、いつもリシャールに付き添っていたフレッドとは関わる時間が多く、大いに悪い影響を受けた。

 ジャンの母さんである乳母に大変悪いことをしたと言う自覚はある。


 しかし、フレッドは本当に二度目の人生を送りたかったのだろうか。


 見た目は普通でも年は取らないし、今のところ不死だ。

 誰かともに人生を歩めるわけもない化け物だ。 


(それなら、土に帰った方がよかったのではないか?)


 最近フレッドが王宮に顔を出さなくなったのも、見かけが変わらないからだろう。

 年をとらないフレッドは当然不審がられる。 

 詳細を知っている一部の者たちにはゾンビだと言われる。

 だから、フレッドは修道院くらいしか行き場がなかったのかもしれない。 


(でも、女遊びして楽しそうだからやはり本人は気にしてないのか? 昨日だってローゼをベタベタ見せびらかすようにいやらしく触っていたじゃないか)


 ただ言えるのは、夜中からフレッドの事を思い出してしまう今日は、きっとろくな日でないことだ。




 そして今。

 リシャールは、最近目の前に現れた小娘に後悔させられそうな気がしてならない。

 胸騒ぎ、というやつか。


 気が付けば辺りは白んできていた。

 もう夜が明ける。

 日が昇ったら、リシャールは一人で部屋で朝食をとった。

 昔は一緒に食べていた人々はもういない。

 ジャンは女のところ、たぶん娼館。

 フレッドはローゼの屋敷。

 テオフィルとサラは自室だろう。


 食事が終わり、不意に庭に視線を走らせると、貴族の親子が仲睦まじい様子で散歩していた。

 父親が子供を肩車し、母が幼い子を抱いている。

 時折視線が交わり、嬉しそうに微笑んでいる。


(うらやましいな)


 穏やかで、暖かくて、自分の人生になかった時間。

 今まで家族連れなど気にも留めなかったのに、最近は微笑ましく思ってしまう。

 近頃の日々は少しだけ生暖かい感情が降り注いでいる気がする。


(誰のせいだろうか。ああ、そうか、私は……家族がほしいのか。そのためにやっぱり君は必要だな)


 一人では家族は出来ないし、家族は作るものだから。

 リシャールは痛感する。

 結婚式用意早めにしておいてよかった、と。

 

(今日も彼女に会いたいな)





 リシャールは朝の支度を整え、図書棟に向かった。

 その頃には、雪は大分溶けていた。


「殿下、例の品です。個人出版の物も多く入手に時間がかかりました、申し訳ありません」


 年齢不詳の司書はリシャールが頼んでいた本を手渡した。

 童話、純文学、大衆向けの恋愛小説、植物図鑑。

 ジャンルはバラバラだ。

 使用人に頼んでみたが、取り扱いしている店が少なく、本に詳しい彼に頼む事にしたのだった。

 幼いころから司書を勤める彼はずっと容姿が変わらない。

 リシャールは以前司書が美容に対してはかなり気を使っていると本人から聞いた事が有る。

 美容法というやつだ。優美な恋多き司書は、恋も美容法らしい。


「すまないな」

「しかし、殿下の趣味が見えませんね。内容はどれもマイナーですし、考えられるとすれば、物語以外の興味でしょうか」

「想像はお前の自由だ」

「ははは」


 リシャールは統一性のない本を受け取り、早々執務室に入った。

 そして彼は椅子に座り、新作の本の初めから読むことなく、頁をパラパラめくった。

 物語は後で読めばいい。

 物語の挿絵は細い線で描かれており、精巧に描かれた花だったり、物語の可憐な少女だったりする。  


 線を指でスーッと撫でると、胸の中にじんわり暖かい熱が広がる。

 まるで彼女に会っているようなそんな気分だった。


(私は、父のように好きな人から時間を友を恋人を家族を――すべてを奪いたくない。もし、彼女が本当に私の元を離れたいのなら去ればいい。その時は潔く手を放してやろう)


 リシャールは自分は一生彼女だけを思い、永遠に眠る瞬間まで恋していたとしても、彼女は自分なんかを気に掛ける必要なんてないと思っていた。


(でも、少しでも私を思う気持ちがあるなら、その時は)


 リシャールの理不尽さに彼女が嫌がっても、泣いても。


(世界の果てまで、見つけに行くから、待っていてくれないか)

 

いつになく、重めでした。

最後まで読んで下さり、ありがとうございます。

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